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post youコミュのyou_01

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とりあえず、この場所を用意してみました。

勝手にアレンジさせてもらいましたが、このコミュニティや
このやり方自体 諸々変更可能ですので、何か希望などありましたら
仰って下さい。

コミュニティ名の「post you」というのは、
”あなたへ送ります”とか
”自身を含む多数の(あなた)が表示される”
といった意味合いで付けました。

コミュニティの内容解説の英文は、mixiのあいうえお作文的なもので、
未知のものがピカッと輝くかもしれないような場になれば良いなぁという
願望です。
Xenon(キセノン)は、未知の宇宙物質ダークマターを発見出来るかもしれない
とされている物質で、ダークマターとぶつかると発光してその存在を知らせる
のだそうです。

コメント(28)

それでは、私の現在の興味・関心事なのですが、
ひとつには「場所」というものがあります。

「場所」とは何か。

松岡正剛さんの文章からの影響が大きいですが、
自分の物事に対する感受の傾向から、考えて行くべき主題であると
思うようになったのが大学の卒業制作の時でした。

それまでの好みを寄せ集めて見ても、
そこにあるのは場所数寄というようなモノではないかと
合点のいくことも散見されるようになっていきました。

場所は古代から考察されてきたようで、アリストテレスにも場所論があるそうです。
近代の日本でも、西田幾多郎の場所論がありますが、読んでいるとぼぅ…としてきて
途中止めのままです。

また、関連して景色や風景、記憶(術)、庭なども興味深いと思います。
あと高速移動が日常化している中で、ポール・ヴィリリオのいう”走行圏”という
ものも現代の場所の一側面を表しているように思います。

PC上に展開する電子の無底の世界や、ブレードランナー以来のサイバーイメージング、
濱野智史さんの言うアーキテクチャの無痛な浸食、Perfumeのプラスチック的工芸性
など、取捨選択の根拠が見出せないハイパーレイヤーなスラブ世界で、自身の地図を
整理して、縮尺に応じた思考や行動が出来ると良いなぁと考えています。

現在の「場所」はどのように表現され得るか、ということなのかな、と思います。
回答します。

卒業制作ですが、細長いテーブルと、その上に窓を想起する枠、その枠にカーテンを
想起する薄い布がつられたものを作りました。
そのセットを展示によって2〜3点設えました。(画像アリ)

薄い布には人の横顔が印刷されていて、布は隙間を空けて二重になっているため
モアレの現象とともに横顔の像が空気の流れで揺らぎます。
テーブルは一台は”空いて”いて、上に小さなオブジェが置いてあります。

作品名は「通り過ぎる」といいます。
記憶や移ろいの場所を”近さ”を通して設えたものだったと思います。


次に”場所数寄”傾向の自覚ですが、
”モノがある”とか”展示する”という時に、場所込みでシーンとして
イメージが動いているのです。
卒制の時には何かしら自分を絞り込む必要があるので、自分の感受性や
作るものに共通の趣向を考えているうちに合点のいったものでした。

道端で何か拾って(鉄の塊、鳥の羽、メモの書かれた紙片…)、テーブルに
トンと置いてぼぅ…と見てみたり、余白や空虚に可能性を感じたり、
ものの在り方を重視してきたように思います。


走行圏ですが、
ポール・ヴィリリオの「ネガティヴ・ホライズン」でその環境的進出と影響が
様々に示されています。
カバー見返しの文章を抜粋します。
”本書において、『速度と政治』の著者は加速度が文化にどのような影響を
あたえるのか、それを示そうとする。”
”人間は岩石圏、水圏、大気圏といったさまざまな環境をコントロールできるように
なったが、この三つの圏についで今日、走行圏つまり速度の空間が出現した。”

大学を出て、通勤で長時間電車に運ばれる身になってから、こういった高速移動
の時空間という場所が気になって来たのです。


スラブ世界ですが、
建築の床を構成する水平面をスラブと言いますが、それを用いた勝手な造語で、
多様で複雑なそれぞれの世界が多数、ある距離を空けて積み重なっている
ような構造を言わんとしたものです。(画像アリ/ex. 仙台メディアテーク)
スラブ世界では各スラブにヒエラルキーは無く、フォーカスやアテンションの
強弱があるだけです。

「新建築」(雑誌です)の新刊では、スラブが一部スロープになり
上下階の床スラブへつながる”スラブの家”のようなプランが紹介されていました。


最後に、場所の表現方法と認識方法ですが、
私は最終的には何らかのかたちをもって作品として表したいと欲しているので、
表現というのは視覚芸術という意味で使いました。

