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高橋新吉コミュの例の発狂事件をどうおもうか 考

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 高橋新吉と言えば例の発狂事件である。

 有島武郎の家などにより、「今から俺はダダを全世界に宣伝するのだ」といって、タクシーの運ちゃんをステッキで殴り逮捕、留置される。簡単に言えばそう言う事件だ。(1922年12月22日の読売新聞に載っているらしい。)

 辻潤や無想庵などもこの事件に触れる記述がある。この事件は皆さんはどう感じるか聞きたい次第である。

 翌年の「ダダイスト新吉の詩」の出版にすくならず宣伝的にも効果があったとも思われる。
 現代のパフォーマンスアートっぽく捕らえるにはなんとも鋭いものを感じてしまう。
 有島武郎の家に行き彼の社会への態度を難じ金銭をもらい、数軒誰かの家を回った後にこの事件を起している。20歳そこそこの若者というのもなんとも面白い。
 1921あたりの詩と言うのはまさに、ダダイスト新吉の詩に出てくる詩である。
 
 この事件に何か感じる方は何か書いていただきたい。
 
 
 
 

コメント(5)

 なるほど、ゴシップとも捕らえられますね。私は、当時の彼の詩の延長として捕らえています。本当に発狂したかどうかと言う問題でなく。詩の世界に飽き足らず、現実という原稿用紙に一つの象徴を叩き込んだとおもわれます。
 当時の詩人、小熊秀雄などもそうでしたが、ある意味今の詩人とは違うものがあります。それは単に、詩を書くという意味の詩人ではなく、現実との虚構に浮遊するような存在だったとおもいます。運動を通じた詩、詩を通じた運動。
 このようなメカニズムの中で彼のこの事件を考えると、私には一つの詩としてこの事件を考えてもいいように思います。
 辻潤の「ぷろむなあど・さんちまんたる」(ですぺらのなかににある)を読み直した。

 新吉がとうとう発狂した。恐らく彼は彼自身のダダを完成させたのかもしれない。

 冒頭の言葉である。恐らく、辻のこの文はこの発狂事件を述べる人がよく引用する文である。
 まあ、ダダイスト新吉の詩は、一種のアンソロジーなわけで、辻がそれを編んだことは有名である。
 彼なりの当時の新吉観がかかれており、彼のエピソードもちりばめられている。
 そこで僕が印象に残ったのは、新吉が「ダダの講演会」なるものをすると新聞で報じられすっぽらかしたことに、辻が「何分とも狂気に免じて許してもらいたい。」と述べていることである。
 このエピソードで一つ思い出したことがある。それは、E・サティの最晩年の仕事であるバレエ「本日休演」(1925年だったと思う。)である。このバレエは、たしか、実際に公演する前にわざとだかどうか分からないが休演したと言うことが言われている。最後にはちゃんと公演したそうだ。今でも、このバレエの幕間に使われた映画はのこっている。マンレイ、デュシャン、それにサティも映画にでてくる。
 シュールレアリズムが、ドンドン広がり、そのバレエはまるでダダ最後のお祭りのようなものだったのではないかなと想像している。
 この2つの「すっぽかし」のことを思うと、なんとも面白い。新吉のほうの講演は結局なされなかったようだ。
 
 
 
 
  
 
 年末、年始から人間を切り刻んだりする話を聞く。発狂で、タクシー運転手を殴ったといわれる新吉に比べ、切り刻むというのは中々突発的にできることではない。
 肉体労働しているので、手ノコなどよく使うが、丸太一本切るのも大変である。以前、鶏をさばいたことがあるが、骨はそう簡単に切れるものではない。
 ある意味、ユーモアのようなものがあり人を笑わせるような行為が現在の鬱蒼とした空気に波紋を投げかけることとなるのかもしれない。
 おおさかの難波などなら、路上で楽器を演奏するだけでもおまわりさんに注意される。そういった管理体制のストレスへの暴発のようなプチ切れがところどころでユーモアをもって起これば、人を切り刻む前に、牛の解体屋にバイトでもする気になるのではないか。そんな気がする。

 余裕をもって切れたいものだ。

 
 

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