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千載和歌集コミュの慈円の歌  その(7)

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慈円の歌  その(7)


述懐歌の中によみ侍りける

   我が頼む日吉のかげは奥山の
     柴の戸までもさゝざらめやは  (神祇歌 1275 法印慈円)

「私が信仰している日吉明神のみ光は奥山の柴の戸(私の草庵)までも差し込んでこないことがあろうか」(久保田淳)

 「千載和歌集」(笠間書店)によると、この歌は拾玉集の巻一の述懐百首にある歌で、安元元年(1175)4月からの無動千日入堂の頃とある。

 この無動堂での千日修行とは無動寺谷を起点にして、社寺、東塔、西塔、横川を経て日吉大社へ下って無動寺谷へ戻るコースのことである。依然、酒井雄哉師がこの千日修行を完了させて有名になったが、その酒井さんのホームページから、その修行の説明を後に掲げる。慈円の頃の修行と内容の異なることがあるだろうが、その厳しさは変わらなかったであろう。

 この歌にある日吉神社は修行を続ける慈円には毎日通る所であったろう。その神社のお力をも得たいとう気持ちも強くもったのだろう。興味あることに、日吉神社のサイトによると、この神社に最も回数多く行幸されたのは後白河天皇であったとある。天皇は永暦元(1160)年には京都に新日吉神宮を創建され、日吉大神のご分霊をお祀りした程崇敬の念は篤く、天皇・法皇の御代に日吉大社と新日吉神宮を併せて50回余の行幸をされたという。

 当然、慈円はこの日吉大神をそうした皇室との関係で重要なものであると認識にあったのだろう。 日吉の影はそうした皇室の力をも頼んだという想像もし易い。日吉百首を慈円が詠んでいることも慈円の思い入れの強さを物語る。後白河院と慈円との関係は、後白河院が御悩の時に、公請を受け祈祷を修していること。また、建久三年院の崩御に際して、修法していることから、更には院に親近した法印静賢とも慈円は交流したことが知られている。

(参考)
「天台宗独特の不動明王と一体となるための厳しい修行である。839年、天台宗第三世座主、慈覚大師円仁が遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行、当時行われていた五台山五峰を巡拝する行を、帰国後弟子の相応和尚に伝授、これに『山川草木悉有仏性』(山や川、一木一草、石ころに至るまで仏性あり)の天台の教義と、日本古来の山岳信仰の流れが加わり、一千日を7年間で回峰巡拝する修行法の基礎が創られたと伝えられる。現在の千日回峰行は、『12年籠山』『回峰一千日』『堂入り』の全てを満行する厳しい行となっている。千日回峰行者は、未開の蓮の葉を象った桧笠をいただき、白装束に草鞋ばき、死出紐と宝剣を腰に、もし行半ばで挫折すれば自ら生命を絶つ掟のもとに、1年目から3年目は比叡山中255箇所を巡拝する行程約40キロを休まず各百日間、4年目と5年目はそれぞれ連続2百日、計7百日の回峰をする。7百日終了の後9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王と一体になる『堂入り』の行を満じる。6年目は京都市内赤山禅院往復が加わる一日約60キロの行程を百日、7年目は前半百日を僧坊を出て京都市内寺社を巡拝往復する一日84キロの『京都大廻り』、後半百日を山中約30キロを行歩する。7年間で合計一千日を回峰し『満行』とする厳しい修行である。千日で歩く距離は約4万キロ、地球を一周するに等しい距離になる。このうち、7百日までの行は自分自身のための『自利行』、『堂入り』の後の8百日以降は“生きた不動明王”として加持を行い、衆生を救済する『利他行』の行としている。延暦寺の記録に残る千日回峰行者は、平成15年9月満行の酒井大阿闍梨の弟子藤波源信師迄47人、その内二千日は僅か3人である。」
http://www.sakai-yusai.com/yougo/yougo.html

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