ですが、場所が主語的に表現しているものを認識の目で発見してゆくことは
表現の発明に繋がるものだと考えます。



西田幾多郎の論文は、「季刊iichiko」という雑誌での特集号(NO.93)を
読んでいました。
輪読ですか、勇気づけられます。私が足を引っ張らないといいですが。

ちなみに、この雑誌や焼酎いいちこの総合的なディレクションをしている河北秀也氏は、
大学の教授でもあって、お世話になりました。



以上ですが、回答として不十分なところもあると思います。
今後の対話の中で深まっていければと考えています。
非常に納得出来る分析です。

”近さ”のことですが、
それを知覚(近く!)している時の状態は、全体を自己としていると言いますか、
当座の自分を通過する思考や記憶や目の前に在るコップ、座っていることや室内、
光などの様々を、無数の自己が手前で一旦留保したままそのままにしている
ような”未満”や”以前”の状態だと思います。

うつろいと時間の、速度差の隙間に近さが働いて、本来的に「通り過ぎる」のです。

はっきりとしない曖昧な言葉遊びのような説明ですが、はじめから曖昧な微弱なモノを
形にしようとしていました。なので作品のどの部分がどう言葉と対応しているのかと
いうことは明確ではないのですが、窓やカーテンをもどくことで、内外の際で映像的な
メディウムが映す/写す/移すようなアナロジーを誘発することは、視覚的なものを
含めての言語的なやりとりを考えていました。

あと安部公房は私も好きで、持っていた文庫の『R62号の発明・鉛の卵』を見て、
なるほどと思いました。


「意図的/非意図的」という分割は明快で、ひとつすっきりしました。
思うに私が見ていたものは、モノが表象している”寂び”の風情なのだと思います。
道端や景色の片隅で気に留めるものごとに共通するのは、何かが足りない”寂び”の
場所であったようです。

そういった「非意図的」な場所を「意図的」に表現するということですが、
それにはまず制作にある避け難い人工性を受け入れる必要があります。ものを作ると
それは自然を加工するので、そこから開始するしかないのだと思います。そして
「意図的/非意図的」な違いは、原理的には抽象することで相克可能になると
考えます。幾何学的な矩形を用いたり、要素や素材を引き算で絞るということを
します。あと偶然が関与しやすいようにしておいて人工性を刺激します。

それがどういうことなのかは難問です。
直立二足歩行の末の、両眼視や手指の可動性の進化、幾何学の発明、精神の歴史の
遠い過去に原型が発生するのだと推測します。


上原麻有子さんの論文は早速プリントアウトしました。
私も読んでみます。
なるほど、考えさせられます。

迷わせてしまって申し訳ないですが、
「それを知覚している」時の「それ」は”近さ”を指しているつもりでした。

あと私も、知覚という言葉を使ったのが、感じを伝えるには適当ではなかったと
反省しております。知覚ではなくて、もう少しささやかなところで、(近さを)感じて
いる時、 といったところでした。
一旦留保というのは、感じたモノを、言葉や機能で実際的に分割して了解する少し
手前、在りかたそのままを観じることだと言えると思います。
それで、それは確かに”近さ”と不可分なところがあるように思います。

あと、ここまで書いて(打って)気づいたことですが、私は卒制では時間的な場所、
うつろいの近さを表そうとしたのではなかったか、ということが見えて来ました。
当時もある程度は意図していましたが、抽象してゆく方向も、そういったもの
だったと 納得出来ました。
すべてを事細かに説明は出来ないのですが(もし興味がお有りでしたら、いつか酒の
席ででも 笑)、例えば私は時間の進行をどこか”めくれていく”ような視覚イメージ
で感じている ところがあります。それは映像的なものの世代的影響のせいもあるかも
しれませんが、 薄いものが無音で剥がれて消えて行くような繰り返しです。
そういったことが窓際のカーテンと相俟って、薄い布を重ねることに表されて
いきました。 また、窓枠を想起するフレームはテーブルに対して若干斜めに設えて
あります。 水平垂直に対して、斜めは動的な契機を与えます。等々です。

以上のようなことがpapaさんの質問に回答する中で見えて来ました。


あと作品を見て、「一旦留保」する場合の知覚プロセスのモデルですが、私の場合は
papaさんの言う”単純に受け手が、思考の枠組みに捉えられていることが問題である
として、「一旦留保」することをねらった作品である”というのが当たっていると
思います。
もし私の作品を見て、そこはかとなく”うつろいの近さ”を鑑賞された方がいたならば、
それは私としては本懐であったと思います。ただ、作品を鑑賞するというのは難しい
もので、複雑な、場合によっては専門性を要求されもするので、分からないといった
ような事柄も重要で、蔑ろには出来ないところです。


