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創価学会無間地獄コミュの邪教創価学会・松戸行雄の邪説を破す(9)

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邪教創価学会・松戸行雄の邪説を破す(9)


「松戸行雄の唱える『法体の論理構造』を破す(上)」


「東に迷ふ者は対当の西に迷ひ、東西に迷ふゆへに十方に迷ふ」
(法門申さるべき様の事・平成新編御書四三一頁)
とは宗祖の金言である。

 日蓮大聖人の仏法において、信仰の基調となる法門の構格は、既に日蓮大聖人によって決定されているのであり、それがそのまま日蓮正宗の宗是となって定まっているのである。

このことは当然であるにもかかわらず、時に迷妄の徒、異端の輩が新たな視点をもって東とするとき、
それは
「ただ単に視点を変えた」というだけではすまない。
また、「こういう考えも成り立つ」ということもできない。

常に東は一定であって、余の方角をもってこれに代わることは、いかなるときにもありえない。
それに違する視点をもつとき、あたかも西を東と見る、その視点の誤りとなっているのである。

東をとり違えたとき、それはただ東に迷ったというだけにとどまらない。
対当する西もまた、間違っているのである。

宗祖の「東西に迷ふゆへに十方に迷ふ」とは、その道理を示している。

邪教団となった創価学会は、新たな思想基盤ともいうべき教理を求めて、自己の拠(よ)って立つ足場を構築しようと、その視点を模索し始めた。

しかし、これはただの模索などではない。

日蓮正宗の信徒団体として在った六十年の軌跡から脱するための運動にほかならない。

その創価学会の意のままに、
御用学者・松戸行雄は、
「『御本仏大聖人の己証』また『大聖人御内証の法体』という考えに代表される伝統的宗門教義そのものが批判的に検討し直されねばならないのである」
(『人間主義の日蓮本仏論を求めて』九頁・以下『人間主義』と略す)

また、
「本書はその意味で、伝統的『大聖人久遠本仏論』の脱構築のための試論であり」
(同一一頁)
として、
新義構築の弁を述べている。

だが、「脱構築のための試論」を構えること自体が既に日蓮正宗の信仰者として歩んだ、
創価学会六十年の信仰を自ら否定することにほかならない。

また、「試論」をもって、第三者に松戸個人の「私論」と見せる背景も、新義異説に移行するための手段でしかない。

松戸の『平成の教義論争』
(副題として「日蓮正宗の『反論』を嗤(わら)う」)は
自説を開陳し、発明の法門に酔いしれる書き振りで、そこには見事に平成の発明法門が如何なく強調されている。

その一端を示せば、
「 『大御本尊信仰』は、大聖人の仏法の根本にあるものではない。
まして、大聖人の御書に御本尊の中でも特別な意味を持つべき『大御本尊』に関する言及が一つもないのは、大いなる不思議と言わねばならない。
やはり、『日蓮久遠本仏論=大御本尊信仰』は後世の捏造である。
その意味でも、大御本尊を日蓮仏法の根本、出発点とする正宗教義はその前提から誤っていることになるのであり、大聖人を神格化し、寺院仏教を正当化する後世のデッチ上げの論理なのである」
(平成の教義論争六三頁)

 松戸はあからさまに、
「日蓮久遠本仏論=大御本尊信仰」は後世の捏造と断言する。

すると創価学会の創立者・牧口氏は「後世の捏造」を信仰し、弘めたことになる。

また、戦後の学会再建者・戸田氏は、
松戸の論旨から言えば、
誤りとなる「日蓮久遠本仏論=大御本尊信仰」を信仰し、広宣流布しようとしたことになる。

大聖人を久遠元初の御本仏と拝し、戒壇の大御本尊を、大聖人の魂魄とも当体とも拝する言動や指導は、枚挙に遑(いとま)がないほどであるのにもかかわらず、である。

このように、松戸の首尾一貫しない論難に対し、宗門はこれを指して「東に迷ふもの」と断定しよう。

コメント(8)

