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人間論および人間学コミュの対談 「人間観の転換」

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スピノザ研究者の田辺聡さんとの対談を連載します。
私の書いた「対談」には架空対談が多いのですが、これは実際の対談でテープ起こしをしたものです。ですから話し方が大変ぎこちなくなっています。 

       対談 「人間観の転換」

                    聞き手 田辺聡  語り手 やすいゆたか

            「哲学の大樹」

田辺:本日は、他者性、交換、商品、言語、自己意識、環境世界、価値論などの問題系を再吟味した上で、従来の人間観の盲点に光を当てる新しい人間観を提唱されている、哲学者のやすいゆたか先生にお話を伺いたいと思います。

この対談では、「人間観の転換」をテーマに据えて、集中的にお話を伺いたいと思っておりますが、先ず前提として、やすい先生の哲学的なお立場、あるいは哲学観についてお話頂ければと思います。

やすい:ご紹介に預かりましたやすいゆたかです。私の哲学的立場を問われているのですが、最近は「哲学の大樹」という言葉で、自分の立場を表明するようになっていまして、哲学史に登場する様々な哲学を大きな哲学の大樹にどう位置付けるか、という問題意識です。つまり巨大な哲学の大樹というものがあります。

これまで唯物論対観念論とかいろんな哲学上の対立があったわけですけれど、実は大きな哲学の大樹のいろんな枝を成しているのではないかということで、大きな哲学の中では補完し合えるというように捉え返すこともできるのではないだろうかと思っております。

 それで人間観を考える場合、既成の人間観を否定するのではなくて、それぞれの人間観にも、人間の様々な本質を捉えたり、いろんな状態を捉えているという意味で、評価しまして、その上で今までの人間観にはなかった視点はないだろうかということで、新しい人間観の可能性についても考えて、人間観の大樹のようなものを構想していけたらと考えています。

田辺:「人間観の転換」と言っても、先哲の仕事を一律に否定する訳ではなく、それらを哲学の大樹の中に位置付けつつ、複合的な人間観を構想されるお立場であるということですね。その際、そうした複合的な人間観を発想される契機となるようなものが、何かあったのでしょうか。

やすい:最近、マルクスに関してなんですが、マルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で、「人間の本質は、現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」と書いているのですが、そのことによって、それ以前『経済学・哲学手稿』で、マルクスが人間の類的本質として「労働」をあげていたのですが、『フォイエルバッハ・テーゼ』で、人間の本質を「労働」とする見方をやめて、新しく「現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」というのを本質として捉えるようになった、というように本質論の変化を語るマルクス研究者が多いのです。つまりマルクスはもう労働を本質と考えなくなったと考える人がいるのです。私はその議論には納得いかないのです。

 よく考えて見ますとマルクスが『経済学・哲学手稿』で労働を本質と考えるからといって、労働以外のもの、例えば「思惟」だとか「社会性」だとかを本質でないといっていたわけではないのですね。ある思想家は本質を一つだけ受け持つというように捉えるのは誤解です。

 もちろんマルクスには労働者に対する思い入れがあったから、労働が本質だということを強調したのは確かですけれども、しかしながらだから思惟は本質ではないという議論は展開していません。

 たとえその後で「現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)」が「人間の本質」だと言っても、それは理念的に本質を規定して、その規定に基づいて現実の人間を切っていくというようなやり方では駄目で、具体的に人間を社会的諸関係から捉えていかなければいけないということを強調しているだけです。決して労働が本質でなくなったりするわけではありません。

 そのように考えますと、人間の本質をどれが正しい本質か、一つに決定するような択一的な本質論というのは駄目なのです。

 やはり複合的に、問題意識に照応したかたちでいろんな本質を論じるというのが、現実的には人間の本質論としてふさわしいのです。そのように考えますと、例えば「ホモサピエンス」と「ホモファーベル」と「ホモロクエンス」とかいろいろあっても、どれも人間論の大樹の中に組み込むことは可能であると考えられるのです。

田辺:人間存在の本質について考える場合、択一的な本質の決定は有効ではあり得ないこと。むしろ問題意識に照応したかたちで、強調点が変化して当然であること等を、マルクスの思想を例にとって説明して頂きました。

 それではここから、やすい先生ご自身の新しい人間観の具体的な内実について伺って参りたいと思います。従来の人間観を大きく分けますと、本質論的な人間観と状態論的な人間観、この二つの系列があると言ってよいと思います。

 「人間観の転換」と言った場合、やすい先生の人間観は、いずれかの流れの中にあるものなのでしょうか。それともそういった系列の外にあるものだと捉えるべきなのでしょうか。

