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創価学会無間地獄コミュの法難はなぜ起こるのか

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【法難が起こる三つの理由】

仏法に入信して折伏を進めていくならば、やがて大なり小なり、必ず法難が起きます(大は国家権力からの迫害、小は友人や家族に嫌な顔をされる等)。

そこで、法難の起きる理由と、それに対する心構え、さらに、法難を乗り切る信心について、日蓮大聖人の御金言から体系的に学んでいきたいと思います。

最初に、なぜ法難が起きるのか、ということですが、御金言からは三つの理由を拝することができます。

すなわち、

第一に、護法の功徳力によって先業が絞り出される

第二に、魔の力用によって先業が引き出される

第三に、凡師が悪人を折伏する故に耳に逆らう

以上、三つの理由によって法難が起きる、と示されています。


最初の“護法の功徳力によって先業が絞り出される”は、「転重軽受の功徳」として、過去遠々劫から作ってきた謗法の罪障によって、本当なら、大きな悩み・苦しみを背負って一生を生き、死しては地獄に堕ちる大苦報を永く受け続けなくてはならないところを、折伏の功徳で、現世の小さな苦しみに転じて受ける。
つまり、転重軽受して幸せになっていくために、法難が起きてくるということです。

次の“魔の力用によって先業が引き出されてくる”は、我々の生命の中に刻み付けられている過去世の罪障が、魔の力によって引き出され、正しい信仰に励むことへの妨げとなって現われる、ということです。

最後の“凡師が悪人を折伏する故に耳に逆らう”は、折伏する側が凡師であり、折伏される側が末法濁世の悪人であるために、素直に耳を傾けられない、つまり、忠言耳に逆らう結果となって法難が起きる、ということです。

そして、実際には、以上の三つの要因が関連しあって法難がおきてくるのであります。


【護法の功徳力によって先業が絞り出される】

“護法の功徳力によって先業が絞り出される”ということの文証ですが、まず、
「我々は、過去世に正法を行ずる人を迫害して、大地獄に堕ちるほどの罪業を刻んでしまった。ところが、今生で正法を行ずるようになった功徳が強盛(ごうじょう)である故に、未来に受けるべき大苦悩を、ここで絞り出して、小さな苦しみとして受けることができる、その小さな苦しみが法難である」
と示されています。

次に、「この経文」云々というのは、この御文の前の部分に引用されている般泥経(はつないおんきょう)の文のことで、そこには、過去世の謗法によって受けるべき様々な果報として、
「貧しい家に生まれる」
「邪見の家に生まれる」
「国主から迫害を受ける」等々のことが説かれています。

この中の
「邪見の家に生まれる」とは、謗法の両親のもとに生まれる、ということであり、
「王難に値う」とは、正法を弾圧する権力者が治める国土に生まれ合わせる、ということです。
そして、
「この二つの大難は、あなた方も身をもって分かっていることでしょう」
と言われています。

つまり、当時、大聖人の弟子檀那が、信心故に親から勘当されたり、主君から領地を没収されたり、罪無き罪を擦り付けられて牢獄に閉じ込められる、といったことが頻繁に起きていたのであります。

今日、我々の中においても、親を折伏したために信心に反対され、あげくは、包丁を振り回して追い掛けられたり、殴られたり、首を絞められたり、あるいは勘当されて家から追い出されてしまった、ということが、時として起こりますが、こうしたことが、まさに、この「邪見の家」という経文に該当するといえましょう。

また、「王難」について言えば、現段階では、国家権力から直ちに迫害を受ける、というところまでは至ってはおりません。

しかし、それぞれの職場において、折伏に対して怒った経営者や上司によって、給料をカットされたり、窓際に追いやられたり、あるいは不当に解雇される、というようなことは、分々に起きています。

あるいは、公明党の政権与党入りによって、国家権力と謗法とが癒着したことを背景に、不当な警察の取り調べが行なわれたり、不当な裁判が行なわれることもあります。
こうしたことが、王難の一分にあたっているといえましょう。