 既に、松戸による正宗教義に対する論難は、その根底に、日蓮大聖人の仏法思想を拠り所としながらも、
実には創価学会の思想基盤の確立という目的意識によるものであることは、次の言葉からも明らかなことなのである。

「今後の創価学会が抱える教義上の難点が一つある。『創価ルネサンス』運動の思想的根拠を伝統的正宗教義に求めることができないという問題である
(中略)
正宗教義を学会の思想基盤として持ち続けることは自己矛盾である」
(人間主義七頁)

これは実に本音であろう。

そこで考え出されたことが学会流「人間主義」の正当性を確立するための「日蓮仏法」である。

「未来のために現在をどう変革し、展開していくべきかという転換の視点も忘れてはならないであろう。そのためにこそ、今一度、大聖人の仏法の原点を原理的に探求せざるをえない」
(同頁)
と言う松戸の大聖人の仏法を見る視点は、以上の言葉によく表れている。

松戸は随所に哲学用語である「先験的可能条件」の語を用いる。

カント哲学によれば、「経験に先立ち、その経験から独立して、経験を可能にするような条件づけ」
または
「結果に先立って認識の可能性を取り扱う原理」を示す意味として扱われているのであるが、
まさに松戸の自説とはこのような観点からの仏法解釈なのである。

「未来のために現在をどう変革し、展開していくべきか」とは、
学会の「独立自営(衛)」のための思想基盤を確立しておくということが根底にあって、
学会の世界戦略に都合のよい「人間主義」に対して、
大聖人の仏法を応用展開すると言っていることがよく解る。

既に、信仰の次元を脱した立場に立っていることは明らかである。

これでは、松戸流に換骨奪胎された大聖人の法門は
「雖讃法華経還死法華心=法華経を讃(ほ)むと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」
に至るであろう。
「松戸の言う法体の論理構造の問題点」

 松戸は、
「我々が追求しているのは法体そのものの論理構造だからである」
(同七三頁)
として、「法体」の論理構造を明かすとしながら、自説の構築が行われていくのである。

松戸は『人間主義(九八頁)』で、
(文意を整理すると)
「久遠実成の釈尊が『我本行菩薩道』の「本因妙の時」に、「九界所具の仏界を開顕」して「菩薩から仏果を得た」として、これを「『九界即仏界』(迹の本果)」と定義し、
さらに、「文底では、この久遠の九界所具の仏界を可能にした、言わば先験的可能条件」が、
「真実には、その本種としての凡夫の体が『無始無終の九界即仏界』(迹の本果に対する本因)、つまり、常に九界に仏界を具するためである。それは、しかし同時に、九界の存在が本質的に仏界に裏付けられているということを意味する」
ということを言っている。

 この論理構造を端的に表現しているのが、次の『中外日報』の弁である。
 「大聖人の立場からすれば、阿弥陀仏でも久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだと、南無妙法蓮華経を修行したんだと、それが大聖人の、法華経如来寿量品に出てくる『久遠実成の釈尊』の捉え方ですよね。
つまり、本果妙の仏に対して本因妙の妙法と言いますが、じつはそれは凡夫の体に凡夫即仏であると悟った。
その諸仏所生の原理が南無妙法蓮華経です
(中略)
西方浄土にいるとされている阿弥陀仏も最初は凡夫であり、法蔵菩薩として誓願を起こし、仏になったとされてます。
それが実在しない凡夫であったら、神話になってしまう。
誰かが仏に成ったとしたら、それはあくまでも実在する凡夫の体に仏性を悟ったということです」
(中外日報・平成六年四月十四日付)

つまり、この
「久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだ」
とするその根拠がどこにあるかといえば、法体の論理構造、すなわち「凡夫の本有本覚の本質構造として、『仏界即九界』(本因)即『九界即仏界』(本果)」とする原理にある。
そして、この原理を法体の南無妙法蓮華経として示されたのが、大聖人の文底の法門であると主張するのである。

