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創価学会無間地獄コミュの邪教創価学会・松戸行雄の邪説を破す(10)

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邪教創価学会・松戸行雄の邪説を破す(10)


「松戸行雄の唱える『法体の論理構造』を破す(下)」


松戸の邪義の底辺にあるものは、時節、能所、乗種・性種等の混乱が挙げられる。

これらは教相を無視することにより起こるのである。


「松戸の教相に見る混乱を検証する」

≪権実・本迹雑乱の失を破す≫


 松戸は、
「大聖人の立場からすれば、阿弥陀仏でも久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだと、南無妙法蓮華経を修行したんだと、それが大聖人の、法華経如来寿量品に出てくる『久遠実成の釈尊』の捉え方ですよね
(中略)
西方浄土にいるとされている阿弥陀仏も最初は凡夫であり、法蔵菩薩として誓願を起こし、仏になったとされてます。
それが実在しない凡夫であったら、神話になってしまう。
誰かが仏に成ったとしたら、それはあくまでも実在する凡夫の体に仏性を悟ったということです」
(中外日報・平成六年四月十四日付)

 爾前・無量寿経の阿弥陀仏の因行・果徳をもって、直ちに法華経久成釈尊と同列に語ることはできない。

 『題目弥陀名号勝劣事』に、
「三の巻の心ならば、阿弥陀仏等の十六の仏は、昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習ひて、後に正覚をならせ給へりと見えたり。
弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習ひてこそ仏にはならせ給ひて侍れ(中略)妙法蓮華経は能開なり。南無阿弥陀仏は所開なり」
(平成新編御書三三二頁)

 松戸の言う「法蔵菩薩」とは
無量寿経の法蔵比丘であり、世自在王仏のもとに在って四十八願を唱え、後に阿弥陀仏となった爾前権経の仏のことである。

大聖人が『題目弥陀名号勝劣事』に説かれている阿弥陀仏は
「大通智勝仏」の「十六の王子」として「法華経を習」って「後に正覚をならせ給へり」という阿弥陀仏である。

ここに、権実雑乱(ぞうらん)の失(とが)がある。

 しかもなお、法華経寿量品においては、本果第一番の釈尊の「過去常」が説かれたのであるから、釈尊分身の阿弥陀仏でしかない。

 『開目抄』には、
「此の過去常顕はるゝ時、諸仏、皆釈尊の分身なり」
(同五五二頁)
とあり、

『法華取要抄』には、
「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。
大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり」
(同七三三頁)
と仰せのとおり、
久成の釈尊に対する阿弥陀仏とは釈尊の一分身でしかない。


松戸には寿量品の「破迹顕本」を無視した本迹雑乱の失がある。

コメント(6)

「松戸の『文上の久遠実成の釈尊』に関する邪義を破す」


松戸の法華経文上の教相に見る「久遠実成の釈尊」のとらえ方を検証してみよう。

「久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだと、南無妙法蓮華経を修行したんだと、それが大聖人の、法華経如来寿量品に出てくる『久遠実成の釈尊』の捉え方ですよね」
(中外日報・平成六年四月十四日付)

 ここに文上・文底、種・脱の混乱が見られる。

教相をしっかり立てないから、このような話になるのである。

 久遠実成をとらえるとき、「文上脱益の本地」と「文底下種の本地」があることを知らねばならない。

名同義異の分別を知らぬから、文上・文底の混乱が起こるのである。

 松戸は
「法華経如来寿量品に出てくる『久遠実成の釈尊』の捉え方ですよね」と言うのであるから、文上に約さねばなるまい。

法華経文上の釈尊の因行は「我本行菩薩道」等の十八文字である。

久遠実成とは「然我実成仏已来」等の文に明かされる、五百塵点本果第一番の釈尊を言う。

 天台、妙楽の釈義は常の所談であり、また、文上の本因・本果は因果並常の上に明らかである。

天台では因位における因行を本因初住に置き、初住乃至妙覚と次第して仏果を得たとするのである。
これは既に歴劫の所談ではないか。

ならば文上本果第一番の釈尊が「我本行菩薩道」の時、下種の「南無妙法蓮華経」を直ちに修行したと言えようか。

 もし衆生の観心に約して、下種の南無妙法蓮華経を行ずるとするならば、信行の機に約す即身成仏の義となる。

けっして初住乃至妙覚と次第して仏果を得たとすることはできない。

『総勘文抄』に、
「名字即の位より即身成仏する故に円頓の教には次位の次第無し」
(平成新編御書一四一七頁)

