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人間論および人間学コミュの構造構成主義入門 第二章「構造としての人間」論

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          第二章 「構造としての人間」論

                 (1)

            ヘブライズムの人間観

          名をつける理性が欲望膨らませ罪に堕ちゆき審きの庭に

佐々木:やっと第二章ですが、第二章では現象学的思考法やさまざまな方法論の検討に入るのですか。

やすい:いちいちそれを検討していきますと、またそれだけで膨大になります。

 元々、構造構成主義を「人間論の大樹」を構築するのに方法として使えるかどうかを検討するのが、主目的なので、それぞれの人間論の構造論的な特色を明らかにする中で、さまざまな方法論の検討も織り込んでいくことにしましょう。

佐々木:といいましても人間論はたくさんあるので何から入るのかが大変ですね。

やすい:そうなんですよ、佐々木さん、悩みますね。

 まず「シェーラーによる人間観の五類型」を素材にしましょう。「人間論および人間学」のコミュニティにも紹介した、私の論稿です。

佐々木:『駿台フォーラム』に掲載されたものですね。

宗教的人間観、
ホモ・サピエンス観、
ホモ・ファーベル観、
必然的デカダンスとしての人間観、
要請的無神論の人間観の五類型と、
シェーラー自身のミクロ・テオス(小さな神)としての人間観ですね。

やすい:第一類型は〔宗教的人間観〕です。ヨーロッパの宗教ですから、ユダヤ教・キリスト教に限定されます。

 『バイブル』に基づいて、堕罪や審判、超越神による直接的な創造などの神話が宿命的な暗い人間観を形成してきたとしています。

佐々木:シェーラーによれば、あくまで神話であり、荒唐無稽なものなのでしょう。でもヨーロッパ人には深い精神的な影響を与え続けていると言いますね。

やすい:シェーラー自身は、人間にとって超越的な他者であり、審判者である神の存在を拒否し、神を人間自身が生成させるものとして主体的に捉え返し、「宗教的人間観」からの解放を目指したのです。

佐々木:この人間観の構造というか、ヘブライズムにおける人間の存在構造はどのように特色づけられますか。審判における滅びに向かう宿命論的構造ですか。

やすい:時間的存在としては堕罪による楽園追放から審判への一直線です。そして垂直的な超越構造とでもいうのでしょうか。絶対的な他者、超越者との関係において存在するのです。自らの存在根拠を超越者に依存しているわけですね。

佐々木:超越者というのはヘブライズムの神ですね。神によって作られたということでは、それはどの生物でもいえることで、格別人間の存在構造ではないでしょう。

やすい:他の生物はそのことを自覚していません。超越者から作られたことを意識して、それをアイデンティティにしているのがヘブライズムの人間観ですね。

佐々木:神の似姿ということで人間の特権的な位置を説明しますね。神は事物を超越しているので姿形はないはずなのに、神に似ているというのはおかしいですね。

やすい:ヘブライ人の信仰も、元々族長にだけ現れる族長神の段階では、神は人間と同じ姿だったのです。その頃の名残もあるわけです。

 ギリシアは人間と神は理性を共有しているといいます。『バイブル』の「創世記」でもアダムは名づけ能力があって、そこが天使より優れているとイスラムの『クルアーン』には書いてあります。

佐々木:そういう意味では理性的人間観というのもヘブライズムには含まれているわけですね。

やすい:もちろんそうです。

 「創世記」の楽園追放までのアダムとエバについての記述には
「神の似姿としての人間」
「言語能力をもつものとしての人間」
「自然支配権を委ねられた人間」
「神に背く者(堕罪による原罪)」
「善悪を知る智恵の木の実を食べた者(価値判断能力=道徳的存在)」
「羞恥心」
「性的人間」
「罰としての労働」
「土から生じて土に還る存在(死、有限性、大いなる生命との合一)」

など人間論のさまざまなバリエーションが含まれているわけです。

佐々木:罰としての労働もそのことによって、人間が大いなる生命ととの合一を悟るための勤行というように捉え返すことも可能だということでしょう。

 プラトンの『プロタゴラス』の中の「プロタゴラスの人間論」のスピーチと並んで非常によくできたバランスのとれた総合的な人間観になっていますね。

やすい:ええ、「創世記」にはヘレニズムの影響も考えられますね。

 ただ神観念以外でヘレニズムと対極的なのが、価値判断力を悪と見なしているところですね。

 言語能力によって理性を持つというところはオーソドックスな人間概念なのですが、その理性によって神から離れ、神に背いて罪に堕ち、裁かれる宿命にあるというのがヘブライズムの人間観の構造になっており、それが大戦間時代には人類滅亡の危機意識と一体化したのです。

佐々木:それと対称的に、ギリシアでは神と理性を共有していることに人間の尊厳を求めています。

 ソフィストたちは各人の持つ価値判断に従って行動することを可能にするために弁論術を教えたわけですね。しかしソクラテスは、各人の知は独断にすぎないことを踏まえ、「無知の知」を自覚した上て、みんなの話し合いで普遍妥当的価値の構築を目指したわけでしょう。

やすい:ヘレニズムでは、理性は万人共通という信頼があったので、肯定的に捉えられたのですが、ヘブライズムは個人の価値判断力には否定的です。人間の価値判断は、大変頼りないし、ひとそれぞれなのでまとまらなくて、争いの元だと考えました。だから価値判断は神に任せてしまえばよい、そうすれば神は一者だから、一つの判断の元に団結できるというわけです。

 つまり神の知に比べれば人間は無知に等しいから、神の知であるトーラーに従いなさいということでトーラー主義を主張しています。それが彼らのいう智恵なのです。

佐々木:それでは過去に神から預言者に与えられたトーラーを遵守するだけの保守主義ですね。原罪や歴史や神に縛られてしまって、自由な理性の活動ができませんね。

やすい:自分たちの理性の自由な働きで歴史を切り開くという意識が否定されているので、どうしても宿命論的な構造にならざるをえません。

佐々木:ところで、超越神信仰をしていない人々は人間としての存在構造に生きていないということになりますか。

やすい:ヘブライズムからは、そういうことになるかもしれませんね。

 その意味では、超越神信仰をもつということは、他の人々と自分たちを徹底的に差別化し、人類のエリートとして自分たちを自覚します。

佐々木:選民構造ですね。<エリート―大衆>図式ですね。

 バイブルでは人間と動植物を分け、イスラエルと他の諸部族を分け、預言者と大衆を分けます。神はただエリートとだけ交信し、エリートによる支配を命じます。

やすい:<エリート―大衆>も垂直構造ですね。

 エリートの権威は下からではなく、上から与えられます。究極的には唯一絶対の神に求められます。だから大衆のほうは全く自由意志を喪失して奴隷状態に陥るわけです。

 しかも上から与えられた成就不能なトーラー(律法)の遵守が求められるので、必然的に訪れるであろう審判に怯え得ざるを得ません。宿命的構造になるのです。

佐々木:その意味でイエスの十字架による贖罪が行われたのも必然性がありますね。

やすい:しかしイエスの贖罪は、トーラー秩序の破壊を伴い、ユダヤ社会では孤立しましたから、<エリート―大衆>構造があって、終末・審判の結果救済されるのはごく少数のイエスをキリストと認めたエリートでしかありません。

佐々木:でもユダヤ教徒たちは、何故わざわざ成就不能なトーラーを定め、神の裁きに身を委ねようとするのでしょうか。

やすい:それは信仰を試しているのです。信仰するとそれが命がけであると示したくなるのです。

 もし神が唯一絶対の神ならば、本当に信仰していれば不可能なトーラーはありえません。例外的に二律背反的なものもありますが。

佐々木:安息日に行き倒れを見ると、助ければ安息日のトーラーにそむくことになり、助けなければ隣人愛のトーラーにそむくことになります。

やすい:第一、トーラーを守ろうとすること自体、神の国に入れてもらうための利己的な行為だとすれば、隣人愛の行為も実は表面的なものであって、愛情を装っているだけですから、神と隣人を欺くことであり、トーラーに反しているのです。

