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世界史をボチボチ楽しむ会!(^O^)コミュの赤き皇帝『スターリン』?

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1941年、『モロトフ』は外相として独ソ不可侵条約をとりつけますが、それは『ヒトラー』の罠で、油断したソビエトにナチスは一方的に進軍しました(^_^)v騙された事に激怒したスターリンは、自らの街の名を冠した「スターリングラード」の死守を厳命し「後ろに退く者は、銃殺せよ(`ヘ´)人差し指
この命令が功を奏し、戦闘は勝利はしたものの自軍に射殺された兵士は1万3千人を超えたそうです(≧ε≦)
また、ドイツとの戦闘ではスターリンの息子がドイツ軍の捕虜になった事件が起き、ドイツは息子とドイツ将校との捕虜との交換を要求してきたが、スターリンは、「私に息子などいない」と言ったんです(^_^;)スターリンは、続けて「私の息子ならば、祖国のために喜んで死ぬはずだ(`ヘ´)」と言い放ちます(^_^;)
1952年 スターリンは別荘に1人で、引きこもるようになりました(^_^;)
誰も信用できなくなり、毒味したものじゃないと食事は 食べれなくなってました(^_^;)
スターリンは、1953年 3月1日 別荘で倒れ、その4日後 死去しました(^人^)
自らの手で 有能な医師を軒並み逮捕していたため、満足な治療も施されることは ありませんでした(^_^;)
スターリンは、自分以外の党幹部を全て粛正し 常に孤独の中にいたため、誰も信じれない状況に 陥ったんでしょうか(^_^;)
スターリンの娘『スベトラーナ』は後にこう言ってます「父は いたるところに敵をみた 孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった(^_^)」と(^_^;)

コメント(3)

スターリングラード攻防戦は第二次大戦史上もっとも激しい戦闘の一つだそうで、ドイツの手に落ちると国土分断の上に、ヴォルカ河経由のコーカサス石油の補給ができなくなるので「断固死守せよ」と命令が下りました。
送り込まれたドイツ軍33万4千人のうち死者21万4千人

第二次大戦の戦局の分かれ目になった戦闘だそうです。
はい(^_^)詳しいですね(^O^)スターリンが生きた時代には、独裁者やスターリンのような虐殺を行った人物は、かなり いますね(^_^;)
たまたま この時代を生きたオーストリアの女性の本を持っていて、当時のヨーロッパ情勢が書いてあったのでわーい(嬉しい顔)

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