 文底の所談は、初住以前に溯(さかのぼ)って本因妙を立てるのであるから、名字即から究竟を得る即身成仏の義である。

文上本果の釈尊の成道をもって、文底義による即身成仏と見てはならない。
 

松戸の論旨
「最初から超越的な仏であるような人間は存在せず、成道する以前はみんな凡夫の立場にいるはずである。
そして、南無妙法蓮華経が諸仏所生・成仏の種であるということは、凡夫が成仏するための修行の法体であるということを意味している。
阿弥陀如来も凡夫の時、つまりこの世で修行した時には南無妙法蓮華経を能生としたのである」
(『日蓮思想の革新』五一頁・以下『革新』と略す)
と述べて、
その根拠を『十章抄』の、
「阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり」
(平成新編御書四六六頁)
の御文を引いて、
「『成仏の種は必ず衆生本有の妙理である南無妙法蓮華経でしかありえない』というのが、基本的認識である」
(革新五一頁)
と述べている。

 これも教相における勝劣浅深、また、所対不同を考えないから、すべての仏は始めは凡夫であったとして、
ならば凡夫の時に、凡夫に内在する原理である南無妙法蓮華経を修行して仏に成ったはずだと速断するのである。
 

まず、種本脱迹ということを理解しなければならない。 

日寛上人は『本尊抄文段』に、
「若(も)し具(つぶさ)にこれを論ぜば施開廃の相伝あり。
謂(いわ)く、文上の意は、久遠本果の本より中間・今日の迹を垂れ、中間・今日の迹を開して久遠本果の本を顕す。
久遠本果の本を顕し已(おわ)んぬれば更に一句の余法なし。
唯これ久遠本果の為体(ていたらく)、一念三千の儀式なり。
若し文底の意は、久遠元初の本より本果・中間・今日の迹を垂れ、本果・中間・今日の迹を開して久遠元初の本を顕す。
久遠元初の本を顕し已んぬれば更に一句の余法なし。
唯これ久遠元初の自受用身の当体の相貌にして真の事の一念三千の為体なり。
譬えば池月に准じて天月の相貌を知り、天月を知り已んぬれば池月の影を撥(はら)って唯天月を指すが如し」
(日寛上人文段集四九九頁)
と教示されていることからも明らかなように、
文上脱迹の所談はあくまで、本果第一番の釈尊の本因本果に帰す。

また文底所顕の上は、さらに、久遠元初自受用身一念の因果に帰すのである。
 
大聖人の『十章抄』の文意は、文上に説かれる諸仏は本果の釈尊に帰し、
また、さらに元初本仏の当体に帰すから、同体の因位を許し、因行を示したのである。

もしこれを奪釈の上から見れば迹中理上の法相にして実体はない。

 松戸の、
「阿弥陀如来も凡夫の時、つまりこの世で修行した時には南無妙法蓮華経を能生としたのである」
との考えは、教説における施開廃の上からの指南に著しく相違する。

 ならば、松戸が言うような、
「久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだと、南無妙法蓮華経を修行したんだ」
ということは直ちには言えまい。

これらは、文上・文底の顕本のさばきが曖昧(あいまい)だからである。


文底顕本は直ちに久遠元初の自受用身を明かすが、
文上顕本には二途あって、体外の辺に約せば五百塵点本果第一番の成道をもって本地の自行とし、体内の辺に約せば迹中化他本果第一番とする。