 とはいえ、安息日は家にこもるとか、例外規定を設けて二律背反を防いだり、いろいろ工夫をしています。もちろん本人は真面目にトーラーを守っているつもりですから、欺瞞だとは思っていません。

佐々木:やすいさんがおっしゃりたいのは、どんなに不可能と思われることでも神の加護を信じていればできるということですね。でも実際には、神はたとえ真面目に信仰に生きても、苦難で悲惨な人生送る人もいれば、逆に神のことなど考えないで、富み栄え、おごり高ぶったまま、人生を終えるものもいるわけです。

やすい:そういうこともありますね。それに「神は自ら助くる者を助く」という言葉もあります。あまり神の力に頼るのもいけないのです。精一杯努力したうえで、後は神の御心のままにということで、それがたとえ思い通りにいかなくても神を恨まないことですね。

佐々木:しかしそれでは神は全能の神なのに頼りにならないじゃないですか。

やすい:それは仕方がありません。

 神を絶対者にすることで、味方につけると「神は吾が櫓、吾が強き盾」で数倍する敵を打破できますが、敵に力をつけてユダ王国を滅ぼされることもあります。

 それはトーラーを守らなかった神罰だということですが、全く義しい場合でも神は沈黙を守ることがあるのです。

佐々木:それは遠藤周作の『沈黙』のテーマでしたね。江戸幕府の禁教政策による弾圧でたくさんの殉教者がでたけれど、神は奇跡を起こして救うということはされません。日本人なら「神も仏もないものか」と嘆くところですね。

やすい:そういう発想は神は人間のために存在するという人間中心主義の信仰なのです。ヘブライズムは、建前では神中心主義です。ですから神が人間のために存在するのではなくて、人間が神のために存在するということが根本なのです。

佐々木:なるほど「神の被造物としての人間」ですね。だからいかに神が全知全能でも、その人がいかに義であっても、救われるとは限らない。しかしそういう神中心主義を徹底しますと、そういう信仰を人間が採用するのはむつかしくなりますね。だって人間は神のために信仰するわけではなく、あくまでも自分のためですから。

やすい:本音では確かにそうでしょうが、ヘブライ人(ユダヤ人)は大変な民族的苦難の中にあって、絶対的に強い神を欲したわけです。最初はヘブライ人も石を神にし、それを枕にしていた。あるいは神の山ホレブなどの火山を信仰していたわけです。それではすべての神々を凌駕できる絶対的な神には成り得ません。

佐々木:自然の事物や自然の摂理ではなく、自然自体を創造した、コスモスを超越した、創造主にまで行き着いたわけですね。

 そうなると人間が祭ることによって神になるのではなくて、人間自身が神の被造物で、神を崇め、神の栄光をほめたたえる為に存在することになってしまったのですね。
                

コメント(7)

                                             (2)

                             キリスト教の人間観
 
       永遠の命の証示したりイエスにつながり命に還へらむ

佐々木:ヘブライズム一般とキリスト教では随分違うでしょう。キリスト教の人間観を伺ってから、ホモサピエンス観に行きましょう。

やすい:イエス・キリストが贖罪の十字架につくことで人類は救われているというのが加わるわけです。

佐々木:贖罪の十字架の話の前に伺っておきたいのですが、イエスを十字架に就けたということで、ユダヤ人が迫害されてきたのですが、ユダヤ人はそれを否定していますね。

やすい:当時、イエスはユダヤ地方から北に百キロメートル離れたガリラヤ地方で布教していました。

 追い詰められたイエスたちは、過ぎ越しの祭りにローマ帝国の直轄統治を受けていたユダヤの聖都イェルサレムで神殿に乗り込んで、起死回生を狙って説教などのパフォーマンスを行ったのです。

 でもユダヤ地方の人々つまりユダヤ人の支持を得ることができず、かえって民衆に偽メシアとして捕らえられ、ユダヤ教の最高法院で死に価するとされ、ローマ総督に死刑にするように要請されて死刑になったと福音書には記されているのです。

佐々木:当時の最高法院ではイエスの言動に対して死刑を要求することはありえないというのが現在のユダヤ人たちの見解ですね。むしろローマ帝国がイエスを反逆者として死刑にしたかったのではないかということらしいですが。

やすい:それは説得力がありません。ローマ帝国はユダヤ教が一枚岩にまとまることを恐れていたわけです。むしろイエスなどの異端が活躍してくれたほうが好都合なのです。

 それにユダヤ教徒の中には熱心党などのようにローマ帝国からの独立武装闘争をよびかける人々が出てきますが、イエスは一切武力抵抗は排除しています。

佐々木:では具体的にイエスはどういうユダヤ教徒が死刑にしたくなるような罪をおかしていたのですか?安息日に治療を行ったからですか。

やすい:『十戒』ができた当初は当然死刑でしたね。でもイエスの在世時代にはそういうことでは死刑にすることはなかったようです。

 ただイエスの場合「安息日は人のためにあり、安息日になにをしてもよいかは人の子(メシアのこと)が決める」と傲慢な態度をとっていたので、怒りを買っていたでしょうが。

佐々木:神殿の崩壊を予告し、三日で再建すると言ったので神殿侮辱の罪で告発されたということですが。

やすい:それは証人の証言があいまいなので罪に問えなかったのです。

佐々木:それではやはり、メシアを名乗ったことですか?

やすい:過ぎ越しの祭りには、我こそはメシアなりと名乗る人がイェルサレムに入城して、神殿で演説をしてもよいことになっていたようですね。

 イエスはロバに乗って入城しますが、それを民衆が出迎えています。イエス教団が総力をあげて神殿でのパフォーマンスを行ったことが伺えます。

 ですからメシアを名乗りたとえ偽者と思われてもそのことだけで死刑にするようなことはなかったでしょう。相当の脅威を民衆に感じさせたことがなければ。

佐々木:イエスが偽メシアと民衆に思われたのはやはりローマ帝国に抵抗する姿勢をみせなかったからですか?

やすい:ファリサイ派の説教師がローマ帝国に税を納めるべきかどうか糾しました。もし納めるべきだといえば、ユダヤ解放のメシアではない証拠だと民衆に思わせることができますし、税を納めるべきでないといえば、総督に反逆者だと訴えることができます。

佐々木:結局、イエスは「カエサル(皇帝)のものはカエサルに、神のものは神へ」と言って、納税を勧めます。これには民衆は幻滅したでしょうね。

やすい:でもそれはファリサイ派の罠だということですから、民衆もそんなことではそれほど怒らないでしょう。

 むしろイエスの系図がいい加減なものであったことは、民衆を騙そうとしたということで怒ったでしょうね。

佐々木:系図の話は神殿では出なかったと思いますが。

やすい:メシアはユダヤの王でなければならないとされていたので、当然ダビデ王の子孫に限られるというのが常識だったのです。イエスもダビデ王の子孫だと言いふらし、系図までもっていました。

 ところがイェルサレム神殿では、メシアはダビデ王の子孫ではないと開き直っています。ダビデ王が詩篇の中でメシアに対して主人に対するような言葉遣いをしているので、祖先が子孫にそんな言葉遣いをするのはおかしいからです。

佐々木:やすいさんの解釈では系図がいい加減だというのがばれていたので、苦し紛れの発言だったということですね。

やすい:イエスの系図は「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に載っているのですが、双方を比較すると祖父の名前からして違うのです。イエスの在世時代に弟子たちが、イエスの家系を暗記して吹聴していたのでしょうが、弟子によって中身が違うと問題になっていたのかもしれません。

佐々木:急にメシアがダビデ王の子孫でないと言われても、民衆は納得できなかったでしょうから、偽メシアだと確信したでしょうね。他にもイエスに対する反発する理由があったのですか。