このような松戸の論には問題点が二つある。

「松戸論の二つの問題点(1)」

第一に文上・文底それぞれの本因本果の捉え方である。

まず、この「久遠実成の釈尊」とは、下の文に「脱益の仏界」とあることからも解るとおり、文上の所談であらねばならない。

久成の釈尊の本因は「我本行菩薩道」であり、その本因時の因身から成道を唱えたことは常の所談である。

しかし、松戸は文上の本因を明確に説明せず、直ちに文底の本因本果を読み込んで、それは原理構造であると言う。

そして、文上釈尊の本因本果と文底本因妙の凡夫即極を直接結び付けて
「久遠実成の釈尊でも、仏になったのは、凡夫の時に南無妙法蓮華経という妙理をさとったんだ」
とする。

すなわち、文上の本果と文底の本因本果を何の関連もなく結び付けている。

本来は文底・文上、それぞれ仏身の一因果を実修・実証の上に明かさなければ、衆生の得益も可能とはならない。

 これは、まさしく法華経文上の教相を無視した、松戸独自の文底論を展開しているためである。

『三種教相事』に『玄義』の十を引き、
「若(も)し法華を弘めんには、教相を明かさゞれば文義欠くること有り」
(平成新編御書五七頁)
と、教相なき観心がないように、文上なき文底はない。

文上の教相を正しく明かさず、文底を論じてみても、けっして大聖人の正意に達することはできない。
「松戸論の二つの問題点(2)」

第二の問題点は、松戸が「文底の本因本果」について論じてはいるが、その内容を見れば天台と同じ理上の法門を示しているに過ぎない、ということである。

 大聖人は『総在一念抄』に、
「十界は源其の体一にして只是一心なり。一物にて有りける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す。
是くの如く十界互ひに具して十界即百界と成るなり」
(同一一二頁)
と示されている。

松戸の言う
「仏界即九界」「九界即仏界」は、その一念三千を構成する基本原理にほかならない。

十界互具は界如三千を成ずる基本であり、九界に仏界を具することがなかったなら、十界互具ないし一念三千は成立しないのは当然の理である。

一念三千こそ至極とすべき事柄であって、原理・過程に泥(なず)んで本旨を失うべきではない。

 また、松戸は、「九界の存在が本質的に仏界に裏付けられている」と言っているが、それはどのようなことなのか。

『中外日報』の
「実在する凡夫の体に仏性を悟ったということです」との言より察すると、
凡夫体具の仏性ということであるから、それは明らかに凡夫理性所具の仏性ということになる。

 では、「実在する凡夫」が自己の仏性を悟るとは、どのように悟るのか。

松戸はこれを説明して、
「文底の視点は、九界の衆生が仏界を具しているが故に仏界を顕現できるのであり、同時に顕現すべき仏界は九界の本質を成していることを理解することにある。
つまり、『九界即仏界』に『仏界即九界』の理を悟るのである。
永遠の真理、すなわち自身の久遠の妙法を悟るのである」
(人間主義九八頁)
と、また、ここでも相変わらず、既に出来上がった観点を、松戸の凡夫本仏論の枠の中で羅列しているに過ぎない。
「永遠の真理」を悟ることは、「自身の久遠の妙法」を悟ることだと言うのである。