「エポケー」ですが、現象学の言葉のようですね。なんとなく近い部分もあるのかな、
と思いましたが、こちらは外的な方法としてあるのであれば、少し違うのかもしれま
せん。
あと”遠さ”ですが、”近さ”で言うならば”歴史的/郷愁的近さ”とでも位置づけられる
とは言えないでしょうか。ただ”遠さ”については私にはまだ今後の考察が必要です。



京都にお住まいだったんですね。
庭は面白いものだなぁと思って、自分の中では良いモチーフなのですが、あまり見た
ことはないんです。大学で古美術研究ということで2週間程奈良、京都で寺や仏像や
庭を見て回りましたが、それくらいだと思います。
papaさんは庭のどういったところがお好きなのですか。面白い見方や、現代に通じる
重要なコンセプトがあるように思うのですが。


次に、話は変わりますが何らかのモノを見たり体験した後、それが実は作品であった
ということはあると思います。コンセプチュアルアートの文脈で、市中の看板や電光
掲示板を用いたものなどがそれに当たります。そういった「落ちている空き缶」と
「置いてある空き缶」の”近さ”にこそ表現の根拠を求めた作品は多いのだと思います。
そこには何かしらの抽象化は行われていると考えます、やはり人は自然を丸ごと
作り出すことはしませんし、あくまでシミュレーションを経て取り出されてくるもの
が問題になると思います。

ただ、時間や気候などの変化する環境の中では、意図的な作品にも非意図的なものは
様々に関与してくると思います。窓からの光や、展示空間の特性(フロアプランや
天井高、壁や床の素材、そもそも野外展示など)、そのすべてに影響を受ける鑑賞者
の状態(寒い、熱い、 空腹、健康など)です。
それにpapaさんのA、B、Cの図も入ってくるとすると、非常に複雑です。

視覚に由来する、まさに”遠い”問題ではないでしょうか。
これまでの応答の中で、私の卒業制作での成果物について、
私が作り上げたいと考えていたモノを、出来る限り正確なニュアンスを伝える言葉で
描こうとしてきたのですが、papaさんを困惑させていたようです。


そこでもう一度、”近さ”の説明を見てみます。

”近さ”のことですが、
それを感じている時の状態は、全体を自己としていると言いますか、
当座の自分を通過する思考や記憶や目の前に在るコップ、座っていることや室内、
光などの様々を、無数の自己が手前で一旦留保したままそのままにしている
ような”未満”や”以前”の状態だと思います。


次に、この説明の要約をしてみますと、
            
             「近さを感じている時の状態」
                  =(イコール)
      「当座の自分を通過する様々を、手前で一旦留保したまま
          そのままにしているような”未満”や”以前”の状態」

となりまして、さらに
                
                「近さの状態」
                   =
          「様々を、手前でそのままにしている状態」

となります。

ここで”一旦留保”という単語は約されますが、
ここでは”一旦留保=ちょっと止めといて…”というくらいの意味合いで、応答の中では
結果的に存在が大きくなってしまいましたが、前に書きました「一旦留保というのは、
感じたモノを、言葉や機能で実際的に分割して了解する少し手前、在りかたそのまま
を観じることだと言えると思います。」は、身体的な働きとしての説明で、単語として
の”一旦留保”が重要と言う訳ではありませんでした。
私が言葉足らずだったと思います。


ではさらに要約を続けます。
思い切って最後は

                 「近さ」
                   =
               「手前でそのまま」

となりまして、
これは西田幾多郎の「経験するというのは事実其儘に知るの意である」に近いですが、
「手前で」という距離感的な何とも言えない間合いが抜けています。
この部分が西田幾多郎のいう「判断すら加わらない前をいうのである」に当たるように
思います。

ですので、papaさんが見つけて下さった文章の、「経験」から「純粋経験」へ動いて
ゆくその動的な変化の領域が、「近さ」に当たるのかなと感じています。

ですが西田幾多郎の仕事というのは、このように分割して扱えるものなのだろうか、
という疑問が残ります。私が勝手に様々な思考や書籍からの影響の結果使う言葉と
取り替え可能なのか、と。
西田幾多郎の言葉に影響を受けるのは確実ですが、まったく同じ意味で西田幾多郎の
選んだ言葉を私が選んで使うことは無いだろうと思うからです。