やすい:イエスは弟子を布教にいかせるときに、何も持たないで行けというのです。

 そこで悪霊追放を見せて、イエスの説教を語るわけですね。そうしますと入信者が出て、宿を貸してくれ、食事にありつけるわけです。

 でも弟子はイエスほどうまく奇跡を見せられないので、失敗することが多いわけです。イエスの説教も何度も聴かされますと新鮮味がなくなってきます。

 イエスは弟子たちに、布教がうまくいかないと、靴底の土を払って、この町は審判の日にはソドム以上の災いを受けるだろうと呪いの言葉投げかけて町をでなさいと言っています。

佐々木:そりゃあひどいですね。「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたイエスとは思えません。

やすい:イエスたちは悪霊追放の奇跡で民衆に強いインパクトを与えていました。

 ファリサイ派もインチキだと攻撃することはできず、悪霊の親玉がイエスにとりついて悪霊退治をやらせていると言うぐらい巧みだったのです。

 このファリサイ派の言葉によってイエスたちに対する恐怖心が蔓延していた可能性があります。ユダヤの民衆にすれば、ユダヤの民衆に敵対し、呪いをかけてまわっている悪霊集団というイメージがあったかもしれないのです。
佐々木:贖罪の十字架にイエスが就いてから、人類の罪が贖われたといっても、それ以後人間たちは以前にもまして罪を重ねていますね。それ以後の人々の罪までイエスは贖うことができるのですか。

やすい:それができることになっているのです。そうでないとキリスト教は続きません。神を信仰せずに、神に背いた人々の罪をすべて背負ってイエスが十字架につくということは、イエスの贖罪の十字架の後でも、我々の不信仰がイエスを十字架につけているということなのです。

佐々木:時の不可逆性を否定しているのですね。イエスの贖罪というのはそれだけ時代を超えた普遍性、永遠性があるということですか。

やすい:話をソクラテスの毒杯にずらせば、理解しやすいかもしれませんね。

佐々木:ソクラテスは、自らは全く無罪だと主張しましたが、アゴラの人民裁判で死刑の判決を下された。これはみんなで決めたことだから法に当たるわけです。みんなで決めたことをみんなで守ってこそ、アテネの民主政治が成り立つわけで、みんなで決めたことが自分の利益に反するからといって従わなければ、ポリスを否定したことになります。ポリスの法を遵守することこそ全般的正義だとアリストテレスは言いますが、その際ソクラテス裁判が念頭にあったわけですね。

やすい:ソクラテスは毒杯によって、生身の身体は死ぬけれど、みんなで決めたことをみんなで守ることによって社会が成り立つのだという普遍的な原理を命がけで示したことによって、彼は今でも生きているわけです。

佐々木:我々はソクラテスによって、いかに生きるべきかの見本を示されているわけですから、彼によって救われているといえますね。それをイエスに当てはめますと、我々の不信仰が神の子を十字架にかけている。つまり神を否定し、神への愛と隣人への愛に生きる生き方を否定しているわけですね。我々はイエスがみんなの罪を背負って十字架に犠牲になられたことを思い起こすことによって、二つの愛に生きるという本来の生き方に戻ることができるわけで、イエスの犠牲によって我々も救われているということですね。そのように解釈すれば、贖罪の十字架が過去だけでなく、未来の罪もチャラにするというのはすこしも奇跡ではないわけですね。

やすい:それこそ奇跡だともいえます。ソクラテスやイエスのように自ら進んで犠牲になる人は滅多にいませんから。

佐々木:イエスを十字架にかけているのが、我々の不信仰だとしますと、イエスは歴史上の人物というより、二つの愛を貫いて生きることによって、我々の罪の犠牲になった、これからなる人々の代表みたいになるわけですね。遠藤周作の小説の九官鳥、森田ミツ、大津牧師みたいなものですね。

やすい:しかし踏み絵を踏んだ宣教師ロドリゴも大津牧師も森田ミツも九官鳥もキリストであってキリストではないわけです。イエスのみが神の一人子であるということですね。

佐々木:それは復活によって永遠の命を証したからですか。

やすい:ええ、そうです。やはり復活信仰を離れてキリスト教を語ることはできません。

佐々木:でも遠藤周作だって三日目の肉体的復活については懐疑的ですね。

やすい:歴史的事実として復活を証明することは不可能です。しかし復活したイエスを見たという弟子たちの体験が原始キリスト教団の立ち上げのきっかけになっているのです。そこまで否定すると、原始キリスト教団はうそつきのいんちき教団だったことになります。

佐々木:イエスの死後しばらく立ってみんなでイエスの教えを反芻しているうちに、その不滅の意義を確認し、自分たちの心の中に生きていること、自分たちこそが復活のキリストだということで、イエスの復活を唱えたのではないですか。

やすい:それならそういえばいいのに、あたかも肉体的に復活したイエスを見たかに言って、教団を広めようとしたということでしょう。それは現代人の解釈にすぎません。それこそインチキ教団だったと言っているじゃないですか、しかも熱心なクリスチャンである聖書研究者などが平気でそういう解釈をするわけです。

佐々木:やすいさんは、熱心なクリスチャンじゃないけれど、弟子たちが復活のイエスを見た復活体験は真実だとおっしゃるのですね。

やすい:ええ、彼らはおびただしい殉教者を出しながらも、敵を愛し、迫害する者のために祈れというイエスの教えを守って、愛の宗教としてついにはローマ帝国を飲み込んでしまったわけですね。それだけの宗教的真実があったことは否定したくありません。できれば復活体験を信じてやりたいわけです。ただし、私もいったん死んだ人間がしかも釘打たれ、槍で刺され、検死をされた人間が甦ったというのは眉唾だと思います。その上で何とか説明がつかないかと思っていたのですが、やっと解明できたのです。

佐々木:それが仰天の「聖餐による復活仮説」ですね。『キリスト教とカニバリズム』(三一書房)と『イエスは食べられて復活した』(社会評論社)で世に問われたものです。イエスの肉を食べ、血を飲んで、その結果体内に聖霊を取り込んだと思い込むことによる全能幻想から説明されたのですね。その後反応はあったのですか。

やすい: キリスト教原理主義者から宗教的冒涜と誤解されて、不測の事態もありうると心配しましたが、今のところそういう動きもなく、表立った反論もありませんね。教会としてはイエスの肉体的復活を素朴に信仰しているのですから、私のような不信仰な解釈は無視すればいいわけです。私はむしろイエスが復活したというキリスト教の言説をいんちきとか騙し、あるいは仮死状態にしたトリックというような解釈を退け、彼らは本当に福音書の記述通りに復活したイエスを見 る体験をしたと、キリスト教徒以外の人に説得して、宗教的対話を図っているわけです。

佐々木:でもイエスの肉を食べ、血を飲んだとという解釈は、カニバリズムですからキリスト教からは絶対的なタブーでしょう。

やすい: いやねそれはイエスを聖霊を宿した神の子と見るならば、違ってきます。それに「人の子(メシア)の血を飲み、肉を食べなければ永遠の命にいたることはできない」というのはイエス自身の教説です。彼は自らを「命のパン」と言っているわけです。そして最後の晩餐で、パンをちぎって「これが私の体です、これを食べなさい」といい、ワインを回して「これが私の契約の血です。これを飲みなさい」とリハーサルをしているわけです。それを後世の教会はパンやワインがイエスの肉になり、血になると解釈したわけです。でもこれから捕まって十字架にかけられる直前にイエスが言っているのですから、これまでの命のパンの教説から見て、意味するところは全く明瞭です。

佐々木:これ以上その議論を続けるのは本日のテーマからは外れますので、ともかくイエスの復活を信仰して、それでどうしてキリスト教徒まで死を克服できることになるのですか。

やすい: それはイエスの血を飲み、肉を食べたものをイエスが終わりの日に復活させると約束されたからです。イエスは死に打ち克って永遠の命を得たのですから、その力で死者を復活させられるということですね。

佐々木:イエスの十字架の死に直面した弟子たちは聖餐できたかもしれないけれど、後世のキリスト教徒はどうしてイエスを食べるのですか?