大聖人は、信心に励んだが故にこうした難が起きてくることについて、
“先業のために地獄に堕ちて受けるべき大苦悩を、謗法の親から責められ、謗法の権力者から迫害されるという、現世の小苦に置き換えて、罪障消滅している姿である”と教えてくださっているのであります。


「鉄(くろがね)を熱にいたうきたわざればきず隠れてみえず。度々せむればきずあらわる。麻子(あさのみ)をしぼるにつよくせめざれば油少なきがごとし。」

刀(かたな)を作る時は、焼いた鉄を打って鍛えていきます。
この時、しっかり打たないと、中の傷が出てきません。
しっかり打って鍛えることで、傷が現われ、それが消えていったときに、頑丈でよく切れる刀ができるのです。
また、麻の実を絞る時も、強く絞らなくては油は取れません。

この譬えをもって、大聖人は、謗法を強く責めることによって、はじめて過去の罪障が絞り出されてくる、と示しておられるのです。
ですから、ただ勤行・唱題をしているだけでは、罪障を消し果てることはできません。

本当に罪障を消すためには、謗法を強く責め、熱心に折伏していく、その功徳によって、過去の謗法の罪障が絞り出され、法難となって現われ消滅していくのです。

世の中の人々が皆、正法を信仰しているなら、折伏する必要はありません。
しかし、世の中には邪宗謗法が充満して、人々は皆、正しい仏法を嫌って悪口を言っています。
そういう中で、正法を心から大切に想い、これを護っていこうとするならば、謗法の人々を折伏して、正法に帰伏させていく以外にないのであります。

今日はとくに、謗法の中でも最たる大謗法の創価学会が、日蓮正宗大石寺に対し、「ペンペン草を生やして、荒れ寺にしてやる」などと言って、攻撃を加え続けています。
これを、ただ指をくわえて見ていたのでは、正法は廃れてしまいます。

この仏法を、心から大切にし、護ろうと思うのなら、このようなことを言っている学会員を折伏して正宗に帰伏させなくてはなりません。

そのように、折伏とは、まさに仏法を護ることであり、そこに法を護る功徳(護法の功徳力による転重軽受)が具わってくるのであります。


【魔の力用によって先業が引き出される】

大聖人は、
「一念三千の法門は、一重立ち入った深い法門である(何が深いかといえば、言うまでもなく、一切衆生を即身成仏させる法門が説かれているからです)。
この一念三千の法門を説いて折伏をする時には、必ず魔が起きてくる。魔が起きなければ正しい仏法とはいえない」と仰せられています。

「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」

これは天台大師の『魔訶止観』第五の文です。

“仏道修行を始めれば、三障四魔が紛然として競い起こってくる。しかし、これに従ったり恐れたりしてはならない。三障四魔に従えば、退転して悪道に堕ちてしまうし、三障四魔を恐れていては、正しい仏道を修行することができない”
ということです。

大聖人は、この天台大師の言葉を引いて、
「これは、大聖人のみならず一門の人々にも当てはまることなので、慎んで習い伝え、先々までも大切な指針とするように」
と言われているのです。

次に、三障四魔の中でも、
「業障」といって、自分に従うべき立場の妻子等が仏道修行を妨げてくる場合、

「報障」といって、上司や両親など自分より目上の立場にある者が仏道を妨げてくる場合、

さらに、「天子魔」といって、絶対的な力を持っている権力者が仏法を迫害してくる場合、を挙げておられます。

この三つは、いずれも、過去世に作った罪障によって起きてくるものです。

たとえば、過去世において、嘘をついたり、人の物を盗んだり、人の命を奪ったりといった、世間的・道徳的な悪事を働いて業を作った人が、今生で仏道修行を始めると、その過去世の業が魔の働きとなって、本来、自分に従うはずの妻や子供が信仰に反対する、という形となって現われてきます。
これが業障です。

それに対し、過去世で、正法信仰者を迫害するなどの仏法上の重大な悪事、つまり謗法罪を犯してしまった人が今生で仏道修行をすると、謗法の罪障が魔の働きとなって、目上の人や上長(じょうちょう)の人が信仰に反対してくる。
これが報障です。

