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Casper David Friedrichコミュのあなたもフリードリヒ好きなの??

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フリードリヒファンいるかなぁってココを作ってみました。

私は、日本語大辞典の「ロマン派」って項目の参考写真に、このコミュニティトップにしている「樫の森の修道院」(そのときは「アイハンベルトの祭壇」て題名になってたけど)が載っていたのを見つけ、なんだか毎日眺めていました。

木の枝の感じや、緻密なところが好きです。どの絵を見ても、なんだか自分がその中にいるようで、泣きそうになったりするんですよね。絵の意味は奥深すぎて、すべては理解できていませんが。

では、よろしくお願いします!

コメント(30)

はじめまして。
もうひとつフリードリッヒのコミュニティがあるようですが、こちらの方が静かにお話しできそうでしたので。:)

フリードリッヒの絵画は「遠い」ですね。果てしなく遠い。
何もかもがあまりにも遠くて、<日常>に隠されていた孤独が浮き彫りにされていきます。

kotra_mさんの悲しみとはまた別のものかもしれませんが、僕はそのような気持ちになります。
それは、りゅうちゃんさんが言うような「自然と人間の隔たり」にある神秘性のようでもあります。

もっとも魂を惹かれたのは『Large Enclosure』(1832)。
はじめまして。

最近はテレビなどでもフリードリヒの絵が紹介されているようですね。
私は「海辺の修道士」という作品が一番好きです。
りゅうちゃんさんの紹介されているものと同一の作品でしょうか?

この絵を見ると、人は誰でも、とてつもなく大きなものに向かい合っていて、
それはまた自分自身でもある・・・
というような気持ちになります。
こんばんは。

フリードリッヒは神そのものを描くのではなく人間を超越する「とてつもなく大きなもの」を描くことで神秘性をつくりだそうとしていたのだと思いますが、それが「また自分自身でもある」というのはおもしろいですね。
「とてつもなく大きなもの」に驚愕し畏怖することを可能にしているのはまぎれもなくこの主観なのですから、確かに自分ですら(いや自分こそが)もっとも遠く広大であるのかもしれませんね。
はじめまして、よろしくお願いします。

芸術とかはよく分からないのですが、フリードリヒファンなので参加させていただきました。
フリードリヒの描く顔はあまり好きじゃないですが、あの変わった遠近感(何て言うのかな?)に惹きこまれます。
はじめまして。

私ももう一つのフリードリヒのコミュニティより
こちらのほうがよさそうに感じたので参加させていただく事にしました。よろしくお願いいたします。

現在大学で西洋美術史を専攻しております。

フリードリヒについての卒論を書くため日々邁進中です。

しかし、メジャーではないため資料も少なくなかなか大変です。

来週ゼミでの発表があるのですが、発表構成も決まらず困ってます。

でもフリードリヒの限りない内面世界を表現した作品が本当に好きです。

だから、がんばります。

たまにここにも現れると思います。よろしくお願いいたします。

では、本当に長々と失礼いたしました。すみません。。

フリードリヒが好きな人と触れ合えるここの存在を知ってとても嬉しいです。

フリードリヒについて豊富な知識をお持ちの方や、ドイツ語が堪能な方がいらっしゃいましたら未熟な私めをご指導ください。
こんにちは、僕もフリードリヒが大好きです。
画面に引きこまれるような、構成が独特だと思います。
昨年、上野にフェルメールが来たときも、そちらを見ずに、
フリードリヒの絵に直行しました。
枝の細密なタッチを近くで見てたら、係の方に、
下がってくださいとしかられました・・。
卒論でフリードリヒを研究できるのは、うらやましいです。
やはり、「オーク森の僧院」とかがいいと思いますが、
海と人を描いた作品では、消失したらしい「別離」も好きです。
みなさま、こんにちは。
久しぶりに来てみるとちょっとだけ盛り上がっててびっくり。:)

フリードリッヒの絵画は、茫漠とした自然を描いたものが多いですが、必ずといってよいほど反自然とでも呼べるような特異点をもっているように思います。例えばそれは、放浪者の背中であったり、曇天に刻まれた十字架であったり、静けさの中を漂う筏であったり・・・。それはしかし新古典主義のあの押し付けがましく語りかけてくる主題などではなくて、むしろ私たちのこころが主題となってカンバスのうえにあふれ出していく、引力の根源であるかのようです。

私たちが知らず知らずのうちに引き込まれていく、あの不思議な力の正体は、そういった特異点にあるのかもしれませんね。

ところでB型さん。論文の主題がお決まりなのでしたら、それをこのコミュニティで共有してみるのはいかがですか?
お久しぶりです。まとまりきれないままゼミでの発表は終わってしまいました。。まぁ、まだこの時期だということで、許される状況ではありましたが・・