やすい: イエスは復活して、天に昇ったけれど、すぐにも再臨するという予定だったのが、いまだに再臨されていません。そこで教会では、最後の晩餐を記念して、教会は地上におけるイエスの体であり、その中ではパンはイエスの肉に、ワインはイエスの血になるという解釈を行ったのです。そうすればいつでもイエスを食べることができるわけです。これが聖餐式です。いわゆるミサですね。キリスト教会の礼拝 のメインは、あくまで聖餐によってイエスを体内に取り込み、聖霊を得て、永遠の命につながるということなのです。

佐々木:しかし、それではパンやワインという物を神にするフェティシズムですね。超越神論から言ったらもっとも幼稚な迷信ではないのですか。

やすい:ええ、ほんとはね、そうなんだけれど、だから象徴的な儀式に過ぎなくて本当にイエスの肉や血になると思っているのではないのだという解釈もありますね。しかし教会としては、やはりイエスと一体化するには教会に来て、パンやワインを食しないと無理ですよということで、正式には外せないのです。

佐々木:本当はイエスの肉や血というのはイエスの教説のことであって、二つの愛を核心にするイエスの教えに従って生きることが、イエスを食べることだと教わったことがあります。つまりイエスの言葉をよく咀嚼して自分の血肉にして生きることでしょう。

やすい:そういう文脈もありますね。われわれがイエスの言葉から大切なものを学び取り、生きる力にする場合に、そういう立場にたっているわけです。しかし、これがキリスト教的人間論の限界というか、長所ともいえないことはありませんが、キリストに倣って生きるということはなかなかできません。所詮人間は不完全で罪深い存在なのです。

佐々木:ということは、イエスの言葉を血肉化して生きることができなくても、聖餐によって永遠の命に預かれるということですか?

やすい:宗教ですからね、倫理ではないわけです。倫理で言えば、「イエスに倣いて」生きることでわれわれ自身が復活のキリストなのですが、それはあくまで目標です。われわれはせっかく素晴らしい命を与えられ、日々感謝して生きれば幸福に生きれるのに、いつも不平不満で愚痴ばかりこぼしていますね。まことに罪深い、救い難い存在なのです。でもそんなわれわれのためにイエスは自らの命を投げ出して、生きる道を示してくださったのです。それでもわれわれは常に道を誤り、彷徨っている、まことに哀れな不完全な存在なのです。だからこそ神を求め、イエスを求めるわけですね。

佐々木:なるほど、ではキリスト教の人間観は、不完全であり、罪人であるというところにあるのですね。不完全であり、罪人であるから完全な神によって支えられ、キリストを通して命につながれなければならないということですね。そういう不完全・罪人なので完全な者・浄い者によって救われようとするというのが人間存在の構造ということですか?でもそれがパンやワインのフェティシズムによって叶えられるというのは納得できませんね。

やすい:それは逆説的な真理です。イエスのパンが私の体であり、ワインが私の血であるといわれた、その言葉を素朴に信じて、言葉通りにパンを食べワインを飲めば後は、イエスがそんな馬鹿な人間を見棄てないで救ってくださるだろうということなのです。つまり人間には、不完全で罪深い自分たちを救う方法は分からないのです。だから馬鹿なことをして、神に任せるのが人間らしいやり方ですね。

佐々木:でも人間はそれが馬鹿なことと分かっているでしょうか?

やすい:それはみんな分かっていることで、強がりでそういう教説を唱えているという面がありますし、逆に、超越神論から言っておかしいのに、それでも信じているほど馬鹿だから、だから救われるという面もあります。キリスト教のそういう痴愚宗教的な面を肯定的に評価したのがエラスムスの『痴愚神礼讃』です。馬鹿というのも不完全や罪人と通じるところがありますね。

佐々木:ヘブライズムでは、創造主ー被造物、選民ー大衆という縦構造があって、トーラーが下されそれを守ることで栄光がもたらされるということです。罪は欲望によって神の知恵であるトーラーから外れることです。

やすい:この垂直構造も神を絶対化することで、自らの弱さを補い、カナン侵攻などの自らの行為を聖化するためですから、キリスト教の不完全性という人間観に通じています。もちろん宗教というものはそういうものでしょう。人間が完全だったら神も仏も要りません。しかし、それを積極的に神の力を笠にきて全地支配などの野望を果たそうとしています。

佐々木:ただ信仰の主体がイスラエルという民族的な共同体であるという限界がありますね。それに対してキリスト教は贖罪の十字架によって聖化されたイエスに帰依することで、個人が救われます。イエスをキリストと認めるかどうかが唯一の契約だというように単純化され、内面化されています。

やすい:こうしたヘブライズムやキリスト教の宗教的人間の構造というのは、あくまで宗教的なアプローチにおいて、そういう関心相関性での人間の構造ですから、その他のアプローチの人間の構造と補完しあうものですし、構造構成主義的に調整可能です。それはエデンの園での人間観で明らかですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーー(3)ーーーーーーーーーーーーーーー
           ホモ・サピエンス(叡知人観)

佐々木:次にやっとですが、ホモ・サピエンス(叡智人観)に入りましょう。理性というものが存在して、それを人間たちが共有しています。人間だけでなくて、神々も理性を共有しているわけです。ガリレオ・ガリレイが「二等辺三角形の両低角が等しいのは人間においてだけでなく、神においても真理である」と言っていますね。

やすい:自然にも理性が貫徹して支配しているわけです。ですから「自然は服従することによってしか支配できない」とベーコンは言いました。

つまり自然の中にも理性が働いていて、その自然理性を自然から学んで、それに基づいて始めて自然を自分の目的にしたがって作り変えることもできるわけです。

佐々木:自然の中の傾向性や法則性に基づいて、思考にも論理性が出てくるということですね。理性を主観の思考の論理性とみなし、自然そのものはカオスでしかないと捉える人もいるようですが。

やすい:それは思考を主観の営みに限定して捉えるからでしょう。考えるということは何かについて考えるのですから、考える対象、客体からの働きかけを受けている過程でもあるわけです。

佐々木:認識は、客体が主観に現れる過程でもあるという逆転発想ですね。ホモ・サピエンスで括ってしまえるかどうかという問題があるでしょうが、少なくともホモ・サピエンスの立場では、同じ対象で客観的諸条件も同じならば、同じものとして認識されるということですね。つまり理性には区別がないということですね。

やすい:ええ、同じ理性をもっているから、普遍妥当的価値が成り立ちます。つまりみんな同じ心を持っていて、同じように感じているのだということです。そうでないと法というみものも成り立たないでしょう。つまり同じ刑罰でもそれを受ける人によっては、罰の効果がないのでは困ります。

佐々木:実際に、刑務所に入りたいからといって犯罪を犯す人間も皆無ではありませんよ。人によって何が正しいかはさまざまですし、何が大切かもさまざまですね。普遍妥当的価値なんてナンセンスだ、時代遅れだという人もいますね。

やすい:相対主義や価値相対主義主義は古くからありまして、プロタゴラスの「万物の尺度は人間である」という人間尺度論は、本当は、「真理は人それぞれ」という意味で使っています。

万人共有の理性なんて、ギリシア人のデッチアゲだとディルタイやニーチェは指摘しています。実際、20世紀は普遍妥当的価値は崩壊したという思潮が一世風靡しました。

佐々木:ニーチェの「神は死んだ!」という言葉も、神を普遍妥当的真理や価値の意味で解釈すれば、20世紀は価値相対主義の世紀だったといえるかもしれませんね。

やすい:哲学の流行だけみれば、マルクス主義、実存主義、プラグマティズムという三大潮流の中にもそういう傾向は顕著でしたね。

しかし逆に、基本的人権の尊重など人権に関しましては自然法思想が有力でした。『日本国憲法』も自然法思想に基づいています。

また東西冷戦の終焉を期にゴルバチョフが強調しました「全人類的価値の優先」という思想も普遍妥当的価値の復権と言えます。21世紀はグローバルな統合が進展する時代ですから、ますます人類共通の価値観が求められるでしょう。