これらは共に応仏昇進の自受用身である。

 文上における久成釈尊の因行は明らかであっても、境妙は内摂されて、あからさまに説かれてはいない。

しかも、文底已顕して体内の辺に約すならば、既に迹中の所談、従本垂迹の義によるのであるから、迹因・迹果は本因・本果を指向しなければならない。

そこに久遠元初本因名字の釈尊一念の本因本果が明かされる所以がある。

 文上の談道において久遠下種の法体・南無妙法蓮華経を直ちに読み込むことはできないと知るべきである。

たとえ「大聖人の立場」との言い回しを付言するにせよ、
それは権実判、本迹判、種脱判を立てた上での観心段でなければなるまい。
 
『百六箇抄』には、
「名字の本因妙は本種なれば本なり、本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり」
(平成新編御書一六九四頁)

「久遠下種の得法は本なり、今日・中間等の得法観心は迹なり」
(同一六九六頁)
と仰せである。

 真実本門の下種は、久遠名字本因妙のところにある。

最初聞法下種は順逆二縁、信謗彼此を生ずる。

このうち逆謗の者、または退大の者は永く苦に沈輪するも、世々番々の化主によって脱するのである。

三益化導は時と衆生の機に約して種熟脱がある。

この種を論じない脱は有名無実である。


 『開目抄』に仰せられる、
「種をしらざる脱なれば、超高が位にのぼり、道鏡が王位に居(こ)せんとせしがごとし」
(同五五四頁)
との御文のとおりである。

 してみると、松戸は、
「南無妙法蓮華経が諸仏所生・成仏の種であるということは、凡夫が成仏するための修行の法体であるということを意味している」
との論を述べながらも、
「誰かが仏に成ったとしたら、それはあくまでも実在する凡夫の体に仏性を悟ったということです」
との言葉は、
凡夫に具する仏性を悟ることが成仏と言うのであるから、これは明らかに、下種のところに還帰(げんき)したということではない。

文底体内の本種に騰(とう)ずればこそ、三世の諸仏も仏たりえたのではないか。

 妙楽大師は『法華文句記』の第一に、
「脱は現に在りと雖も具(つぶさ)に本種を騰(とう)ず」
(大正蔵三四−一五六頁)
と。
 
松戸は、
内在原理としての仏性を立て、これをまた、南無妙法蓮華経と語っているだけなのである。
所詮、理性所具の所談に過ぎない。

松戸は、
三種の阿弥陀仏さえ分別せずに論ずるところを見ると、およそ「大聖人」の立場を騙(かた)る放言としか言いようがない。


「種本脱迹の綱格に迷う松戸」

 また、松戸は、
久成釈尊の成道と阿弥陀仏の成道を同列に置いたまま、次のように言うのである。

「つまり、本果妙の仏に対して本因妙の妙法と言いますが、じつはそれは凡夫の体に凡夫即仏であると悟った。その諸仏所生の原理が南無妙法蓮華経です」
(中外日報・平成六年四月十四日付)
 
松戸は、
本果妙の仏、すなわち久成釈尊の成道した原理を指して
「本因妙の妙法」と言う。

これを説明して、
「じつはそれは凡夫の体に凡夫即仏であると悟った」ところの
「原理が南無妙法蓮華経です」と言うのである。

すると、本果妙の仏である久遠実成の釈尊は、
凡夫即極の仏となったと言いたいのであろうか。

凡夫即極・即身成仏は、文上本果の釈尊成道の相とは著しく異なる。

 
日蓮大聖人の下種の仏法と、本果果上の熟脱の仏法とは能生・所生の関係にある。

松戸も本果妙の仏を指して、
「迹の本果」
(『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』九八頁・以下『人間主義』と略す)
と断定しているではないか。

迹の本果に対して迹の本因があり、この迹因・迹果の一因果が存するとすれば、
迹の因果は従本垂迹であるが故に、本の本因・本果を立てねば話の筋が通らない。

この時、従本垂迹は水月であり実体はない。
天月こそが実月である。

さらに実本より断ずれば、本無今有、有名無実と下されよう。

文底より見た文上本果の釈尊の立場は、本地に対する垂迹とせねばなるまい。

種本脱迹と断ぜられる所以である。

だが、松戸の論旨はこの脱迹(垂迹)の釈尊に対して、
「一応、釈尊としては『九界即仏界』(迹の本果)、つまり九界所具の仏界を開顕したことになる」
(同頁)
と言って、
これに対する松戸流「文底の視点」を導入し説明するのである。

