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免疫の宿コミュの鍼灸(しんきゅう)

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中国を中心に東アジア各地で近代まで行なわれてきた医療の主流は、生薬を用いた「生薬方」と、物理療法である「鍼灸」である。診察手段が「体表観察」と「触診」のみしかなかった古代から近代にかけて、体表面からの病態診断法(「証」と呼ばれる病態の分類法)が発達し、それに対応する治療的技法として、生薬方と鍼灸を二本柱とする治療技法の体系が成立した。つまり鍼灸は東アジアにおける医療技法の片翼で、生薬方に対置するものである。

これら生薬方と鍼灸は、東アジア各国で地域に対応した発達をみたが、特に日本においては、江戸期に技法と技術体系の目覚しい発達が独自になされたことが知られる。すなわち、生薬方は「漢方」として日本独自のものとして発達し、鍼灸も「鍼管(ストロー状の外筒で中に細い鍼を入れるもの)」の発明による鍼の細径化とそれに伴う手技の変化と体系化が成し遂げられた。日本産の生薬方である「漢方」と、日本産の鍼管を用いた鍼灸を併せたものが、従来「東洋医学」と呼ばれ、第二次世界大戦後、共産中国において国策として成立した「中医学」と区別されてきた経緯がある。

日本においては、生薬方を用いる医師と鍼灸を用いる鍼灸医は、早い時代から分業化していたことが知られているが、分業が決定的になったのは江戸時代の盲人政策による。幕府の政策として「按摩」を盲人の専業として規定したところから、手技が連続する鍼灸も時を経ずして盲人の職業となっていった。これにより、日本においては、一般的な生薬を用いる医師(漢方医)と、盲人による鍼を用いる医師(鍼灸医)が医療の担い手となる。

盲人が鍼灸を担った歴史は世界の鍼灸を見渡しても例がなく、日本の鍼灸は非常に特異な経緯をたどったものと言える。先述の鍼管の発明や、技法の独自発達も、これら視覚の不自由な術者が技法を担ったことによりなされた側面が強く、江戸時代の盲人鍼灸医が果たした役割は非常に大きい。幕末から明治初期にかけての西欧医学の導入に際して、漢方医は比較的スムーズに西欧医に移行したが、鍼灸医については、当時の西欧医学には対応する技法もないため医療職からは除外され、「盲人の職業保護」との名目で、慰安業としての、はり・きゆう・按摩の資格と盲学校が残された。しかし、実際には、明治天皇はじめ鍼灸に信頼を寄せる人々も多く、鍼灸は現実には戦前までの国民医療の一端を担ってきたのが実情である。

戦後、それまで営業鑑札であったはりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっている。

なお、医師法との整合性については、「あんまマッサージはりきゆうに関する法律」第一条により、鍼灸に関連する医療行為に関しては、医師による業務独占を部分解除する、という形で認められている。


出典:ウィキペディア(フリー百科事典)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

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