ですので、「近さ」=「(西田幾多郎における)経験・純粋経験」とするのは一致しない
のではないかと思いますし、限定してしまうように感じるのです。
ですが、papaさんの方で「ふむ、大体(西田幾多郎における)経験・純粋経験のことね」
という風に、例えばですが、解釈して頂いても良いのではないか、とも考えます。
というのは、私としてはあくまで速度のある応答の先に、何か興味深い可能性が
垣間見えることを期待するばかりだからです。

学問に対しての畏怖の気持ちは、私にも多くあります。
それでも、ここでの相違がpapaさんの言う”何も進まなくなってしまう”ことに
なるとしましたら、”進む”というのは今の私の考えに無い”何か”なのでしょうか。



庭に関しては次に続けたいと思います!
イロハ言語に対して、きちっと突っ込んでくれるPaPaの姿勢が面白いね。

言語化したコンセプトのブラッシュアップの場として、面白いと思って拝読させていただいておりまする。
まずは質問の回答から致します。

papaさんが混同していると言っていた、
(ものへの身体的・精神的接近ということ)という、一般的な近さの意味を考えたのです
が、私が近さという言葉に感じていることと本質的には同じ意味合いの場所を占めて
いるように思いました。

(ものへの身体的接近)ということには、様々に縮尺が変容する景色の只中で、
それを捉えてゆく、多数の”見え”が伴います。接近によって変化する情報は、
”見え”が我々を行為させているアフォーダンス的な環境につながります。
そういった(身体的接近)という近さは、現在では顕微鏡から望遠鏡にまで至る”見え”
さえも経験的に含んでいるもので、例えばテーブルにあるコーヒーカップをそこに
見る際、陶器製のカップが伝えるぎゅっと詰まった粘土素材の映像も、視覚的に見る
ことが出来てしまうと思うのです。
そうしたバーチャルな”見え”も込みで、(身体的接近)としての近さという言葉はあるの
だと考えます。

(ものへの精神的接近)というのは、ものについての表面的/即物的な理解を超えて、
互いが透けて、時間的なものと交差してゆくような、記憶や歴史が伴うもののように
感じます。例えば、窓際に過去の事柄や知人の顔が映されるのを見とめたり、今居る
場所が過去からの歴史の総体として表象されて来るのを見とめるような、存在の背景
が表立ってくるような作用があると考えます。
存在の奥への接近として(ものへの精神的接近)としての近さがあると言えます。

私は近さという言葉には、
papaさんの言う、世間一般に使われる(ものへの身体的・精神的接近ということ)
という言葉に以上のような内容を読み取ってしまいます。
「近さ」という言葉には本来的に「ものへの身体的・精神的接近」という意味があり、
その内容は以上のようなものだとスッと行ってしまうのです。
そこから始めてしまいます。
としますと、「ものへの身体的・精神的接近」とは「近さ」となります。
そして「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」という関係になり、前回の私の
コメントでの関係を加えますと、
「近さ」=「手前でそのまま」=「ものへの身体的・精神的接近」となりまして、
これでは何か変だなと思います。そこで、

「手前でそのまま」≒「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」としますと、
捉え易くなりました。
「手前でそのまま」というのは、「(近さの)手前でそのまま」という、
「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」というものが意味するものの、その
「手前でそのまま」なのだと考えられると思いました。


結論として、それはメタ近さと言いますか、
「ものへの身体的・精神的接近」がもたらす様々な世界を自覚しながら、
その辺りを逡巡しているのを良しとする状態です。

定義にはなっていないかも知れませんが、動きのあるもので、今後多少の変化はある
と思いますが、現時点ではこのような説明です。


次に、”近さ”の感覚は、誰でも感覚することなのか? ということですが、
どうなのでしょう、やはり感覚する方としない方があるように思います。ただ、
始終感覚しているようなものでもないでしょうし、ふいに感覚する方がしなくなった
り、その逆があったりと、微妙なものだと思います。


あと、物理的に接近したときに始まるものなのか、認識的に接近したと感じたときに
始まるものなのかということですが、どちらかということでは無いと考えます。
というのは、我々はいつだって何かに対しては物理的・身体的に接近しており、認識
は少なからず物理的・身体的なものの影響を内に響かせているからです。


また、何が「一旦留保」するのでしょうか。経験なのか、認識なのか? ということ
ですが、何がではなく、何をということですが、
「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」だと、今回の考察の結果考えます。