佐々木:ところでシェーラーは、この普遍妥当的価値には批判的ですね。

やすい:そうですね。普遍妥当的価値はこれから創造すべきだというスタンスですね。

佐々木:フランス革命の挫折から市民革命の前提となった自然法思想に対する批判が表面化しました。イギリス功利主義、フランス実証主義などもそうですね。

やすい:功利主義は善や幸福というものを測る基準を快楽と苦痛に求めて、形而上学的な真理や価値を批判しました。実証主義も具体的に産業の進歩によって人民の生活が豊かになっていくという目に見える形の福祉向上を目指したわけです。ともに社会契約をフィクションとし、自然法や自然権などの観念的な権利や価値には懐疑的だったのです。

佐々木:それに植民地主義に対する反省もあり、西欧的価値観を普遍的なものとして植民地に押し付けることへの批判もありましたね。民族や社会によって価値は多様であり、他の文化の価値を別の文化の価値で批判することはできないという価値相対主義が盛んになりましたね。そこから普遍妥当的価値に対する懐疑が表面化したわけです。

やすい:こういう信念対立に対して構造構成主義的に調整すればよかったのですが、なかなかそういう人物は現れなかったですね。

佐々木:時代や社会や文化や階級などの違いによって、価値観や行動様式に大いに違いが出てくることは確かです。

しかしそれは逆に言えば、同じ社会や文化に属して、共同的な社会生活を送っていれば、同じような価値観や行動様式が身につくということですね。

ですからたとえ文化や社会の仕組みに顕著な差があっても、社会生活を送っているという共通点から同様な考え方や感じ方も成り立ちますし、互いの相違を認識し、理解しあうことによって、違いについても理解し合えるようになり、互いに影響しあうこともできますね。

やすい:シェーラーの場合は、ソクラテスと比較すれば理解しやすいかもしれません。

ソクラテスは「無知の知」を唱えましたね。徳についての正しい知をまだもっているわけではないというのです。だから既成の哲学者たちはさまざまの独断論を展開したのに対して、ソフィストが懐疑を投げかけ、徹底的に知を相対化していました。

佐々木:そこでソクラテスは、いったんみんなで「無知の知」を自覚し、ゼロに戻ってみんなが納得できる普遍妥当的な知を積み上げようじゃないかということですね。

 そのために彼は対話で相手の矛盾を指摘し、自ら破綻を認めさせる「無知の知」を生む産婆術を行ったのでしょう。

 つまり普遍妥当的価値や知は既にあるのではなく、これからみんなで作り出すのだという立場だったのです。

やすい:シェーラーも大戦間時代にあって、人類が共同の価値を作り上げていかなくてはならない、そうでないと再び世界大戦が起こり人類は滅亡するだろうと考えていたわけです。

 ですから普遍妥当的価値や知があるというホモ・サピエンスの考え方は、ギリシア人のデッチアゲだというのは正しいけれど、これからみんなで平和を追求するなかで対話を通して築き上げていこうじゃないかと呼びかけたわけです。
佐々木:ところでシェーラーの捉え方では、その理性というのは、単なる科学技術的な知恵だけではなくて、芸術・宗教・哲学をも包括するような精神の働きなのでしょう。それが分類の際の基準になっていて、単に自然を作り変え、獲得するための知を人間の本質と考える見方は、かえってホモ・ファーベル(工作人観)に分類されていますね。

やすい:シェーラーは、理性を実体化して、そこに人間の本質を見出していく考え方がホモ・サピエンスだというのです。ですから理性を実体化したアナクサゴラスが出発点になっています。

 もちろんイデアを事物とは別にそれ自体で存在する真実在だと捉えたプラトンのイデア論もそうですね。

 そしてストア派から始まる自然法思想、これはルソーまでですが。

 そしてデカルトたちの大陸合理論は、観念の自己展開ですから当然含まれます。

 その対極のイギリス経験論は、あくまで実験・観察で確かめられた経験に踏みとどまり、観念の実体化を退けますから、その流れにある功利主義やプラグマティズムとともにホモ・サピエンスに入れてもらえません。

佐々木:でもホッブズやロックはイギリス経験論ですが、近代自然法思想を形成したわけで当然ホモ・サピエンスに含まれることになるはずです。

やすい:その点は確かにそうですね。経験論として展開されている限りでは形而上学ではないので、ホモ・サピエンスには含まれませんが、自然法思想は社会契約や生得的な人権という観念の自己展開になっていますから、その面はホモ・サピエンスなのです。

 一人の思想家は一つの世界観や人間観にとどまらずに、いくつも使っていて、補完的、折衷的に調整している場合もあり得るわけです。構造構成主義的な観点に立てばそういう見直しが可能になりますね。

佐々木:そうしますと、このホモ・サピエンスは、精神的実体に自己の本来の姿を見出すことになり、かえって身体的な人間は仮の姿でしかないことになりますね。

やすい:人格が身体に宿っていると捉えられ、したがって身体が滅んでも人格的な魂は滅びないで、魂の故郷に昇天するとされます。デカルトでは「考える我」はただ考えているということにのみ依拠していて、身体がなくても精神的実体は考えるのだと捉えています。

佐々木:それは目がなくても見えるというようなもので、頭がなくても考えるというのは説得力がありません。

 でも死後魂が身体から離れることができるとすれば、身体なくして思考ありということになりますから、デカルトと大差ないですね。そういう霊魂にアイデンティティを見出す人間観は、ニーチェの用語で言えば背世界者ということになりますかね。

やすい:『星の王子様』では「本当に大切なものは目に見えないのだ」というメイン・メッセージがありますが、実体としての霊魂が人間の真の姿になりますね。

佐々木:それでは見えざる神と人間の霊魂が同一視されているのではないですか?

やすい:精神的実体としての霊魂は不滅とされていますからね。神の定義を不死とすれば、霊魂は見えざる神ですね。人格もそういう精神的実体が担っているとされているわけです。

佐々木:身体が進化によって理性の機能を備えるようになったとすれば、霊魂は身体の働きなので、当然肉体の死が精神の死でもあるということになりますね。そういう捉え方でもホモ・サピエンスですか?

やすい:シェーラーの場合は、動物的な進化の末に理性が生じるという発想ではないようですね。

 とはいえ理性を精神的実体として身体なしでも存在し得ると見ているわけでもなさそうです。

 彼はダーウィン、マルクス、フロイトなどもホモ・サピエンスではなく、ホモ・ファーベルだというわけです。
佐々木:それでは理性としての人間の存在構造は、どう捉えればいいのですか、シェーラーに拘らずに論じてみてください。

やすい:人間の特長が理性にあるというのは全く当然のことで、言語を使用し、物事を客観的に認識して、知識を蓄え、組み合わせて利用し、文明を築き上げてきました。

また理性は単なる知識の増加や科学・技術的な知的発展だけでなく、価値意識や道徳感情、美意識、宗教意識なども含むものです。

それらは人間関係のコミュニケーション活動の中ではぐくまれたものですが、それらがあるから、霊魂が実体として身体の死後も生き続けると考える必要はありません。

佐々木:デカルトは霊魂が松果腺を主座としているとしましたが、現代的に言うならば大脳皮質に存在するということですか。

やすい:人格というのは大脳皮質の機能ではなくて、そういう生理的過程を生理的過程から離れたところから、いわば超越的に「わたし」が判断しているわけです。

佐々木:それだったら精神的実体ではないですか?

