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精神世界へのやさしい道案内コミュのヤーコプ・ベーメ「難解だがあえて紹介」

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中学生のころ、ドストエフスキーが好きで「地下室の手記」「罪と罰」などを

精力的に読んだ。そして「ドストエフスキーの世界観」という本を出している、

ロシアの「実存的キリスト教」の哲学者「ベルジャーエフ」を知る。

高校生のころには「ベルジャーエフ」の「孤独と愛と社会」とか熱心に読んでいた。

そしてベルジャーエフの著作のなかに、

ドイツの神秘家(靴職人)ヤーコプ・ベーメに関する言及があって、興味を持ち、

『アウロラ』(あかつき、という意味ですね)を1万円とか、はたいて購入。

●だが「難解」で「悶絶」! 錬金術の言葉などを駆使して書かれており、

これは「理解不能」じゃ! オレはあきらめた。

●わたしのことばで、簡単にサマライズすると、彼は「神秘体験」をして、

「世界の創造」をヴィジョンとして、まざまざと「観た」!

●以下、神秘体験の一部を「抜粋」するが、重要なのは「無底」である。

ベルジャーエフは、その著作のなかで、

彼自身の思想がベーメの思想に近いことを認め、

神以前から、存在していて、神自身にも、どうにもできない「無底」ゆえに、

世の中に「悪」があることを説明できるのだ、ということが、とりあえずのポイントだ。

以下、Wiki の記述より

●その記述は神の起源にまでさかのぼる。

神の奥の奥、三位一体の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。

無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、

また底がないのであるから何かを根拠づけることもない。

このどこまで行っても何もない無の中には

他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。

ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。

あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。

いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。

あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、

この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、

無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。

意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという。

●ああ、やはり「難解」で「悶絶」! とても「すじ」を追いきれない!!

●あと、たぶん大事なポイント。

ベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、

神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。

その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。

世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである。

●ヤーコプ・ベーメ
Wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A1

ベーメは、1599年以降ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける。
自己の神秘体験をつづった『アウローラ』によって
一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する。

ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、
1612年最初の著作『アウローラ』が完成する。
ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、
「12年もの間それ(=神秘体験)に関わった」と述べる。
正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとって
この作業が困難を極めたことは容易に想像される。
ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って
晦渋であることを認めているほどである。
しかし同時にこの著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも
広く認められている。
ベーメは上掲の書簡において『アウローラ』について
「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、
しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。

神の顕現

ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。
ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、
わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。
「すべてのものは神である。」と言ってしまえばそれは単純な汎神論になる。
しかしベーメの汎神論は決して単純ではない。
名状しがたきヴィジョンをどうにか捉えようと特殊な用語を駆使し、
神の現われをダイナミックに描写しようとする彼の思想は複雑難解なものである。
その記述は神の起源にまでさかのぼる。
神の奥の奥、三位一体の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。
無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、
また底がないのであるから何かを根拠づけることもない。

このどこまで行っても何もない無の中には
他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。
ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。
あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。
いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。
あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、
この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、
無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。
意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという。

意志は底に立つことで外に向かうことができるようになる。
底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる。
あるものがあるものとして認識されるためには区別が必要なのである。
ベーメによれば神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする。
さて、中心と円周が明確となることによって智慧の鏡と呼ばれるものが生じる。
鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、
それ自体は何かを産むことのない受動的なものである。
智慧の鏡は別名ソフィアという。
ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女の性質をもつ無である。
無であるというのはソフィアが存在から自由なものだからだ。
この自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、
鏡に自分自身の姿を映す。
ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する。
イマギナチオによって意志は孕み、
精神としての神と被造物の原形が鏡において直観されるのである。

永遠の自然

これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成されるのだが、
この後直接に我々が目にするような自然が創造されるというのではない。
次いでベーメが語るのは、可視的自然の根源たる永遠の自然である。
彼は七つの霊もしくは性質によって万物が形成されるという。
性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)である。
これは単なる語呂合にも思われるかもしれないが、
これから述べるようにベーメにとって言葉やひびきは
存在の本質と深く関わったものである。
内容からすれば、存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは
始元の融合からの乖離として苦であるという意味にとれる。

まず第一の性質、それは欲望であり、内側に引きこもる働きを持っている。
渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇となる。
既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理である。

第二の性質は第一のものと逆に外へ向かう運動、流動性。
これはつきさして暴れ、引きこもる力に抗して上昇、逃走しようとする。
この性質は『アウロラ』では甘さと呼ばれ、他では苦さと呼ばれる。

第三は上の二つの力の張り合いである不安。
内へ向かう力と外へ向かう力は
互いに反発しあい、一方が強くなれば他方も強まるので安定することがない。
それは相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある。
不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す。
以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源である。

さて、第四の性質は熱とか火花と呼ばれ、闇を焼き尽くして光を生じさせる。
この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、
死のうちから生命が現れる。
不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、
そして輝かしい生命を生む。

第五の性質は光であり、熱から出たものでありながらも
焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい。
この性質は歓びと恵みの原理であって、
ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生する。
愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく。

この広がり、すなわち第六の性質はひびき、音、そしてことばである。
内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られるのである。
ひびきは認識を可能にし、自然の理を明らかにして知と関係する。
精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、
理に至って自らの展開を十分に認識する。

そして最後の第七性質においてこれまで展開してきたものに形が与えられる。
このようにベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、
神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。
その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。
世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである。

ドイツ観念論の完成者ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。
対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくという彼の哲学は
ベーメの内にその原形を有していると言える。
ただしヘーゲルはベーメの「混乱したドイツ語」には辟易していた。
この項では概略を見てきたが実際にはベーメの思想はさらに複雑で、
錬金術の特殊な用語や記号との対応があり、
言葉の使用法は通常のものとは大きく離れている。
世界の内に甘さや苦さが働いていると言われても、
普通の人間は奇妙な印象を受けるだろう。
彼が神秘学にかぶれた「無学な靴職人」とそしられるとしても、
その晦渋な文章を考えれば理由がないわけではない。

ああ、疲れた、以上!!

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