質問に関しては以上ですが、長文になりましたので続きを次にします。
このテキストに対する認識の違いについてです。

やはり作品でも、批評・説明でもないのではないかと感じています。
願望も含まれていますが、そういったものでは面白くないのではないか、と
思っているのです。

自分のコメントについては、表現だとは思っています。

”速度”という言葉ですが、何と言いますか”速度を感じる”とでも言うべき
ニュアンスなのですが、行間から滲む志向性に加速をかけるようなことを
イメージしていました、これも願望ですね(笑)

作者でありながら批評者でもあるべきだという立場です(私は)。
言葉の側から洗練させていくことで見えてくることもあると私も当然信じています。

結果的に、自作の意味不明な言葉を大放出的な評価ですが、正確なところを
伝えようというモチベーションなのです。私も言葉は好きなので重要視している
のですが、今後は伝わるように注意していきます。
ただ、思うのですが、納得や説得が最重要なのでしょうか。例えば、papaさんの
”感じ”は初回のやりとりで理解できました。もちろん全人格が分かるなんて言う
のは傲慢であるし、そんなことは全然ないのですが、papaさんも私に対してそう
だったのではないですか。
それが人間の本来的な特性だと思いますし、速いものです。それで、何かしら
人格を通して妙なものが出てくれば、始まりだと思います。


だれの言説であれ、「○○さん言うところの×××…」という風に動いて行くのは
大賛成です。
気になったのは、イコールでないものをイコールであると引用することは出来ない
と思ったのです。西田幾多郎が言うまさにその意味で”純粋経験”と言うことは
無いことだと考えているからでした。


最後にお願いなのですが
「…なんてことを言いだしたのではなく、カントであり、それ以前のプラトン、
アリストテレスのテキストから分割して、批評しているのです。(中略)…ただ、歴史的
にいえば、こういった構造主義的な言語観は、ポストモダン的な展開によって脱構築
され云々…」
このpapaさんの話ですが、非常に興味深いのでもう少し話して頂けないでしょうか。
段落ごとのコメントは見易い構成でした。
ですが、伝えられていないことが多かったようなので、もう少しpapaさんの
コメントと16での私のコメントを以下に対置させて検証させて下さい。

(いろは)
16ー三段落目
(ものへの身体的接近)ということには、様々に縮尺が変容する景色の只中で、
それを捉えてゆく、多数の”見え”が伴います。接近によって変化する情報は、
”見え”が我々を行為させているアフォーダンス的な環境につながります。
そういった(身体的接近)という近さは、現在では顕微鏡から望遠鏡にまで至る”見え”
さえも経験的に含んでいるもので、例えばテーブルにあるコーヒーカップをそこに
見る際、陶器製のカップが伝えるぎゅっと詰まった粘土素材の映像も、視覚的に見る
ことが出来てしまうと思うのです。
そうしたバーチャルな”見え”も込みで、(身体的接近)としての近さという言葉はあるの
だと考えます。

(papa)
16ー三段落目要約:(ものへの身体的接近)の過程で、動くごとに視覚的な情報の変化が
起きる。それが接近する人に影響を与える。以下理解不能。
→前の方の文章はそうだと思う。後の文章は経験からくる予測とか、そういう話で接近
とどう関わるのかいまいち分からない。

※この、後の文章の趣旨は、例えば椅子に座ろうとした時に、接近するにつれて木目
 が見えてきたら、人は木製の椅子だと想定しながら座ろうとする、と言うことです。
 それで実は木目の描かれた柔らかい素材のフェイクであったとしたら、経験との
 ズレに驚いてしまう。
 また、科学技術がもたらしたミクロやマクロの視覚体験は、我々に物質の内部構造
 や銀河の姿までを、教科書の図版や理科の実験で覗いた顕微鏡の経験等を通じて、
 身体的接近による視覚の変化の幅を大きく広げた、と言える。その為、接近するに
 つれて木目をみとめ、木製椅子だと想定して腰を下ろし、その木質に木材の繊維
 構造までをバーチャルに見ることは可能な訳で、現在我々は、身体的接近という
 言葉にそこまでの結果がついてまわり得る状況に生きている、ということです。
 それが五段落目前半での、私の言葉に対する読み取り方へ繋がります。