すなわち、
「文底では、この久遠の九界所具の仏界を可能にした、言わば先験的可能条件が、真実には、その本種としての凡夫の体が『無始無終の九界即仏界』(迹の本果に対する本因)、
つまり、常に九界に仏界を具するためである。
それは、しかし同時に、九界の存在が本質的に仏界に裏付けられているということを意味する」
(同頁)
と言うのである。

 つまり、本果の釈尊が仏果を得たのは、九界所具の仏界を開顕したからであり、
それはこの九界所具の仏界を可能ならしめた「先験的可能条件」があったからだとして、
例の「九界即仏界」「仏界即九界」の本質構造とやらをもって、果上釈尊成道の条件とするのである。

 松戸の「文底」論とは、
文上・文底について、本迹・種脱の綱格を無視し、
凡夫の理性に本質構造の名を冠して、これを文底と定義しているに過ぎない。

文上本果の仏身を無視しなければこのような理屈は立てられない。

文上の仏身には本果の四教が説かれ、本国土に四土を経歴することは明らかである。

これこそ垂迹化他の虚仏を示しているとしなければならない。

 天台が『玄義』第七の三世料簡(りょうけん)段において、
五種の顕本をもって本地の自行に対して垂迹化他を証していることは常の所談ではないか。

繁きを厭(いと)わず挙げれば、
「若し過去は最初所証の権実の法を名づけて本と為すなり。
本証より已後方便をもって他を化し、開三顕一、発迹顕本するは還って最初を指して本と為す。中間(中略)、今日(中略)、未来(中略)三世乃ち殊(こと)なれども、
毘盧遮那の一本は異ならず。
百千枝葉同じく一根に趣くが如し」
(大正蔵三三−七六九頁)

 この「最初所証の権実の法」はまた、能証の人によるは当然である。

最初所証の法、能証の人、人法体一の深旨は明らかである。

 この本地に対して「本証已後」とは本果の時であり、「還指最初為本」とは垂迹を示すことにほかならない。

本果の仏身を垂迹化他の虚仏と知れば、まさしく「従本垂迹如月現水」こそがその体ということになるではないか。

 このことから、もし松戸の言うように実体のない従本垂迹の水月について、その水月を水月たらしめた「先験的可能条件」とやらを見立てたところで、何になるのであろうか。

 また、それが原理としての「南無妙法蓮華経」というのであれば、実体のないものを生ずる原理とは、まるで価値のないものと言うことになるではないか。

これらは種本脱迹の綱格に迷うが故であると断ずるものである。


「凡夫理性所具の一面をもって『法体』『本種』と速断する迷妄を糾す」


松戸の考えは、
『革新』に、
「凡夫が成仏するための修行の法体であるということを意味している」
とあるように、凡夫が法体そのものだというのである。

 また、
『人間主義』にも、
「真実には、その本種としての凡夫の体が」と断定しているが、
凡夫は「法体」であり「本種」であると言ったところで、誰が首肯できようか。

現実を直視してみよ。
貪瞋痴三毒強盛の悪人が充満する衆生世間を、如実に観察すれば誰しも判ることではないか。

万億の衆生が充満しようとも、衆盲にほかならない。
故に一迷先達の聖人が出現してこそ余迷を導くとされるのである。

松戸の言う、
凡夫は法体、凡夫は本種という考えは、彼の基本原理となっているので破折しておく必要がある。

『曾谷殿御返事』に、
「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり」
(平成新編御書一〇四〇頁)
 
また、『法華初心成仏抄』に、
「法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり」
(同一三一六頁)
と。