ここも盛り上がり始めているようでうれしい限りです。

>大いなる賭さん ご助言ありがとうございます。

三週間以上考え抜いた構成でいけそうなのでテーマも決まりました。

テーマはフリードリヒの“宗教画としての風景と後ろ向きの人物像について”でいこうと思います。

本当は後ろ向きの人物像に絞って書きたかったのですが、それだけでは枚数が足りないのと、フリードリヒの作品について語るにはあまりに不十分だったので、風景画作品の宗教性(山上の十字架など、これまでのキリスト教絵画とはことなるものとしての)についてまずは大きく取り上げ、ついで人物像の作品における変遷をたどって行こうと考えています。


その中で、東洋の山水画との類似性にも触れたいと考えています。(指導教授によるとこの部分が私の論文の核になるのではないかといわれました。)

この部分は具体的に述べると、

・霧などの大気の描写
・遠近法が使われていないこと(フリードリヒの場合あえて無 視している)
・崇高に描かれた自然にたいしての小さい人物像

などなどです。フリードリヒが東洋絵画を知っていたはずはないのですが、あんなによく似ていてとても不思議です。

発表自体はまとまっていないわりには割と好評でした。メジャーな画家でないので興味を持ってくれた人も多かったです〜。

美術史専攻の学生でもあまり知らないなんて悲しいような・・、あえてメジャーでないものに挑戦できるのがうれしいような・・複雑です。

個人的には風景画の中に描かれた人物の役割に特に焦点を当てて執筆できたらと思います。私がフリードリヒの作品に吸い込まれた理由がまさにこれだからです。

まだまだ勉強不足ですががんばります。。

応援よろしくお願いいたします。^^;
こんにちは、B型さん。
僕もフリードリヒは大好きですが、本格的な文献は、やはりドイツ語のものが多いようですね。5年以上前に探したことがあるのですが、書籍は「風景画家フリードリヒ」と、パルコ出版あたりと、画家別の薄いピースくらいしか見つけられませんでした。あとは、フリードリヒを含めた美術展のパンフくらいでした。

フリードリヒと東洋の絵画と対比する視点はすごくおもしろそうですね。自然観や宗教観などで共通する点もあるのでしょうか?
こうして絵にまつわるいろんな話を提供してくれたみなさんと、フリードリヒに感謝です!
みなさま、こんにちは。

B型さん、論文の主題をご提供いただきありがとうございます。

『宗教画としての風景と後ろ向きの人物像について』、素晴らしい主題だと思います。特に「山水画との類似性」はおもしろい視点ですね。

このコミュニティで、わずかでもB型さんの追い風を巻き起こすことができればよいですね!(新しいトピックを立てたほうがよいのかな?)

> ・霧などの大気の描写

同時代の画家で「大気の描写」というと真っ先に思い浮かぶのはターナーですが、彼が大気に揺れる(あるいは大気のように揺れる)主観までをも描こうとしていたのに対して、フリードリッヒは大気も含めあらゆるものを沈黙させていますね。

> ・遠近法が使われていないこと(フリードリヒの場合あえて無視している)

これについては『山上の十字架』(1808)などが典型ですね。観るための足場(「あちら」に対する「こちら」)が用意されておらず、私たちはいつまで立っても主題のもとにたどり着くことができません。つまり、私たちは主題から無限に引き離されていきます。

> ・崇高に描かれた自然にたいしての小さい人物像

これらの人物は、多くの場合孤独で、静かに、自然を見つめています。人物が描かれていない場合と比較するとよくわかりますが、人物(もしくは人間が使う道具)が描かれていると自然にある<遠さ>がさらに増幅されていくようです。

それから、「山水画との類似性」に関しては、東山魁夷(1908-1999)の論文や作品を参考にしてみてはいかがでしょうか。この人の作品、このコミュニティのみなさまでしたらきっと惹かれると思いますよ。;)
 お初です。
 本日このコミュに参加させて頂きました。
 フリードリヒの絵に最初に出会ったのは、数年前にあった絵画好き市民サークルでの勉強会でした。その日のテーマがドイツロマン主義で、講師が彼の絵を数枚紹介してくれました。丘の十字架、廃墟の十字架、氷の海に衝撃を受けました。
 私はLPレコードのコレクターでもあるのですが、彼の絵は結構クラシックレコードのジャケットになってますね。当然ロマン派の作曲家です。確かシューマン、シューベルト、ブルックナーあたりだったと思います。
 B型さんの論文うまく仕上がるといいですね。なんかフリードリヒ版電車男の祭りの予感がしますね。。
私が最初にフリードリヒの絵を見たのは、『ドイツ・ロマン派全集 別巻』です。国書刊行会から1985年に出版されているので、ご存知の方も多いかもしれません。
学生時代、図書館の書庫にこの本が置いてあって、行くたびにこれを眺めてうっとりしてから帰っていました。買うと高いからですが(笑)。