「誰かが仏に成ったとしたら、それはあくまでも実在する凡夫の体に仏性を悟ったということ」と、どのように違うのであろうか。
同じことを言っているとしか思えない。

すると、松戸にとって「永遠の真理」とは、凡夫自身に内在する理仏性ということになる。

ならば、涅槃経の、
「一切衆生悉有仏性」(大正蔵二−四八七頁)
と同じ、仏教の基調とも言うべき教理のことではないか。

 『開目抄』には法華経の提婆品をもって、
「涅槃経四十巻の現証は此の品にあり」(平成新編御書五六二頁)
として「悉有仏性」の現証とされた。

凡夫・衆生の仏性は、何も松戸がこと新しく述べるほどのものではない。

凡夫の理仏性そのものに対して、何か特別な内在する原理があるかの如く装って、自説を確立しようとするところに松戸説の基調がある。
「文底を理性として見る松戸の邪義」

次に以下の説について検証しよう。

「したがって、久遠実成・文上本果妙に相対する久遠の本因妙、すなわち法体としての南無妙法蓮華経は、凡夫の本有本覚の本質構造として、
『仏界即九界』(本因)即『九界即仏界』(本果)を意味する。
これが因果倶時・不思議の一法である」
(人間主義九八頁)

「久遠実成・文上本果妙」に相対するところの「久遠の本因妙」とは文底ということであり、文上・文底の相対であることは言うまでもない。

松戸にとって、その文底「久遠の本因妙」とは何かといえば、
「法体としての南無妙法蓮華経」であり、それは「凡夫本有本覚の本質構造」をもつものであるというのである。

その「本質構造」を説明すると、
また例の「『仏界即九界』(本因)即『九界即仏界』(本果)」を持ち出すのである。
これも「仏界即九界」は九界が表になるから「本因」とし、「九界即仏界」は同じく仏界が表になるから「本果」とするのであろう。

この出来上がった観点を見るとき、通途には「九界即仏界」「仏界即九界」は一念三千を構成する基本原理ということではないか。

 『撰時抄』には、
「一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず」(平成新編御書八三四頁)
と仰せである。

また、『開目抄』には、
「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(同五二六頁)
と仰せであり、
十界互具互融の上に界如三千を成ずる基本原則を、ことさら「凡夫本有本覚の本質構造」と言ったところで何程のものがあろうか。

 さらに、松戸は「仏界即九界」(本因)と「九界即仏界」(本果)を「即」で結んで、これを指して、「これが因果倶時・不思議の一法である」と言うのである。

ここでも松戸の目指した「法体の論理構造」とは、一念三千を構成する基本原理としての十界互具百界千如一念三千について、
その至極とすべき「一念三千」の、原理・過程に「本質構造」があるとして論旨を立てているだけである。

ならば凡夫に限らず螻蟻(ろうぎ)蚊虻に至るまで、理性所具の上からは、すべて一念三千の当体であろう。

 『本尊抄』には『止観』の文を引かれ、
「此の三千、一念の心に在り。若(も)し心無くんば已(や)みなん。介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」(同六四四頁)
とお示しである。

「介爾も心有」るならば「三千を具す」というのであるから、理性の上からは仏も衆生も平等一性としなければならない。

仏も凡夫も、また螻蟻蚊虻に至るまで、理性に差別はない。

一念三千の原理構造を探ればかくの如しとしなければならない。
 
松戸がいかほど「九界即仏界」「仏界即九界」と言って原理構造を立てたところで、原理・過程を通して成ずるものは所詮、一念三千ではないか。

ならば、これまで見てきたように、仏も衆生も、それこそ螻蟻蚊虻に至るまで、すべて理性所具の辺は平等一性と断じなければならない。

 『大論』には一往、仏を無上の衆生と名付けているが、再往、仏に対すれば、衆生は因にあり、仏は果にある。

仏と衆生は理性に約す辺は一性というも、事相差別、再往の辺は、どこまでも迷悟の不同は沙羅の四見の如しではないか。

まさに、仏は悟りに居し、衆生は迷いに住す。
これは如何ともし難いではないか。

故に、『三三蔵祈雨事』に、
「仏をたのみまいらせし強縁(ごうえん)によりて、一切衆生はをほく仏になりしなり(中略)されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん」
(同八七三頁)
と仰せられ、

また
『総勘文抄』に、一切衆生の身中を指して、
「縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。
善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり」
(同一四二六頁)
と仰せである。