文を拝すれば、衆生は田の如しと明らかに仰せではないか。
凡夫の体即本種と断定できようか。

 また、妙楽は『釈籖』の第四に、
「聞法を種と為す」(大正蔵三三−八四〇頁)
と。

また、天台は『文句』の第一に、
「衆生久遠に仏の善巧(ぜんぎょう)を蒙って仏道の因縁を種(う)えしむ」
(同三四−二頁)

 妙楽はさらに『記』の第一に、
「脱は現に在りと雖も具に本種を騰ず」
(同一五六頁)
と述べている。

この「聞法為種」を忘れるべきではない。
その「聞法為種」の文意を尋ねるとき、法体が明らかとなる。

 日寛上人は『本尊抄文段』に証真の『玄私記』を引き、
「最初聞法は必ず是れ円教」(日寛上人文段集五二六頁)
と。
これは権実判。

また日寛上人云く、
「最初聞法、必ずこれ本門なり」(同頁)
これは本迹判。

また云く、
「最初聞法は必ずこれ文底なり」(同頁)
従浅至深して文底に至る。

大聖人云く、
「但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」
(開目抄・平成新編御書五二六頁)
と。

法体の所在は文底秘沈の大法に帰すこと、顕然ではないか。
衆生の理体をもって直ちに法体と断ずることはできない。

 『呵責謗法滅罪抄』には、
「日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり」
(同七一六頁)
と仰せである。

「下種」があるから懐妊するのであって、いくら松戸でも、下種のない懐妊は認めようがないであろう。
あれば本無今有の失に堕す。

また、無因有果の失ともなるではないか。
 
本種を探るならば、法体を暁(あきら)めてこそ領解できるのである。

故に「但法華経の(中略)文の底にしづめたり」と。

また、『曾谷殿御返事』の、
「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候」
(同一〇四〇頁)
との文意から見ても、
凡夫・衆生の身を直ちに法体・本種と慢ずる松戸は、後生危うき人と言わざるをえない。

 これらは、文上・文底、種脱判に暗いがためと言うよりも、人間至上主義とも言うべき偏頗(へんぱ)な思想理念により、文底の実義を改変して、
久遠元初の人法およびその一切の化導を認めず、特に久遠元初本仏の内証における、一念の本因本果を盗用しながら、これを「人」より切り離して、心法所具一念の本因本果を普遍的原理・久遠の妙法としたものの如くである。
 
また、これを理即但妄の荒凡夫の上に直ちに冠して、本質構造と位置付け、
「衆生本有の妙理」と言わしめている。

「衆生本有の妙理」については当委員会他師の説、往見すべし。

 さらには、本仏久遠元初自受用報身の心法妙法五字に具わる十界互具乃至一念三千を応用し、
「仏界即九界」(本因)・「九界即仏界」(本果)などの観点を本質構造としていることなどを見ると、
松戸説の基本構造がほぼ解るというものである。



松戸の恣意(しい)的な論理構造の概要が解ると、どこにその欠点・欠陥があるか理解できるのである。
 
法門の綱格から言えば、文上教相なき文底はないということである。

文上の法門綱格を正しく理解して、文底に望まねばならない。

種本脱迹は本地と垂迹であるということこそ法門綱格の基本である。

これを無視する学説は邪説と断ぜられるべきである。

『十法界事』には、
「未だ久遠を知らざるを以て而も惑者の本と為すなり」(一七八頁)
と仰せのように、
久遠元初の本仏の実義に到達できぬ者は、
あたかも爾前・迹門の菩薩が久遠を知らず、
惑者と断ぜられしに異ならずと言うほかはない。
 
三益化導論は法華経の基本ではないか。

釈尊の法華経における、久遠実成を開顕するのは何のためであったのか。

久遠は実在の時間であり、その時間に約して永遠が語られるのである。

久遠の人法が説かれるとき、
本仏の本地における実修・実証、本因・本果が確立される。

そこから一切を見れば、
本果・中間・今日・未来・末法の三益化導と共に本地・垂迹が
はっきり見えてくるのである。
 
文上・文底、種・脱の綱格を正しく信解できなければ、
すべてを統(す)べる、無始無終一大円仏の実義は語ることができないと知るべきである。


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