(いろは)
(ものへの精神的接近)というのは、ものについての表面的/即物的な理解を超えて、
互いが透けて、時間的なものと交差してゆくような、記憶や歴史が伴うもののように
感じます。例えば、窓際に過去の事柄や知人の顔が映されるのを見とめたり、今居る
場所が過去からの歴史の総体として表象されて来るのを見とめるような、存在の背景
が表立ってくるような作用があると考えます。
存在の奥への接近として(ものへの精神的接近)としての近さがあると言えます。

(papa)
16―四段落目要約:(ものへの身体的接近)の過程には、時間が関係している。接近は
時間のなかでの比較より生まれる。
→その通りだと思う。ただ「時間」ってのは厄介で何でも「時間」で括られうる。
『存在と時間』。

※ここは良さそうですね。


次に続きます。
(いろは)
私は近さという言葉には、
papaさんの言う、世間一般に使われる(ものへの身体的・精神的接近ということ)
という言葉に以上のような内容を読み取ってしまいます。
「近さ」という言葉には本来的に「ものへの身体的・精神的接近」という意味があり、
その内容は以上のようなものだとスッと行ってしまうのです。
そこから始めてしまいます。
としますと、「ものへの身体的・精神的接近」とは「近さ」となります。
そして「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」という関係になり、前回の私の
コメントでの関係を加えますと、
「近さ」=「手前でそのまま」=「ものへの身体的・精神的接近」となりまして、
これでは何か変だなと思います。そこで、

(papa)
16−五段落目要約:以上三段落目、四段落目の内容が世間一般にいわれる近さである。
→本当にそういえるのか。ちなみに私が想定していた世間一般の近さというのは、身体
的な近さ、接近とは、例えば、何か切ろうとしてハサミを手に取る(厳密には取る直前
)。そのときの私とハサミとの関係。一般的な精神的近さ、接近とは、憧れだったあの
子と付き合うことになった(厳密には付き合う直前)。そのときの私と異性との関係か
な、と思っていました。私はやはり世間一般の解釈といろはさんの解釈には隔たりや違
いがあるような気がします。その考察はもう少し練ってみます。

※私は、ある言葉に対して、その意味合いや世界観を辞書的なものより随分広げて
 考えていることが多いのだと思います。ですが、ここではpapaさんが要約した、
 ”…の内容が世間一般にいわれる近さである”とは言い切っていなくて、私の場合は
 という書き方をしたつもりです。
 papaさんの精神的接近の例は、なるほどと思いました。


(いろは)
「手前でそのまま」≒「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」としますと、
捉え易くなりました。
「手前でそのまま」というのは、「(近さの)手前でそのまま」という、
「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」というものが意味するものの、その
「手前でそのまま」なのだと考えられると思いました。

(papa)
16−六段落目要約:要約不能。最後の文章の主語と、述語が「手前でそのまま」で同語反復のため。
→…。如何ともしがたし。

※11のコメントで、私が「近さ」=「手前でそのまま」と要約しましたが、16で考察
 する内に、
 
 (これまで私が言っていた)「近さ」= (私が捉える)「ものへの身体的・精神的接近」
 
 と言い得ると考察が進みました。それで、11では「近さ」=「手前でそのまま」と
 捉えていましたが、「手前でそのまま」は「ものへの身体的・精神的接近」とは
 違うと感じて、「手前でそのまま」≒「近さ」(「ものへの身体的・精神的接近」)
 としてみたのです。
 すると、「手前でそのまま」は「近さ」に近似のもの(≒)となりますので、
 
 「手前でそのまま」≒「近さ/ものへの身体的・精神的接近」となります。
 
 ただし、この時点で「近さ」は、11の「近さ」=「手前でそのまま」で言っていた
 ものから、(私が捉える)「ものへの身体的・精神的接近」という意味を持つ、言葉
 としての「近さ」に変わっています。
 そして、(11で「近さ」とイコールであった)「手前でそのまま」は、「近さ/
 ものへの身体的・精神的接近」と近似の、いわば少し手前、つまり
 「近さ/ものへの身体的・精神的接近」の、「手前で」「そのまま」なのだと
 捉えられると考えたのです。



次に続きます。
(いろは)
結論として、それはメタ近さと言いますか、
「ものへの身体的・精神的接近」がもたらす様々な世界を自覚しながら、
その辺りを逡巡しているのを良しとする状態です。

(papa)
16−七段落目要約:「ものへの身体的・精神的接近」は、漠然とした状態を招きうる。
→いろはさんは世間一般の近さと自分の解釈はそんなに変わらないと最初に書かれて
いましたが、この部分は世間一般にはないでしょう。ここが重要な気します。