フリードリヒだけでなく、ルンゲなど他の画家の作品も解説つきで多数収録されていて、他のロマン派の画家と比べて読めるのも面白かったです。でもやっぱり私には、フリードリヒの絵がピカイチの存在感でした。
お久しぶりですー。

少し見ない間にさらに盛り上がりを見せていてびっくりしました。

今まで皆さんがおっしゃってくださっていた文献は大体どれも目を通しました(1部はつまみ読み程度のものですが・・)

ただ、東山さんの論文だけまだ目を通していません。前に探したら学校になかったんです〜(涙)

ここではフリードリヒに興味がある方の集まりなので上記で上がった文献以外の文献も紹介します。

主に廃墟関係の文献ですね。廃墟以外の作品も取り上げられてますよー。

『廃墟のエコロジー』、『廃墟大全』などなど読んでみてください。『フリードリヒからロスコへ』もおすすめです。

発表後に気づいたこととして、フリードリヒと山水画のもう一つの共通点は、余計なモチーフを描いていないことだと思いました。

≪海辺の修道士≫は、あまりに描かれているものが少なかったために、抽象的な絵画を知らなかった当時の人はかなり困惑したそうですし。

まだ山水画については勉強不足ではっきりしたことがいえないのですが、

遠近法が使われていない矛盾を隠すための大気の描写は、余計なものを描くことなしに、山の本質とも言うべきものを捉えた画法だったのかもしれないと思いました。

事実、ぎりぎりまで余計な筆を省いた作品が中国の山水には見受けられます。抽象という概念はありませんが、現実の再現という、写実を乗り越えた画法であるといえ、それらの作品は現実を超えた何かを描き出そうとしています。

「肉体の目ではなく、精神の目で見よ」

と述べているフリードリヒの芸術は、やはり写実を越えた何かを描き出そうとしている東洋の山水画に思想面でもよく似ていると思います。
はじめまして

>B型さん
書き込みを見て、山水画の中の人物について東洋美術史の授業で言われたことと、自分がフリードリヒの絵に感じた魅力の理由が、繋がった気がします。
山水画と同じ小さな、絵の世界の方を見ている人物のおかげで、その人の目を借りて、小さな画面にもかかわらず、広い風景の中に入れるんですよね。
西洋版の「臥遊」……宗教画の中にクライアントを描き込んだのと似てるかも。ただ、フリードリヒの場合は、ロマン派らしいイマジネーションの重視とアカデミズムの無視の結果?
彼自身が何か言及していたら、どうか教えて下さい。

なぜ彼は、西洋風の風景画から、窓枠と固定視点を取り去ることができたのか……学生だったらこんなテーマで私も研究できたのに残念です。論文執筆、楽しんで下さいね。
みなさま、こんにちは。

> B型さん

> 遠近法が使われていない矛盾を隠すための大気の描写は、余計なものを描くこと
> なしに、山の本質とも言うべきものを捉えた画法だったのかもしれないと思いま
> した。

「山の本質」とは何でしょうね?:)

「本質」といわれているからには、単なる山、私たちがただぼんやりと眺める山(たいていは視界のどこかでただひっそりとたたずんでいるあの山)とは違う何かということですよね。

> 事実、ぎりぎりまで余計な筆を省いた作品が中国の山水には見受けられます。抽
> 象という概念はありませんが、現実の再現という、写実を乗り越えた画法である
> といえ、それらの作品は現実を超えた何かを描き出そうとしています。

写実は「再現芸術」なんていわれたりしますが、私はそもそも芸術が(自然の)再現であることはありえない、と考えています。それがたとえ精巧を極めた山の写実であったとしても、それは画家の手によって自然から切り離されてしまっています。もはやそれはあの山ではなく、「これを見よ」と、何かを語りかけてくる。

