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保守からの脱原発運動コミュの西尾幹二氏が、脱原発の立場を明確にしました。

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西尾幹二氏は、藤井厳喜氏等と並んで、保守論陣の中に在って、脱原発派の立場に立つ論者のお一人です。



その西尾幹二氏が、以下の様に述べて、原発問題に関する産経新聞の姿勢を批判しておられます。



西尾幹二のインターネット日録
       ↓
http://www.nishiokanji.jp/blog/


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(以下引用)


西尾幹二のインターネット日録
WordPress ME 2.1.1 - Capriccioso2011/5/22 日曜日「脱原発こそ国家永続の道」について


 原発事故から心が離れない。私は事故直後にすぐ判断した。日本の将来のことを考えて「脱原発」こそ目指すべき方向である、と。産経コラム正論(3月30日付)にも、『WiLL』6月号の拙稿「原子力安全・保安院の『未必の故意』」にもそう書いたし、4月14日のチャンネル桜の討論会では福島の学童集団疎開さえ提言した。
 福島第一原発の情勢の悪化を今も非常に心配している。狭い国土における「内部被曝」は人体におけると同様に始末に負えない。それに使用済核燃料の最終処理の見通しの立たない原発は、われわれが子孫に伝えるべき美しい国土を永久に汚辱し侵害するおそれがあると考えられる。私は「守る」とは何か、をしきりに考察した。派遣されたアメリカの大艦隊、「ともだち作戦」の真意と現実、東アジアにおける日本の陥った危ういポジションをどう考えるかも、問題として一体化している。
 こうしたすべての点を踏まえて『WiLL』7月号(5月26日発売号)に「脱原発こそ国家永続の道」(12ページ立ての評論)を発表する。ネットの読者には申し訳ないが、今のこの時点での私の考え方を集約した論考はこれになるので、ご一読たまわりたい。また5月26日より以後に、同論文へのコメントを今日のここに投稿していたゞけるとありがたい。
 事故直後から私は「脱原発」を唱え始めたと書いたが、私を取り巻く言論空間は必ずしも私と同じではなかったし、今も同じではない。あるいは無言と沈黙がつづいている。産経新聞は原発支持であり、『文藝春秋』と『正論』は態度を示さないし、『WiLL』6月号も雑誌として「脱原発」の声は上げていなかった。代りに『世界』がよく売れ、増刷に増刷を重ねていると聞く。
 事故以前にすでにあったイデオロギーの対立が事故以後に引きつづき持ち越されていることは明らかだが、資源エネルギー問題などをイデオロギーに捉えられて考えるべきではない。できるだけ感情的にならずに合理的に、クールに考察を進める必要がある。人は体験から学ぶべきものである。これほどの大事故が起こった以上、心が震えない人はおかしい。今までのいきさつに囚われていてよいかどうか、原発について漠然と抱いていた固定観念をいったん白紙に戻す謙虚さが求められている。
 けれども保守系の言論界を見る限り、歯切れが悪い。原発は現代の産業維持に不可欠の存在と思い定めていて、梃子でもそこから動かない。もとより私とて原発は明日すぐに全廃することはできず、上手に稼動させ少しづつ減らしていく以外にないと考えている。しかし原発の新規増設はいずれにしてももう望めまい。望みたくても国民が許さない。
 いろいろな「悪」がこれから白日の下に曝されるようになるだろう。お金を積んで説得した地域対策費、すでに巨額にのぼり今後さらにどれくらいの額になるかも分らない廃棄物処理コスト、政治家やマスコミにばらまかれたこれまでの反論封じ込め費――これらが次々と暴かれるであろう。また暴かれる必要がある。
 原子力安全・保安院長に斑目という人物がいる。You Tubeで彼の発言を聞いて、その余りにあけすけな卑劣さに、私は腰を抜かさんばかりに驚き、にわかに信じられなかった。彼は廃棄物の最後の捨て場を引き受けてくれる自治体はあるのかという質問に答えて、「お金ですよ。最後はお金です。ダメといわれたら二倍にすればよい。それでもダメなら、結局はお金ですから、五倍にして、否という人はひとりもいません。」
 巨悪ということばがあるが、巨大なものはどうしてもグロテスクになる。電力会社は日本経済の高度成長を支えるうえで決定的役割を果してきたが、度が過ぎると、自己抑制のコントロールを失う。台所の「オール電化」の叫び声がわが家の戸口にも襲来し、東京ガスを一気に追い払おうとしていた。東京電力のキャンペーンのしつこさは事故のほんの少し前まであった目立つ出来事だった。すべてはやり過ぎなのである。原子力発電が無限の利益もたらすという幻想に今度歯止めがかかったのは良いことだった。
 国民は健全な常識があり、賢明である。おかしいのはいつの時代にも知識人である。昔は左の知識人が常識を踏み外していたが、今はどうであろう。保守系の知識人や言論紙が少しおかしいのではないか。今日(5月20日)の産経の社説は、いま徹底的に批判されるべき(東電以上に批判されてしかるべき)原子力安全・保安院をしきりに擁護しているのには驚いた。