※ここは、六段落目で
 「手前でそのまま(11での「近さ」)」とは、「近さ/ものへの身体的・精神的接近」
 の手前の辺りなのだろうとした結果、
 (これまでずっと説明を試みて来た「近さ」つまり)「手前でそのまま」とは、
 「ものへの身体的・精神的接近」という、一般的な近さの意味を、私が捉えた時に
 含まれ得る、辞書的な意味を超えた領域の、まさに手前で、そのままに在るという
 ことだと言い得る。と結論しました、ということです。
 つまりpapaさんの要約で言いますと、「ものへの身体的・精神的接近」の手前で、
 そのままに在るということは、漠然とした状態を招きうる。という方が、私の意図
 する意味に近いと思います。
 また、”世間一般の近さと自分の解釈はそんなに変わらないと最初に”書いたという
 ことではなくて、近さの世間一般の意味としての「ものへの身体的・精神的接近」
 という言葉が持ち得る現在の意味合いは、私が今まで言っていた「(11での)近さ」
 と変わらないものを持っていると言いたかったのです。



(いろは)
次に、”近さ”の感覚は、誰でも感覚することなのか? ということですが、
どうなのでしょう、やはり感覚する方としない方があるように思います。ただ、
始終感覚しているようなものでもないでしょうし、ふいに感覚する方がしなくなった
り、その逆があったりと、微妙なものだと思います。

(papa)
16−九段落目要約:”近さ”の感覚は、感じる人、感じない人、また時と場合による。
→世間一般の近さは誰でも感じる(無意識的にも含め)ものではないでしょうか。そう
でなければ、社会生活が困難でしょう。手を火に近づけて熱い!!とてをどけなければ
、焼けてしまいます…。

※papaさんの言う通りです。
 ですが、13でのpapaさんのこの質問の全文は、
 
 ・いろはさんの定義する”近さ”の感覚は、誰でも感覚することなのか?
 
 と言うことでしたので、私の回答は、いろはが定義する(してきた)”近さ”、つまり
 16での「手前でそのまま」の感覚についての回答です。
 質問の全文を書いていれば良かったですが、御自身の質問であるのと、ここまでの
 やりとりで了解済みのはずだと考えていたせいでした。



(いろは)
あと、物理的に接近したときに始まるものなのか、認識的に接近したと感じたときに
始まるものなのかということですが、どちらかということでは無いと考えます。
というのは、我々はいつだって何かに対しては物理的・身体的に接近しており、認識
は少なからず物理的・身体的なものの影響を内に響かせているからです。

(papa)
16−十段落目要約:…
→出題意図を忘れてしまいました…。身体的・精神的のところとも関係するところなのですが。

※一応、質問を全文書いておきます。

 ・いろはさんの定義する”近さ”の感覚は、物理的に接近したときに始まるものなのか
  、認識的に接近したと感じたときに始まるものなのか。



次に続きます。
(いろは)
また、何が「一旦留保」するのでしょうか。経験なのか、認識なのか? ということ
ですが、何がではなく、何をということですが、
「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」だと、今回の考察の結果考えます。

(papa)
16−十一段落目要約:「近さ」=「ものへの身体的・精神的接近」によって、「一旦留
保」する。
→これもやはり世間一般とはつながらないと思いますがねぇ。そのことについてはもっ
と説明が必要だと思います。

※ここで気になるのは、「一旦留保」という言葉の、初めての登場時と扱いが変化
 していることです。初めは、5のコメントで、
 ”近さ”のことですが、
 それを感じている時の状態は、全体を自己としていると言いますか、
 当座の自分を通過する思考や記憶や目の前に在るコップ、座っていることや室内、
 光などの様々を、無数の自己が手前で一旦留保したままそのままにしている
 ような”未満”や”以前”の状態だと思います。

 と登場しました。つまり上記のように、
 「…通過する様々を、手前で一旦留保したまま そのままに…」というように、
 「…を、(手前で)一旦留保したまま…」として、
 「…を、一旦留保…」という、一旦留保とは何か”を”一旦留保するのであって、
 何か”が”一旦留保するのでも、何か”によって”一旦留保するのでもないということ
 です。
 そして回答として、
 「一旦留保」つまり”=ちょっと止めといて…”(←11)、
 つまり「一旦留保(手前でそのまま)」とは、何を「手前で」「そのまま」なのか
 と言うと、16−六段落目の補足説明から、
 「近さ/ものへの身体的・精神的接近」の、「手前で」「そのまま」つまり
 「近さ/ものへの身体的・精神的接近」を、「手前で」一旦留保し「そのまま」
 となると言う結論でした。