フリードリッヒが近景を削ぎ落としたのは、山の本質を自然からより強烈な光の中へと切り離すためだったからではないでしょうか。

> Ch.-L.K.さん

> 山水画と同じ小さな、絵の世界の方を見ている人物のおかげで、その人の目を借
> りて、小さな画面にもかかわらず、広い風景の中に入れるんですよね。

そういう意味では、あの人物たちはフリードリッヒの絵画において数少ない近景(こちら側)ということになりますね。これが引力の正体なのかな?
みなさま、こんにちは。

最近はめっきり静寂が支配しているこのコミュニティですが。(笑

ひさしぶりに話題のご提供です。
テレビ東京の『美の巨人たち』という番組がありまして、ナレータの小林薫さんの声が心地よくてたまに観るのですが、次回(9/23)の放送でフリードリッヒの『雲海の上の旅人』(Der Wanderer uber dem Nebelmeer)が取り上げられるそうです。

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/

それまで、みなさまの上記の作品に対する思いを書き込んでみませんか?
はじめまして。

「フリードリヒって確か、『山上の十字架』の人だったかな」程度の知識で、『美の巨人たち』を見始めたのですが、とてもひきつけられました。

人物が向こうを向いていることで、こちらもその風景を自分の目で見ているかのように感じるのですね。
そしてその風景が、リアルでありながら非現実なので、異次元の扉をあけてしまったような、孤独だけれどすがすがしい気持ちになります。まさに彼の生き方ですね。

村上春樹の小説を読んだ時の感じにも似ている気がします。

以上、フリードリヒ初心者の感想でした。
『美の巨人たち』見逃してしまいました・・・。ちょっとだけ楽しみにしていたのに・・・。うぅ。

> あんどうなつさん

> 孤独だけれどすがすがしい気持ちになります。まさに彼の生き方ですね。

おっしゃるとおりです。けれど、僕たちはいったい何から「孤独」になって、そしてそれがなぜ僕たちを「すがすがしい気持ち」にさせるのでしょうね?

フリードリッヒの作品には、登場人物が描かれていることが多々あります。だから、僕たちはその仕草や視線の先に目を向けてしまいがちだけれども、フリードリッヒが僕たちに語りかけているのは、決して登場人物の気分を味わうことでも人生をかいま見ることでもない。僕はそう思います。

だから、いくらそこに描かれている何かを(歴史学的に)分析しても、絵画の本質には到達することができない。そんなものは、その筋の専門家に任せておけばいいんです。(笑

僕たちにとって、そして絵画の本質を語る上で決定的に重要なのは、絵画を目の当たりにしたときの心像(こころにフワフワと浮ぶ何か)を純粋に言葉にしていくことだと思います。
そして、その中からフリードリッヒの視線と同じ方角を射抜く問いを見つけ出すことができれば、彼の頬もほころぶように思います。例えば、僕が上に書いた問いのようなものを。
かなりお久しぶりです。ミクシィにログインしたの自体がいったいどれくらいぶりでしょう。

忙しかったのと、事情がありネット環境から離れてしまったので、指摘にお答ええするタイミングを失ってしまっていました。>大いなる賭さん

卒論ですが、やっと一章《山の十字架》とラムドール論争が終わりました。


また、ゆっくり時間ができたら皆さんとお話がしたいです。

まだまだ未熟ですが、2章からは《海辺の修道士》と《樫の木の修道院》についてかこうと思ってます。

締め切りがそろそろせまってきてさすがにあせってます。

多いなる賭さんの問いにきちんと答えるまでには、もう少し時間がかかりそうです。
自分の伝えたいことを言葉にするのは大変難しいですね・・
> B型さん

お久しぶりです。

> 多いなる賭さんの問いにきちんと答えるまでには、もう少し時間がかかりそうです。
> 自分の伝えたいことを言葉にするのは大変難しいですね・・

そうですね。真剣に人に想いを伝えようと思えば思うほど、僕たちは言葉につまってしまいますね。でも、前にも書きましたが、想いを率直に表現することが何よりも重要だと、僕は思っています。

だから、それがたとえ擬態語だらけの散文詩であっても、一向にかまわないと思います。辛抱強く照明を当て続ければ、単なる擬態語が強烈な色彩を放つことだってあります。

なによりも、ここは静かなコミュニティだし、焦らずゆっくりいきましょう。
お久しぶりです。
テレビがないので残念ながら『美の巨人たち』見られませんでした。
実家ではテレビ大坂でほぼ毎週見てたのに……

>大いなる賭さん
>そんなものは、その筋の専門家に任せておけばいいんです。

「その筋の専門家」のなり損ないから一言……
私はむしろ、「大いなる自然に対峙する人間」「崇高」などの思想や、美術史での位置付けをもっと良く知ることができたら、知っただけまた面白い深入りができそうな気がします。