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  2事物の存在性格としての「人間」

田辺:それではここから、やすい先生ご自身の新しい人間観の具体的な内実について伺って参りたいと思います。

従来の人間観を大きく分けますと、本質論的な人間観と状態論的な人間観、この二つの系列があると言ってよいと思います。「人間観の転換」と言った場合、やすい先生の人間観は、いずれかの流れの中にあるものなのでしょうか。それともそういった系列の外にあるものだと捉えるべきなのでしょうか。

やすい:本質論的な人間観、たとえば労働が本質であるとマルクスが言いましたし、パスカルなんかは「人間は考える葦である」と言いました。デカルトも「我思う」ということつまり思惟を本質としています。また「人間はポリス的動物である」とアリストテレスは「社会性」を本質としています。荀子なども社会性を強調しています。そういった本質論的な捉え方があります。

そしてもう一方で、三木清が『パスカルにおける人間の研究』で状態性としての人間論に注目したのです。人間は悲惨であり、偉大である、また両者の中間者である。というような形での人間把握です。実存主義の人間観はすべて状態性としての人間を捉えていると考えられます。

 私の「人間」というものは、それらとちょっと視角を変えまして、人間に含まれるものものはなにかと、どういう形で人間というものは存在しているのかということを考えるわけです。ですから人間に含まれる事物の存在性格として「人間」というものを考えたいと思っているのです。

田辺:カテゴリー(範疇)論的な人間観ですね。今、「人間に含まれる事物の存在性格」として「人間」というものを考える、とおっしゃいましたが、これは従来の馴染み深く自動化した人間観に対しては、非常に異化効果の高い考え方だと思います。このカテゴリー論的な人間観について、さらに具体的にお話頂けますか。

やすい:例えば服を着ている人間がいますと、身体の方と服の方のどちらが人間かと言われますと、だれしも身体の方が人間であり、服は人間ではないわけですが、しかし服を着ないで、裸でいるわけにもいけません。それで実際には服を着ている人間を人間と捉えているわけですね。その場合には服も人間の姿の中に入っているのです。

そのように考えますと、服も人間以外のものではなくて、人間の姿を形作っているものとして人間の中に含まれているという見方も成り立つわけです。かくして色々な事物は人間のひとつのあり方を示しているのではないかなと考えるわけなんです。

田辺:人間的な、あるいは人間が自身の為に生産した事物も、「人間」というカテゴリーの中に含めて考えるということですね。同時に、そうした事物を様々な人間のあり方(様相)を指し示すものとして捉えていく。踏み込んで言えば、「服」も「人間」であり、同時に人間の特定のありようを示すものとして把握する、ということだと思います。

それは例えばマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』に「対象を客観的事物として捉えるのではなく、主体の実践として捉える」という観点がありますが、そうした考え方と関連しているのでしょうか。

やすい:もちろんそういうことも関係あると思います。

常識的には、事物というのが、人間にとって人間の外に存在している事物であるというように、人間と事物を対極的に捉えがちですね。身体的な存在と身体外の事物というものがあってです。

 たしかに身体的な存在を身体外の事物と区別して人間と捉える捉え方も可能です。だけれども、一方で社会生活とか経済生活だとか自然とのかかわりだとか、いろんな場面においてはですね、実際には、身体だけが人間を構成しているのではなくて、身体外の事物も人間を構成しているといように捉えられるのではないかと発想したわけです。

 私の考えている「人間観の転換」というのは、だから人間というのを身体的存在だけではないんだと考えます。例えばここに机があるとか、パソコンがあるとかいう場合に、机もパソコンもコーヒーも人間世界であるこの部屋というものを構成しているわけです。人間のこの部屋というのは、人間のあり方を、人間の姿を示しています。ですから人間を構成しているものは身体だけではないというように捉えられると考えているのです。

田辺:今の先生のお話をキャッチフレーズ的に敷衍しますと、やはり、「机もパソコンもコーヒーも人間である」ということになりますね。そうすると、常識的には、それは極論ではないかという反論もあると思うのですが、いかがでしょうか。

やすい:ですから「人間観の転換」という言葉で言っているわけなのです。

 もちろん身体的な存在が人間であって、それ以外は人間ではないという見方も成り立つのですが、ところが身体だけで人間とはいかないこともたくさんあるわけです。

 現実には人間の生活というものを見ますと、人間身体以外のものと一緒に人間世界を構成しているという現実がありまして、現代の文明社会においては、こういうパソコンとか携帯電話だとか様々なものが人間世界を構成しているのです。そういうものを抜きに現代人は語れないわけですね。そのように考えますと、ただ身体の部分だけが人間で、それ以外は人間外の事物だという見方だけで、現代文明は語れません。