そして、それが最も激しく、強力に起きてくるのが、天子魔です。
強大な権力を握った国主等が迫害を加えてくるわけですから、報障の中の最大のものが天子魔といえます。

では、なぜ、そのような障魔の働きが起こってくるのか、ということですが、
大聖人は、
「過去遠々劫の昔から、幾度となく法華経を信心しても仏になれなかった、という理由は、三障四魔に妨げられ、これに敗れたためである。
潮の干潮と満潮、月の出る時と入る時、また夏と秋、冬と春という変わり目には、普段と違った事象が現われてくる。
凡夫が仏になる時もこれと同じで、三障四魔という障害が起きてくるのである」
と仰せられております。

ここで、なぜ魔の働きが起こってくるのか、ということについて、もう少し説明を加えておきますと、我々は過去において正法に背き謗法を犯し続けてきた。

言い換えれば、魔の眷属として生きてきた、ということになりますが、その誤った生き方が慣性力となって、今、仏弟子としての新たな生き方に切り換えた自分を、元の魔の眷属としての生き方に引き戻そうとする、それが魔の働きです。

ですから、魔の働きというのは、我々を成仏させまいとして起こってくるもので、その魔の力によって、その人の持つ過去世の罪業が引き出され、業障・報障・天子魔という形で法難が起きる場合がある、ということです。

この場合は、前述の“護法の功徳力によって先業が絞り出される”ということとは違いますから、折伏をしなくても、信仰をしようと志した段階で起きる場合もあります。

過去世の業が、軽く転じて出てくるということではなく、魔の力によって引き出され、それが法難として現われてくる、と考えられます。


【凡師が悪人を折伏する故に耳に逆らう】

「法華経が流布すべき末法時代に、この日本の国に生まれて法華経を修行する人には、猶多怨嫉(ゆたおんしつ)の難が甚だしく起きてくる」と示されています。
「猶多怨嫉」とは、法華経に説かれている言葉で、「猶怨嫉(なおおんしつ)多し」と読みます。つまり、法華経を受持信仰する人には、釈尊の時代から、さまざまな怨嫉による難があるが、その怨嫉は、釈尊入滅後の末法時代になると、なお、いっそう激しくなる、という意味です。

その理由としては、釈尊の時代は、
「納化(のうけ)の主は仏なり、弟子又大菩薩・阿羅漢なり」云々
と。
「納化」とは所化に対する言葉で、衆生を教化する側の師匠のことです。つまり、釈尊の時代は、衆生を教化する主が、釈尊という立派な仏様でした。釈尊は、大果報の人として王宮に生を受けたばかりか、数々の素晴らしい徳を具えた、立派な姿をもって衆生を教化したのです。

さらに、教えを受ける弟子の側も、皆、長く仏道修行をしてきた大菩薩や阿羅漢であり、中には人界・天界等の六道の衆生もいたけれども、皆、過去世から釈尊の教化を受けて歴劫修行を続け、さらに今生においても、法華経が説かれるまでの四十二年間にわたって仏法を学んできた衆生でした。

そのように、教えを説く側も立派な仏様であり、教えを受ける弟子達の側も長い修行の積み重ねがあった、だから、法華経が説かれても、比較的すんなりと聞くことができたのであります。

しかし、それでも怨嫉はあったわけで、たとえば、法華経が説かれた時には、五千人もの増上慢の衆生が、嘲笑して説法の座を立って去ってしまった、と説かれています。法華経とは、それほどまでに深く理解し難い教えである、ということであります。

そして、釈尊の時代ですらそうだったのですから、末法時代ともなれば、いよいよ怨嫉は激しくなる、とされているのです。

「何(いか)に況んや末法今時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり。弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり」
と。

つまり、末法時代は、法華経が流布すべき時機ではあるが、その法華経を説く師である大聖人が、我々と同じ凡夫の姿で、何の権力も持たない一介の漁師の子としてお生まれになられているーーそれを指して、「凡師」と称されているのです。