迷妄の衆生に仏性有りとしても、能化の仏の強縁なくば
「悟らず知らず顕はれず」である。

故に、理性所具の仏性と言われるのである。

ならば、仏によってこそ、衆生の得脱があることを知らねばならない。

 松戸も、
「法体そのものの論理構造」などと、本仏の内証を指して軽々に沙汰しうるものではないと知るべきである。

それは『立正観抄』に、
「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや」
(同七七〇頁)
とのお言葉からも明らかである。

 ところが、松戸の論旨は、
衆生に内在している本有の妙理が、この境智冥合の原理を独自に具えているとして、
「 『九界即仏界』に『仏界即九界』の理を悟るのである。
永遠の真理、すなわち自身の久遠の妙法を悟るのである
(中略)
凡夫の本有本覚の本質構造として、『仏界即九界』(本因)即『九界即仏界』(本果)を意味する」
(人間主義九八頁)
と言って
「本質構造」と定義するのである。

所詮これらは、天台理上の域を少しも脱するものではない。

凡夫に本覚本有の理があることは当然ではないか。
 
大聖人の佐前の法門には、多く天台過時(与同)の法門が説かれるが、
それは衆生の本覚本有の理を基本としてお述べである。

『一念三千法門』には、
「此の三観を心得すまし成就したる処を(中略)天台は『諸水入海』とのぶ。
仏と我等と総て一切衆生理性一にてへだてなきを平等大慧と云ふなり
(中略)
法華経に遇はざれば争(いか)でか成仏すべきや
(中略)
法華経は念々に一心三観・一念三千の謂(いわ)れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本有常住の如来となるべし」
(平成新編御書一〇八頁)
と。

ならば、法界において一切衆生はおしなべて妙法の当体であることは当然である。

しかし、それは理性の上のことであって、自らの力においては、化導もなければ、また利益もない。

天地間における自在の活動はないのである。
故に、仏の出世と法華経の経力が明かされるのである。

 衆生の内在原理とか「本質構造」と言ったところで、
所詮は理性の辺にとどまることは明らかである。

これを仏身常住の事相において論ずるところこそ、
迹門に対しての本門であり、
さらには、
文上に対する文底の法門である。

無作本有・久遠元初の自受用報身如来の御当体たる、
大聖人の御身に約して事行の南無妙法蓮華経を明かす所以である。

『本尊抄』には、
「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、
迹門を以て面(おもて)と為(な)し本門を以て裏と為して、
百界千如、一念三千其の義を尽くせり。
但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、
未だ広く之を行ぜず」
(同六六〇頁)
と仰せである。

松戸の論旨は、大聖人の仏法における、
久遠元初・凡夫即極・本仏一念の本因本果を、
ことさら理即但妄(たんもう)の凡夫に直ちに冠して論述するだけのものでしかない。





松戸は、特に当家法門における三種(重)の境智のうち、本来、本尊と衆生との間に成立する境智冥合の法門を、直ちに荒凡夫の己心の中に取り込むが如き作為が観じられる。

 日寛上人は『法華取要抄文段』で、
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具、百界千如、一念三千、事行の南無妙法蓮華経これなり」
(日寛上人文段集六〇五頁)と仰せである。

これは本尊と信行者との境智冥合の極意を示されたものであり、ここに示された構図を考えると次のようになる。

(日寛上人の御指南:左画像)

(松戸の立てる法体の論理構造:右画像)


日寛上人の御指南に対して、繁雑を承知で、松戸の立てる論旨上の語彙(ごい)を列挙してみたが、要は、既に出来上がった一つの観点をもって、仏法用語を多用しながら、凡夫に内在するとする、法体の原理構造を説明しているだけのものなのである。

最後に挙げた『中外日報』の弁を見れば、彼の言いたいことは十分に察しがつく。

 松戸の唱える、文上脱益、久遠実成の釈尊が成道した可能条件とやらを見てきたが、彼は、文上における釈義に混乱があるために、文底の釈義もつかめないのである。
したがって、支離滅裂な、およそ仏法とはほど遠い邪義になるのである。

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