やすい:ただしそれは意識過程から離れて虚焦点に存在しているのです。あたかも存在するように意識しているわけです。だからある意味見えざる魂ですが、それ自体としては空なのです。仏教でいう無我の真理はそういう意味です。

佐々木:意識過程と別に実在として我があるわけではないけれど、意識過程が身体の自己制御機能として正常を保つために、過去の経験を積み重ね、何度も総括を繰り返した結果、安定的な刺激―反応のパターンが出来上がるのでしょう。

それを基準に情報が処理されるようになるとあたかも実体としての我が存在するかのようにみなされるわけですね。

やすい:つまり意識過程としてはそれは生理過程ですから五感が感じている内容が意識です。

ですからそれは花であったり、建物であったり、人ごみの雑踏であったりするわけです。ところが自己意識が成立しますと、それらから離れてそれを見ている自分があるように思えるのです。

佐々木:それを見ているのは目だから、やはり見ているのは身体ではないのですか。

やすい:生理的刺激に対して条件反射の積み重ねで対応するのが動物的な反応ですが、それではまだ自己意識がなく、人格的主体とはいえないわけです。

佐々木:自己意識の成立を解明するのが重要になりますが、ヤスパースはそれは解明不能だとしているようですね。

やすい:宗教的な立場で神による創造を考えれば、神が魂を置き入れたですむわけです。神の関与を排除して、動物的な知恵からの量的発展では説明し切れません。

私は交換の発生による対他関係の成立で、自他の区別が生じ、そこから自己意識が発生したという仮説で説明しています。

佐々木:逆に対他関係が発生したのに伴って、交換が可能になったと考えたほうが分かりやすいですね。

やすい:それだと対他関係の発生が説きにくいですね。この議論は人間起源論、言語起源論の問題ですから、それだけで膨大になります。ともかく人格的主体や主観が、実体的にあるか、実体としては空だけれど虚焦点として存在するということが、人間理性の前提にあるわけです。

佐々木:それはいずれにしても物質ではないので、時間空間や質量や色彩、音、匂いなど一切の感性的なカテゴリーは適用できないわけですね。神と理性を共有しているという場合、神も人格存在だということですね。

やすい:理性という場合、主観性と摂理の二面があるわけです。能力と展開される内容ですね。神の場合は摂理は即自的ですね。人間の場合は能力がまずありますが、摂理は自然の中から対自的に学び取っていくわけです。自然には主観性の契機が欠けているとされていて、摂理が即自的にあるわけです。

佐々木:自然には、カオスとコスモスの二面がありますね。カオスは混沌ということで論理性がありません。それに対してコスモスは秩序だって統一や調和が取れているわけですが、普通、人間が理性的という場合、その対極としての自然は即自的にはカオスなのだけれど、人間が秩序立てて認識するのでコスモスとして捉えられると言われているのではないのですか。

やすい:それは自然と人間を対極において、その上で認識を考えるからではないでしょうか。

もともと人間は意識に現れる自然しか知らないわけです。意識に現れる自然は感覚を素材に構成されたものでしかないという意味では、人間は自らの感覚をコスモスとして捉えていることになります。これがカントの構成説です。

佐々木:カントの場合物自体としての自然はカオスではないのですか。

やすい:いや物自体にはカテゴリーは適用できませんから、カオスともいえません。

佐々木:でも理性が自然に備わっているどうかに関係なく、人間に理性が備わっていて、その理性には価値や道徳や芸術および宗教的感情が含まれ、それによって動物と区別されると考えていればホモ・サピエンスですね。

やすい:ええ、そう考えていいのですが、先ほども言いましたがシェーラーの捉えかたでは、理性を存在の根底に置くような観念論に限定しているようにも受け取れますね。

佐々木:その場合、まずイデアがあって、それを当てはめて世界を認識するという構造ですね。実際物事を認識する場合は、何らかの概念や理念で捉えなければならない面があるわけですから、これは一概に否定できませんね。

やすい:ただしイデアの体系に理性がつながっていなければならないことになりますね。

デカルトのコギトは神に支えられ、カントは現象界は感覚を素材に構成された自己自身に他ならないということです。

そして自我はドイツ観念論では絶対我や絶対者の現われだったことになり、存在と意識の同一の立場になります。

 つまり世界は理性の自己展開に他ならないことになり、人間は自己自身を世界として展開している理性の自覚として捉えることになるわけです。

佐々木:すると世界は、人間の認識によって理性の現われとされるということですね。

 また理性は、あらかじめ持っているイデアを自然に働きかけて実現させる労働として現われますね。

 労働というのを本質とみなす人間観はマルクスの人間観ですが、これこそホモ・サピエンスともいえますね。

やすい:確かにそうですね。でもシェーラーは、マルクスは衣食住や経済を土台に物事を捉える唯物論者だから、労働と言っても、欲求を充足させるために餌を産出する活動とみなしていると解釈されたのでしょう。

 しかしマルクスは労働を自己疎外の論理で捉えていますから、イデアの自己実現としての労働を人間の本質としていたと言う意味で、ホモ・サピエンスにも含めるべきです。ただまだ初期マルクス研究が始まってなかったのだと思われます。

佐々木:主体が理性の場合は精神的であるという意味で、自然存在からみれば無ですね。それが世界を構成的に捉えたり、世界に自己を実現し、世界を理性の色に染めてしまう。その意味で、大変ポジティブな構造なのですね。

やすい:ヘブライズムやキリスト教の場合は、不完全性や罪といったネガティブな構造でしたね。その意味では両者は補完しあってバランスをとっていたのではないでしょうか。ところが近代になると宗教的な人間観が衰退したので、近代ヒューマニズムは理性支配主義に陥ってしまったと言えるのかもしれません。
               (4)
         ホモ・ファーベル(工作人観)
       作られし物に己を移したる自然も含めて人の体か

佐々木:では、ホモ・ファーベル(工作人観)に入りましょう。このネーミングをしたのはベルグソンということですね。

やすい:ベルグソンは、人間の本質は物を作り、それを通して己を形成する創造活動にこそあると考えました。そして、ホモ=サピエンスというあり方は、ホモ=ファーベルが己の創作活動を反省するところに生まれるのだとしたようですね。

佐々木:シェーラーの場合、ホモ・ファーベルは人間が環境に適応するあり方で、動物は環境に適応するために身体的に変化していくわけですね。これがいわゆる進化です。ところが人間は、色々道具を環境に応じて作り出し、環境の方を身体に合うように変化させるのです。おかげで人間は身体的な進化はしなくても、環境を工作して獲得するという生き方ができるわけで、これをホモ・ファーベル(工作人)と捉えていますね。

やすい:人間は身体的な進化はしないで済むわけですね。でもそのことによって道具や人間が作り出した環境によって生存できるわけですから、道具や環境を含めた意味では進化し続けているわけです。

佐々木:ですから、それぐらい人間は知恵を振り絞って対象を変革する活動をしているわけで、そのためには高度な精神性が必要と思いますが、シェーラーはそういう創意工夫や発明みたいなものは、人間特有の理性には含まれないわけでしょう。道徳性、宗教性、芸術性というところまでいかないとホモ・ファーベルどまりで、ホモ・サピエンスまでいっていないと、ホモ・ファーベルを低くみていますね。

やすい:その点は、納得いかないものを感じますね。

 言語使用を人間の本質とする議論も、言語をコミュニケーションの道具とみなすので、道具使用を人間の本質にしたフランクリンなどの議論も含めてホモ・ファーベル観に含めます。

 科学技術だけではホモ・サピエンスといえないとなると、ホモ・サピエンスという分類を思いついたリンネから全く離れてしまいますね。

 サイトを覗きますと、「アフリカ研究をされている松田素二先生によれば、リンネはこの「自然の体系」の中で、人類をホモ・サピエンス(知恵を持つヒト)とホモ・モンストロスス(怪異なヒト)に分類し、アフリカ人等はこのホモ・モンストロススに入れられていたそうだ。」とありますね。

佐々木:ホモ・ファーベルの存在構造の中に知恵の契機があるはずで、ホモ・ファーベルを低級視するのは精神主義的な偏向じゃないでしょうか?

やすい:おそらく人が身体的に環境に適応する仕方として、環境を身体にあわせて改変するという捉え方なので、あくまで主体を身体として捉える人間観だとみなされた結果でしょうね。

佐々木:ホモ・サピエンスの主体は身体というより、身体に宿る理性ですよね。この理性の方が身体より根源的だとすると、単なる科学技術的な知恵がいくら進歩しても理性には到達しないということですか?言い換えればコンピュータの思考力がどんなに進歩しても、道徳感情や芸術感情は生じないのだということになりますね。

やすい:カントは現象界を認識する純粋理性と、道徳的な命令を行う実践理性を区別しましたね。そして欲望や利害に流される傾向性を抑制して実践理性の命令に従おうとするところに自律を認めました。この自律性をもつ主体が人格だというわけです。

佐々木:その議論を踏まえますと、純粋理性だけでは人格をもつ人間には到達できないということですか?