 逆に言えば、このパソコンだとか机だとかいうものも人間存在であることによって、パソコンであるとか机であるという規定を受けているのです。もしもこれらが人間社会を構成していないものだったら、パソコンだとか机だとか服だとかいえません。そういう意味で人間というのは、事物の存在のあり方だということがいえるんじゃないかと考えているのです。

田辺:なるほど、ここで一度論点を整理してみたいと思います。

(1)人間にとって有意味である、自然的ないしは人工的事物も「人間」というカテゴリーの中に含める。

(2)そうした諸事物を人間の様々なあり方(様相)を表現しているものとして捉える。

(3)さらに、そうした人間的諸事物を、人間身体と共に「人間」ないしは「人間世界」を構成しているものとして把握する。

(4)そうすると「人間」というものが、今度は、そうした人間的諸事物の存在性格として捉え返される。
以上が、先生の今までのお話の要点だと思います。

 ここで例えば蜜蜂というものを考えて見ましょう。蜜蜂というものを個々の蜜蜂の身体(個体)に限定して定義する考え方も当然あるわけです。

 しかしまた、蜜蜂の個体のみならず、蜜蜂の巣であるとか、蜜蜂が交渉をもつ花々であるとか、そうしたものも全て含めて蜜蜂の存在というものを考える、そうした見方も生態学(エソロジー)的には非常に妥当なものとしてあるわけです。やすい先生の観点は、後者に近いものですね。

やすい:そうなんですよね。ですから逆に言えば蜜蜂というのは蜜蜂が蓮華の花を愛好してその蜜を運んできますと、蓮華の花も含めて蜜蜂だということになって、じゃあ蓮華の花が蜜蜂なのかということで、ちょっとおかしいように思われるとも思うのですが、それは蜜蜂というものを捉えるときに、蜜蜂の生態系全体を蜜蜂として捉えた場合には蓮華も蜜蜂を構成するということになるわけなのです。

 ですからそれと全く同じで、人間世界というものも様々な社会的な諸事物だとか、人間環境の自然というもの全体が人間の定在としての人間の環境を構成しているのです。これ全体を人間として捉えないと、人間環境も捉えられないのじゃないかなと思うのです。

田辺:そうですね。ところで、人間的・社会的な諸事物、例えば道具というものを人間身体の延長として考える捉え方がありますね。棒は手の延長である。服は体毛の延長である、という風に。やすい先生のお考えも、そうした延長論であるという理解もあり得ると思うのですが。

やすい:それは少し違うと思うのです。というのは、延長論でいきますと、身体という中心がありまして、これが人間であると先ず捉えられていまして、人間以外のものを人間の延長というように、再編成しているわけですね。

 ところが私が申しましたのは、人間の身体が人間の身体以外の人間的な事物と関係を取り結んで、人間世界を再生産しているわけです。

 そういう人間世界の再生産に加わっている諸事物は、どれも人間の定在というように捉えますので、人間の身体が人間であって、それ以外は人間の身体の延長であるという、一方的な関係よりも、双方向的な交渉的な関係として、社会的な事物や人間環境の自然的な事物を、交渉的存在として人間であるというように捉え返しているわけなのです。

田辺:今、「人間の身体が人間の身体以外の人間的な事物と関係を取り結んで、人間世界を再生産している」というお話がありましたが、これは生命システム論で言うところの「自己組織化」、いやむしろそれをさらに一歩進めた「オートポイエーシス」の考え方に近い印象を受けます。この点につきましては、また後程伺いたいと思います。
        3交渉的存在としての人間

田辺:ところで先程、「交渉的存在」という用語が出ましたけれども、この「交渉的存在」という言葉の意味内容についてご説明頂ければと思います。

やすい:「交渉的存在」という言葉は、三木清の「パスカルにおける人間の研究」とか「マルクス主義の人間学的形態」という論文の中で扱われています。

「交渉的存在」という言葉が三木清の人間学のキーワードになっているのです。

それは人間が、人間世界の中で自然的な諸事物だとか、社会的な諸事物と関わるわけなんですが、そういう諸事物が交渉的存在として人間世界を構成しているわけです。三木はだから、社会的な諸事物や人間環境を構成する自然的諸事物も、人間を構成する事物として捉えるべきだというようになるわけなのです。この三木の議論からも社会的諸事物も人間に含めるという発想は頷けるのじゃないかなと思うのです。