それに多分、研究する人もこの絵に何かを感じるから、時には一生を賭けてでも研究するのではないでしょうか。それは伊達な積み重ねではなくて、理論的な言葉で想いを伝えるための強力なツールのはずです。

美術批評とは、感じたことを理論的に他の人々に伝えることであり、さまざまなタームを、そのために適確に使いこなせるのが批評家である……大学1年の授業のうろ覚え。

B型さんの論文、応援します。

でもありがたいことに、言葉は一種類ではない。
どんな言葉でも、どんな仕方でも、語れることは確かです。

 己が立つ巌を軸と据え定め漠たる神に名乗りをあげる

 久方の雲居を今は足に踏みなおも光は見はるかすのみ

今はまだこれだけ。
逆光のシルエットの黒さが気になります。
> Ch.-L.K.さん

> 私はむしろ、「大いなる自然に対峙する人間」「崇高」などの思想や、美術史で
> の位置付けをもっと良く知ることができたら、知っただけまた面白い深入りがで
> きそうな気がします。

誤解を招くような表現をしてしまいました。
僕が言いたかったのは、例えば絵画に描かれた人物の半生を画家の伝記などから類推したり、風景や家具の描かれた理由を画家の心理分析などから説明したりといった、絵画の外部からの分析が絵画の本質を語ることなどできない、ということです(それらがまったく無意義である、という意味ではないですよ)。

これに対して、「大いなる自然に対峙する人間」というようなフリードリッヒが絵画そのものに見定めたテーマを追求することは、もちろん絵画の本質を語るうえでとても重要であると思っています。このようなテーマは、絵画を真剣に見つめる眼差しの前には必ず立ち現れるものであると思いますから。

> 美術批評とは、感じたことを理論的に他の人々に伝えることであり、さまざまな
> タームを、そのために適確に使いこなせるのが批評家である

であるのなら、なおさら批評家は、自分自身の言葉が絵画を巡る軌道から逸れていないかどうかを厳密に批判しなければなりませんね。
外から見たり、まん中を見据えたり。
大きく見たり、小さく見たり。
少しでも意味のありそうな、
あるいは意味のなさそうな分析もしてみたり。

見ることと考えることの楽しさを、
存分に引き出されるのは快感ですよ、それだけで。

仮定すれば、
目の前のものを、快いままに見るのが素人。
一度見たものを、快いように見せるのが批評家。

批評家が批判すべきは、己の言葉の効力かも知れません。
自在な見方の後に来る、思考のそのまた後に来るべき言葉の、
効力と意義。

だって、語るべき「絵画の本質」というのは、
何なのでしょう? あるのでしょうか?
> 見ることと考えることの楽しさを、
> 存分に引き出されるのは快感ですよ、それだけで。

そのとおりです。だからこそ。

> だって、語るべき「絵画の本質」というのは、
> 何なのでしょう? あるのでしょうか?

画家が見上げた「ロマン」を素直に見つめようと。
そしてその先へと。
こんにちは。

> サタさん

> 彼の絵は空間的な距離だけではなく、
> 時間的、概念的な意味での距離感も見ている者に
> 与えているように思えるのです。

<時間的な遠さ>というのは鋭いご指摘だと思います。

僕たちにとっての最果てとは言うまでもなく<無限>です。そして、この無限がフリードリッヒにとって最大のテーマであったことは間違いないと思います。

しかし有限のカンバスに無限を描くことなどできるのか。例えば何処までも続いていく回廊を描いたとして、それで無限をつかんだことになるのか。その回廊は、結局は細筆によって穿たれる一点として、あるいは霧の中へごまかされる曖昧さとして、つまり有限そのものである<消失>へとつながるだけではないのか。その証拠に、長い長い回廊は鑑賞者のこころをすり潰し、視界をくもらせ、ついには無限へと向かうその脚を砕いてしまう。

この問いに対するフリードリッヒ歩みは、例えば『夕暮れ』(Abend)という作品に見て取れます。`この作品では、画面の大部分を紅く染まった空が占めています。流れる雲はあまりにも遠くて手を伸ばしてもとても届きそうにない。けれど、この空は前述の回廊のように僕たちを疲れさせることはないでしょう。それどころか、いつまでもこの眼をとらえて離さない。それは、そこへ至る道が決定的に絶たれているからだ、と僕は思います。

無限を前にして、僕たちはただ立ち止まって見上げることしかできない。それなのに、えもいわれぬ充足感が満ちてくる。それは、僕たちが日常的に言う「すごく遠い」とか「すごく時間がかかる」とはまったく別の「遠さ」なのではないでしょうか。

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