やすい:ええ、ですから人間である限り、実践理性としての良心は持っているはずだというのがカントの立場です。それで道具を使うとか、言語を使うだとか、労働するという人間の定義ではホモ・サピエンスとはいえないということですね。

佐々木:科学技術的な知識よりも道徳的な知恵の方が、人間性のレベルが高いということですか?まあ、その議論は措くとして、ホモ・ファーベルの構造を明確にさせなくては。

 つまり身体と道具、身体と環境がフィットするという構造ですか。

やすい:身体が主体ですね。それによって周囲の事物や環境が身体に取り込まれていくという構造ですね。若きマルクスの用語では非有機的身体としての自然です。

佐々木:身体と器官としては繋がっていないけれど、身体の一部のように事物が取り込まれている状態ですね。たとえば衣服や家屋などはその例ですが。

やすい:非有機的身体となった自然を人間的自然と呼びますが、広い意味では人間環境も含まれてきますから、地球環境全体が人間的自然とよべるでしょう。

 人間的自然が大きくなることによって、道具や環境的事物が進化して身体は進化しなくても、人間は人間的自然全体として進化していくわけです。

佐々木:ホモ・サピエンスの理性中心主義と、ホモ・ファーベルの身体中心主義を構造的に比較したらどうなりますか?

やすい:双方とも主体主義ですね。理性中心主義は形而上学的な理念を実現しようとして、世界を自己実現の場として、さまざまな文化、制度、理念を表現した事物を生み出します。

 それは理想の実現としては素晴らしいことですが、それが人間環境を破壊することになりがちで、そのためにかえって文明を滅ぼす結果になっています。

 古代メソポタミア、インダス文明はその好例ですが、現代文明も大いにカタストロフィーを招きかねません。

 身体中心主義といいましても、やはり自己疎外は避けられません。

 といいますのは、道具や環境が身体に適合するように改変しましても、そのような道具や環境的事物を生み出したり、維持するためにさらに道具や環境の改変が必要になりますので、結局、身体に適合しない道具や環境的事物を大量に生み出したり、生産の過程で廃棄物を排出することになり、人間環境が破壊されることになってしまいます。

佐々木:それでもホモ・ファーベルの方が身体を基にしているだけましでしょう。

やすい:いや、ホモ・ファーベルは物づくりという面では、次々と物を生み出していきますから、それが契機になって次の物というように幾何級数的に増加する恐れもありますね。

 それに対して理性主義では、理念の実現は物に限りませんから、理念次第では自然との調和の取れた文明を築き上げることになる可能性もあります。

 もちろん逆に理性は独断的な正義を押し付けようとする場合は、恐怖独裁やホロコーストを招きかねません。そして自然の調和など眼中にないということもありえます。

佐々木:それに、ホモ・ファーベルに属する様々な人間観は、自分が選んだ言語や道具や労働やなどのうち、どれを人間の本質とするかによってそれぞれ多様な構造をもつことになりますね。

やすい:実際はそれらをホモ・ファーベルで括ることでそれぞれの構造が見えなくなる恐れがありますね。

 たとえば言語を人間の本質としますと、言語の構造を展開すべきですね。それはホモ・ファーベルとはちがってきます。

 労働を本質とすれば、理念の現実化という論理を内包することになります。それはホモ・サピエンスとかなり重なりますね。

 当然それぞれが人間の本質を捉えているのですから、それぞれの構造を明らかにすることによって、互いの人間観を補完し合えるようにすべきです。

佐々木:ホモ・ファーベルを物づくりをする人としますと、同じ物づくりでも昔ながらの技法を受け継いで、全く同じものを作っている場合と、創作活動として物づくりに取り組んでいる場合とでは、かなり構造が違ってきますね。

やすい:労働でもそれは同じです。ただ出来合いの機械や道具を作ってマニュアルどおり労働すれば、調教された家畜と同じでして、そこに理念の実現、自己実現という契機が失われてしまうわけです。

 もちろん物づくりを単に個人の営みでなく、創始者と継承者を含めた主体を想定し、労働主体も研究開発者や組織も含めて考えますと、全体としては理念の実現、自己実現といえないことはありません。

 ですから、人間を論じている場合に、その対象を個人に限定しているのか、それとも集団や組織、場合によっては機械や製品、それを需要する社会全体も人間として捉えているのかによって存在構造もちがってくるわけです。

佐々木:そういう意味では同じ人間でも対象や構造は、論者の関心相関性によって異なってくるわけですね。

やすい:だから議論を構造構成主義的に整理する必要があるわけです。

 われわれは人間を医学的に見る場合は、心因性の疾患を除けばほとんど個人の身体と人間を同一視していていいでしょうが、経済学の対象としての人間は、全商品を対象に論じる必要があります。

 その場合に原材料・燃料、機械のみならず流通機構まで包括して人間として捉えなければなりません。

佐々木:労働価値説についても労働者の労働だけが価値を生むという発想では、機械制生産については説明しきれないということですね。

やすい:ですから人間の範囲を機械や生産物まで広げるかどうか、これが人間の構造を語る場合に決定的に重要です。

 その場合、常に人間の範囲を人間的自然や人間環境全体に広げておくべきだというのではなく、あくまで関心相関性によって決まってくるということが留意点です。そうでないと論じている対象が何か定まらないということになりますからね。

佐々木:そういうことを踏まえた上で、ホモ・ファーベルの構造を一般的に規定するとどうなりますか。

やすい:やはり、初期マルクスの自然の非有機的身体化、あるいは自然の人間化ですね、つまり人間的自然の創造です。

佐々木:ということは人間は環境に適応するために自己の身体は変えないで、自然的事物を多様な道具にして、それを使って、自然環境を身体に適合するような身体の延長にしてしまうということですね。その場合あくまで身体が主体だということですか。

やすい:民芸的なレベルではそうなのですが、非有機的身体化した物も含めて主体化することを見落としたら大変です。

 たとえば乗用車は、身体の延長ですが、乗用車自体が主体となって自然を改変し、自分にあわせて、油田を開発し、道路網を整備し、人間環境をどんどん破壊することになります。こういう論理も自己疎外論として展開する必要がありますね。

佐々木:逆に言えば、身体の延長として乗用車ができ、その延長として油田が開発され,自動車道路網ができ上がり、人間環境がどんどん進化するわけですね。

 それに伴う弊害には適切に対応していけば、非有機的身体あるいは人間的自然としてグローバルな人間存在が花開くとも言えますね。

やすい:それは確かにその通りですね。でも様々な環境破壊が深刻になり、グローバルにこの問題に取り組むべき時代ですから、まずは自己疎外論的な捉え方が必要だと思います。

佐々木:人間が身体的存在から諸事物を取り込んだ形に拡張的に捉え返されたとしたら、それがやはり人間存在だというのなら、その人間の欲望や感情や意志がどうなのか展開しないと構造として捉えたことにはならないでしょう。

やすい:たとえば乗用車が増えすぎて、石油が不足し、石油価格が上昇すれば、乗用車は悲鳴をあげます。また排気ガスのせいで環境を破壊すれば、乗用車も肩身が狭くなり、遠慮がち走行せざるを得ません。電気自動車などへのシフトを求めることになります。そういう意志をもつわけです。

佐々木:それは身体的人間の感情や意志でしょう。

やすい:乗用車がガソリンを求める飢餓感は、身体の飢餓ではなく、運転手を包摂した乗用車の飢餓感です。電気自動車が実用化するように願う意志は身体の意志というより、サバイバルを願う現代社会全体、人類全体の意志です。このように感情や意志も、より大なる非有機的身体の感情や意志として現れるのです。
             (5)