そして、法を聞く側の衆生は、といえば、これがまた、闘諍堅固・白法隠没の時に生まれた、三毒強盛の悪人である、というのです。

ちなみに、末法時代とは、生命の濁った、怒りっぽく欲張りで愚かな人間ばかりが生まれ、争い事が盛んで、ついに仏法の功徳が及ばなくなってしまう、そのような時代であります。

現実に、世の中を見てみると、時代が進むほどに凶悪な犯罪が増えてきております。各国でテロが起きたり、大量殺戮兵器が開発されたりして、いっこうに戦争の危機は去らず、人類は常に破滅の危機と隣り合わせで生活しています。さらに、生命の濁った衆生ばかりが生まれてくる故に、それが世相に反映して、どんどん濁悪(じょくあく)の世の中になっている、といえます。

そのような、末法時代の三毒強盛の悪人に向かって、凡夫のお姿をされた大聖人が法を説かれるーーそれも、けっして耳障りのよい内容でなく、「あなた達が行なっていることは謗法で、世を乱し、地獄に堕ちる元である」というのですから、気持ちよく聞けるはずがありません。

大聖人は、末法のいかなる愚人・悪人でも成仏できることを示されるために、我々と同じ凡夫の姿でお生まれになっているわけですが、それを見て、末法の凡夫は侮り軽んずる心を起こし、「我々と同じ凡夫が、何を偉そうなことを言うか」と反発し、憎悪・怨嫉の念を抱くのです。

かくして、釈尊在世よりも激しく法難が競い起きてくる、というわけであります。“凡師が悪人を折伏する故に耳に逆らう”とは、そういうことです。


「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅(せんだら)が家より出(い)でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二滞(しゃくびゃくにてい)とせり。其の中に識神をやどす。濁水に月のうつれるが如し。糞嚢(ふんのう)に金をつゝめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず、身は畜生の身なり。色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり。」

「旃陀羅」というのはインドの言葉で、生き物を殺して生計を立てる人をいい、これは、古代インドのカースト制度の中で最も低下で賤しいとされている階層ですが、大聖人は、まさに御自身が、その旃陀羅にあたる貧しく賤しい漁師の家に生まれた、と言われているのです。

さらに、
「心には尊い法華経を信じているといっても、身は人の姿に似て、じつは畜生の身である。何故なら、魚や鳥を殺して食べることによって身体を成した両親を合して、生まれたからである。その自分が尊い法華経を信受しているということは、あたかも、濁った池に澄んだ月を映し、汚れた袋に金を包んでいるようなものである。心は法華経を信じているから、梵天・帝釈をも恐れることはないが、身は畜生の身である。真実最高の法を信受する心と、この畜生の身は、不相応だから、それを見た愚者が侮るのである」
と仰せられています。

そして、これによって法難が起きることを示されているのであります。

「俗衆増上慢」の在家の謗法の人達が正法信仰者に迫害を加えてくる。

「道門増上慢」の邪宗の僧侶や職業幹部などが迫害を加えてくる。これは、宗教的権威のある者が仏法に反対するわけですから、仏法に無知な世間の人々の多くが、これに騙され、一緒になって迫害を加えてきます。

「僣聖増上慢」の、多くの民衆から“仏様”“先生”などと崇められている者や、国家権力などが、正法を怨嫉して迫害してくる。この場合は、さらに、たくさんの民衆がこれに煽動されて正法を弾圧することになるのであります。

しかして大聖人は
「法華経に説かれるとおりに折伏を行ずる者(如説修行の法華経の行者)は、この三類の強敵といおう杖で打たれることは間違いない、と知りなさい」
と念を押されています。

以上、法難は、

第一に“護法の功徳力によって先業が絞り出される”ため、

第二に“魔の力用によって先業が引き出される”ため、

第三に“凡師が悪人を折伏する故に耳に逆らう”ため、

という三つの要因が関連しあって必然的に起きるものであります。

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