 


極力細かく説明をしてみました。
ここまでやるのは、はっきり言ってくどいと思いますが、
”進む”ことを期待しての説明です。

筒井康隆の『文学部唯野教授』ですが、機会があれば読んでみます。
細かい事ですが、訂正させて下さい。


前回のpapaさんの言葉で、

前回の私の応答(18)は、誤解を恐れずいろはさんの文章から私がくみ取ったエッセンス
(要約)を書くという形式にしたところ、いろはさんは「見易い」と感じられたのでした

とありますが、
形式についてのpapaさんの説明は、
"今回は段落ごとの要約とそれに関してコメントをつけるという形式にしました。"(18)
というもので、それを受けて私は、
”段落ごとのコメントは見易い構成でした。”(19)と書いたのです。

つまり、前回(23)は、
"…エッセンス(要約)を書くという形式にした" → ”「見易い」と感じた”
と読めますが、正確には
”段落ごとの要約とそれにコメントをつけるという形式にした” → ”見易い構成でした”
と書いています。

ですので、私はあくまで”段落ごとの構成が見易い”と、(18)でのpapaさんの文面を見て
感じたと(19)の始めに言いたかったのです。
伝わってないなぁと感じたのは要約とコメントの内容を読んだからで、形式の
ためではありません。


そして、(19)〜(22)のコメントは確かに長過ぎるというべきものだと思います。
その為にpapaさんは全体像がつかめないと言いました。
ただ、もう一度見てもらえば、(16)の私のコメントに対して、(18)でのpapaさんのコメント
が下にあり、その下に※を付けて私の補足説明があるという、いたってシンプルな構成
でして、それを繰り返しているだけです。
引用はくどいとは思いますが、(13)でのpapaさんの質問

・いろはさんの定義する”近さ”の感覚は、誰でも感覚することなのか?

という文でさえ、省略したせいで勘違いしてしまったのです。本当に驚いたのです(笑)。


次に、指摘を受けて、批判と比較と分類については今後意識するようにします。
ただ、この場は批評をやりとりする場だとは考えていなくて、批評的な要素も
含まれる事もあると思いますが、私としては興味深い何かが創発するならば、
例えば意見の飛躍や断片的な思いつきでも良いと考えています。


最後に、papaさんが出来ないと書いている以上、本当に外部の助けが必要ならば、
呼びかけを試みる事も考えられます。
ただ、その前に上海ヌーンが名乗りを上げるかも知れません。


カントの『純粋理性批判』、私も気に留めておきます。
これからの選択肢についてまず書きます。

外部の人のコメントですが、
例えば知人に読んでもらって感想を頂く、それを動画で貼付ける。
というのが浮かびました。
上海ヌーンに対しては、自分から参加希望を表明してきたということもあるので、
”何もしてないぞ、それで良いのか”という、励起を促すつもりもありました。


新しいトピックは、例えば思想史や10年代の評論についてなど、
papaさんの知っている事を聞かせて頂きたいという願望があります。
読書量が私と比べてずっと多いので、そこから得たものを披露してもらいたい
と考えています。
私がpapaさんに期待していることのど真ん中はここにあります。


作品については、このトピックでのやりとりで、いくつか自分の考えが深まったり
刷新した部分はあるのですが、やはり卒制は4年前のことなので、そこでのコンセプト
を何とかpapaさんに説明しようとしたのがこのトピックになっているので、
私としてはまだ始まっていないという感があります。非常に有意義ではありましたが、
まだ未知の何かは見えていないと思っています。
もちろんもう一度卒制の際の感覚に立ち戻って、現在の感覚と交差させてやることは
可能だと思うので、そのラインも並行して考えてみます。


ただ、その前に前回の、
”受け手が辟易してしまってはダメ”と言ってしまうことは、今後papaさんが辟易した
ものについてはコメントしないということがアリになると言う事です。
それでは(12)の、

”…違うということがあれば、しっかり違うといってほしいし、…(中略)こうだ!!と
提示して、私(PaPa)が納得するか、しないか。しないようであれば、説明・説得して
ほしいし、…(中略)そのように考えています。”

という言葉を反古にしてしまうと思います。
ですので、もう一度(19)〜(22)に対してコメントを試みるべきではないでしょうか。
了解しました。
papaさんが仰ることは分かります。

それでは、外部からのコメントを得る方法を考えます。
少し間が空くこともあると思いますが、何か考えます。


次の展開は一旦置いておきましょう。

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