-----------------必然的デカダンスとしての人間論------------
   言葉もち文明築いて抗えどホルモン異常に滅びは迫れり

佐々木:人間の本質を言語や労働に求める人間観は、人間起源を論じる際にまたとりあげなければなりませんので、次に必然的デカダンスとしての人間論を検討しましよう。

やすい:ゲーレンの『人間学の探究』によりますと、人間はホルモンの分泌に問題があり早晩衰退して、滅亡する運命なのですが、その欠陥を補うために言語や道具を使用して、環境に適応しようとしているわけです。

ところが言語は世界をそのまま写し取ることはできません。音に置き換えているわけです。しかも世界を事物と事物の関係としてしか表現できませんから、生の事態からどうしてもずれてしまいます。つまり人間は世界を倒錯的にとらえることしかできないので、言語による適応も破綻せざるを得ないということです。

佐々木:欠陥動物論はプラトンの『プロタゴラス』の中で、プロタゴラスが展開した人間論に出てきますね。

動物の創造に当たって、動物に特長を与えるように神々に命じられた弟エピメテウス(後立つ思考の神)は動物たちにそれぞれ生き残りに必要な特長を与えたけれど、最後に人に与えようとすると既に品切れだった。

それで人という種族は自然に適応能力の欠陥動物として登場してしまいます。そこで兄プロメテウス(先立つ思考の神)は火の神から火を知恵の神から知恵を盗んだのです。そしてそれを人間に与えたのです。

やすい:それで人間たちは言語、道具、宗教をつくり、集まって生活し、獣たちや他部族からの蹂躙に備えたわけです。

ところが人間たちは慎みと戒めを持っていなかったので、互いに争い、滅亡しそうになったのです。

そこでこの徳を人間たちに与えて、やっとサバイバルが可能になったというお話です。

つまり元は自然的適応能力の欠陥を火と知恵で補い、さらに社会性の徳を備えることで、適応できるようになったという話になっていたのです。それがゲーレンでは欠陥は言語や知恵では補えないというわけでしょう。時代の閉塞感が伝わってきますね。

佐々木:19世紀末にニーチェは「神は死んだ!」と叫びました。つまり20世紀は「神なき時代」なのです。

ですから神への信仰があれば、人間が滅亡するにしてもそれは神の審判によってでしょうが、ゲーレンに言わせればホルモンのバランスが取れなくて滅亡するということになります。

やすい:そうですね。欠陥動物論はキリスト教の不完全性ということと同じですが、決定的な違いは、キリスト教では不完全だからイエスの教えによって神につながることが必要だということが、ゲーレンでは欠陥だから、それによって早晩滅亡するのだとペシミズムに陥ってしまうわけです。

佐々木:プロタゴラスの人間論では、欠陥のおかげで、火や知恵が手に入り、言語や道具なども発明して文明を築いたわけですから、欠陥をむしろ梃子にしています。

マイナスをプラスにしているわけです。欠陥というのは欠如ですね。

フォイエルバッハは,身体が持つ欠如というのが急迫となり、苦悩つまりライデンになるとしたわけでしょう。そのライデンがライデンシャフトつまり情熱になって対象に向かうというわけです。

 ライオンだったら獲物に飛びつくわけですね。人間は狩猟や採集や栽培に向かい、道具や製品の生産に向かいます。

 異性に向かえば恋愛になりますし、スポーツや創造活動に向かうこともあります。政治に向かえば、改革や革命や戦争などに命を燃やすわけですね。そういうように欠如存在をポジティブに捉え返すのが、本来の人間学の立場ですよね。

やすい:全く、その通りですね。「ライデンからライデンシャフトへ」という言葉が合言葉ですね。西田幾多郎も哲学の動機を「人生の苦悩」に求めています。

 西田哲学もですから極めて情熱的です。熱い、熱い哲学なのです。ただ難解すぎて、きちんと伝わっていませんね。

 欠陥を補うために、言語や道具を発明し、文明を築いてきた、ところがホルモン異常による生物学的な衰退と絶滅そのものはなんら解決できていないから早晩滅びるという仮説自体は、なんら科学的な根拠はありません。

 ただ、身体的適応能力の限界を知的能力の向上でカバーして、適応能力を飛躍させたことは事実ですね。

 でもそのことでかえって人間環境を破壊してきたという問題がありますので、うまく適応できていると思ったら大間違いだという警告として受け止めておく意義はありますね。

佐々木:その意味でホモ・デメンス(倒錯人間論)という言葉はエドガール・モランの『失われた範例』で命名されたらしいですが、最近では丸山圭三郎なども継承していました。

 言語で自然に適応しようとしても、言語は世界を事物間の関係として、説明するしかないけれど、物として捉えてしまった時には、生の事態とはずれてしまっているということですね。だからどうしても倒錯的な認識にならざるを得ないから、そのうちに破綻してしまうということです。

やすい:これは非常に重大な問題を孕んでいますが、そもそも言語による認識にはそういう限界があるという指摘はその通りでしょうね。

 それで現在までのところ自然に不十分ながら適応できているという分だけは、事物間の関係として世界を説明する物的世界観は妥当なわけです。確かに倒錯性を含むとしても、倒錯でしかないのなら、今まで人類が持つはずがありませんからね。

佐々木:もし生の事態を捉えてそれに反応しようとしたら、言語以前の生の生理的表象に条件反射の積み重ねで対応するしかないわけですね。

 人間の場合は、生理的表象を客観的な事物の表象に読み替えて、それを主語・述語的に説明しているわけです。つまり客観的な事物関係の世界として、生理的な表象を読み替えるのが認識という行為にあたるわけですね。

やすい:ええ、与件としては生理的な事態しかなく、事物的世界はそれに対する推論でしかないわけですね。そこから客観的実在という前提は置くべきではないとか、存在は第一義的には物ではなくて事態だとか、物は事態の倒錯でしかないとかいわれます。

 でも事態を事態のままにおいていれば、その事態を説明できないわけで、物の関係として解釈して始めて説明がつくわけです。そしてその認識に基づいて行為がなされているわけです。

佐々木:その行為が人類をここまで発展させ、サバイバルさせているのだから、それができている分だけは、物的世界観にも妥当性がある、倒錯でないという面があるということですね。

 決して倒錯性がないとは言わないけれど。そうやって事的世界観と物的世界観も構造構成主義的に調整可能だというわけでしょう。

やすい:とはいえ、あくまで事物はカントの『純粋理性批判』に従って、構成説で考えますと、人間の感覚を素材に構成された人間の意識としての事物でしかありません。ですから事物といっても事態の解釈でしかないというと事的世界観にも根拠はあります。

 でも同時に、それは主観の身体から時空的に離れた事物として現われ、他の事物や身体とも関係しあっている事物なのです。

 そのような事物間の関係として捉えて初めて、理性的に事態に対応できるということです。それだけ物的世界観にも根拠があるのです。

佐々木:事的世界観に伴う人間観や物的世界観に伴う人間観というのも構造的に明らかにする必要がありそうですね。

やすい:ええ、もちろんです。シェーラーの人間観の諸類型の後で取り上げなければなりませんね。

佐々木:必然的デカダンスとしての人間は、欠陥人間論としては、不完全性の構造ですね。

 そこに神なき時代という前提が加わって、滅亡の不可避性が意識されているわけです。その場合、有限性や危機が強く意識されて、かえって人間存在が終末に向かって輝きを放とうとするような意欲みたいなものがあれば、まだ救われるのですが。

やすい:それはいい視点ですね。

といいますのが、人類としては直ぐには滅びることはないしても、死は個体的には常に生と裏表で、滅びの必然性は人間とって最も重要な問題とも言えます。

 われわれだって、このまま無為に老いさらばえていくのでは駄目でしょう。じゃあどうするのだという問題提起を受け止めないとね、そうすればゲーレンたちの問題提起も意味を持ちますね。死に向かう実存、滅びによって照らし出される生みたいなものですね。生が実感できるのもそういうところからあるので、死の感触としての生みたいなのも弁証法的な構造ですね。

        

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