菅総理を批判するのは今は誰にでも簡単にできる。民主党がダメなことは今では高校生でも弁じることができる。中国の悪口ももうそろそろ底をついた。こういう方向のこと、安易なことだけを元気よく語りつづけてきた有名な誰彼の教授、評論家、女性ジャーナリスト諸氏をみていると、原発の是非についてはなぜか固く口を噤んでいるのがかえって異様で、目立つのである。
 保守の論客たちは心を閉ざしている。何かに怯えて見て見ない振りをしている。原発事故の大きな悲劇と不安に対し、人間としての素直で自然な感情で対応しようとしていない。私は過日ソフトバンクの孫正義社長の講演をUstreamで聴いたが、さすが噂にきく大きな人物だけのことはある。真剣に考えていることはすぐ分った。国民の一人として心が震えていた。私は孫という人をこれまで誤解していた。皆さんもぜひ講演を聴いてご覧なさい。
 名だたる保守系知識人、名誉教授や有名な論客がたまたま一堂に会したシンポジウムがあったそうで、四月の末か五月の初めらしいが、「原発は必要だ、一度ぐらいの失敗でオタオタしてはいけない」の大合唱になり、会場で聴いていた人から私に連絡があった。「先生、僕は保守派が嫌いになりました。まるっきり反省がないんです。有名なK先生が、国鉄に事故ひとつない日本の技術をもってすれば、原発の事故なんて今後起こらない!事故が現に起こっているのにそう言うんですよ。」
 日本の技術が秀れているのは確かだが、国鉄にできて原発にできるとは限らないのは、当「日録」の粕谷哲夫さんのゲストエッセー(5月12日)を一読いたゞきたい。また、私の4月22日付日録に付せられた21番目のコメントをお読みいただきたい。原発技術はアメリカ直輸入で、国鉄などとはいかに違うかを考えさせてくれる秀れた内容のコメントだった。
 日本の技術は世界一だというのはひとつの「観念」である。この観念が成立するまでには力量と人格と哲学を具えた技術者たちの戦いの現実がある。日本の原子力発電にそれがあったかどうかが今後問われるだろう。
 保守系知識人は「観念」をう呑みにし、背後の「現実」を見ていない。知識人は左右を問わず、いつもそうである。「現実」から目をそむけて「観念」でものを言う。
 何も勉強しないで原発は絶対に欠かせないときめこんでいるとか、東電叩きは歪んでいる(東谷暁氏)とか、原子力保安院は一生懸命やっているとか、津波対策だけすればよく地震は心配ない(中曽根康弘氏)とか、最近のこういう声に私は思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じているということを申し添えておく。
 反原発を主張する『世界』掲載の論文や小出裕章氏とか広瀬隆氏とかの所論はどれも力をこめて何年にもわたり原発否定の科学的根拠を提示しつづけて来た人々の努力の結晶なので、その内容には説得力があり、事故が起こってしまった今、なにびとも簡単に反論できないリアリティがある。例えば教授ポストを捨てて生涯を危険の警告に生きた小出氏などは、話し方にもパトスがあり、人生に謙虚で真実味があり、原子力安全・保安院長のあの人格のお粗末ぶりとは違って、説得力にも雲泥の差があるともいえるだろう。
 けれども一つだけ総じて反対派に共通していえるのは、大抵みな「平和主義者」だということである。彼らが軍事ということをどう考えているのかが分らない。ここが問題である。
 福島第一原発の事故の現場について誰も言っていないことは、核戦争の最前線に近いということである。ロボット大国のはずの日本製ロボットは役に立たず、アメリカの戦場用ロボットが初めて実用に耐えたことをどう考えるべきなのか。保守系言論人は、ここに着目すべきなのである。日本の技術は世界一だから一回くらいの事故でオタオタするな、などと空威張りするのではなく、世界一の技術がなぜ敗退したのか、そこから考えるべきである。武器輸出ひとつできない「平和病」の状態で、原発を世界に売る産業政策を口にするのはそもそも間違っていたのではないのか。
 私の「脱原発は国家永続の道」はこの矛盾の轍の中に飛び込んだ論考である。5月26日の『WiLL』7月号をお読みいただきたい。そして、コメントはここに記して下さい。


追記 『WiLL』6月号の拙論の題名「原子力安全・保安院の『未必の故意』は、私がつけた本来の題は「最悪を想定しない『和』の社会の病理」でした。花田編集長は今回は珍しく、題名をひねって取り替えたのは自分の失敗だった、と反省していました。


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西尾幹二氏に心からの敬意を表します。




コメント(1)

私も西尾幹二氏に心からの敬意を表させて頂きます。

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