田辺:三木清の交渉的存在という概念を考える場合、彼が非常に影響を受けた西田哲学の「純粋経験」という概念が、非常に深い関連性をもつと思うのですが、この点についてもう少しお話頂けますか。

やすい:そうですね、三木は西田幾多郎を一番尊敬しているわけです。

「交渉的存在」といった場合、事物が人間の状態性であるというように捉えているわけなんです。

その場合の状態性という概念の中に、当然感覚的な経験とかが入っておりまして、例えば薔薇を見ている人にとっては、薔薇というのは自分の純粋経験でありまして、薔薇は薔薇を見ている人たちの状態でもあるのです。

したがって事物が、見ている人と別にあるわけではなくて、また見ている人も事物と別に存在しているわけでもありません。

純粋経験においては、それは主客未分であって、一つであるという捉え方があります。ですから事物といいましても、身体や人間の経験から切り離された事物ではありえないわけです。人間の経験を構成している事物だというように捉えられます。

 事物が人間界を構成するということは、たとえばカント哲学にひきつけて考えますと次のようにも解釈できます。

カントは純粋理性があって、それが事物を認識する際に感覚素材によって事物を構成すると言っていますね。そうすることによって事物は単に身体的感覚と離れた、感覚と別の存在ではなくて、感覚によって構成された事物であるということです。

そういう意味でカントの現象界というのも人間の世界であると捉え返すことができます。それでカント哲学全体も人間学であるという見方が、有力なのです。

田辺:今のお話を伺っておりますと、客体としての外界は存在せず、私たちが捉える外界は実は全て私の意識や感覚というものが構成するものにすぎないという独我論的な懐疑に近いという印象も受けるのですが、それはいかがでしょうか。

やすい:そういう誤解はありうると思います。

ただ、意識と申しましても個人が世界を意識するというか、個人の意識の中にすべて世界が入ってしまうというような意味での独我論ではありません。

様々な諸事物というのがありまして、それらは人間の感覚によって構成されているのですが、その人間の感覚も同時に、逆に言えば、諸事物がつくる社会的な関係の中で、その中に身体も存在して、そしてその身体の中に意識が生じるわけなんです。

その意識を生み出しているのは、単にその身体の一方的な行為によるのではなくて、その身体をはじめ社会的な諸事物や人間環境の自然的諸事物と共に生み出しています。

 そういう諸事物間の関係というものがあって、それらが個々人の意識をも生産し、それを契機にしてまた全体の人間環境が再生産され、人間社会の機構も再生産されます。そして諸事物もその中で我々を再生産するという関係になっております。それで一人の身体的な諸個人の中の意識に全て還元するような意味での独我論には当たらないと思うのですけれど。


            
        4環境世界としての人間

田辺:なるほど、全てを「私の意識」に還元するという意味での独我論とは異なる論理構成になっている訳ですね。

ところで、生物学者のユクスキュルが、1930年代に著した『生物から見た世界』(邦訳;新思索社刊)という大変面白い著作があります。

そこで提唱された「環境世界論」は、エソロジーの原点としてのみならず、ハイデガーや近年ではドゥルーズなどの哲学者にも大きな影響を与えている事が知られています。

また、先程申し上げました「自己組織化」や「オートポイエーシス」といった、先鋭的な生命システム論の発想の源泉でもあります。やすい先生の「人間観の転換」にもユクスキュルの環境世界論との共振関係が感じられます。

やすい:先ほど申しましたように人間の身体だけが人間を構成するのではなくて、パソコンだとか机だとか服だとか、そういうものも人間を構成するという議論を動物世界に置き換えますとよく分かるのです。

たとえば蓑虫の蓑というのは、蓑虫の体ではありません。蓑虫が何か葉っぱとかを集めて作ったものであるわけです。でも蓑虫というのは、蓑がなければ蓑虫というようには考えられないでしょう。

もっと身体以外のものをその動物を構成している好例は、例えば貝ですね。貝なんかは全く貝殻の部分なしに身だけだったら、むしろ貝には見えません。貝殻だけの方がまだ貝にみえるというところがあるわけです。蜘蛛の場合も蜘蛛の糸なしの蜘蛛というのも蜘蛛かなと怪しまれます。

一見、身体の一部に見えるものでも、身体から排泄された異物であるという場合とか、あるいは外界から取り寄せた異物であるという場合がありまして、それがそれらの動物を構成していています。

それだけではなくて、その動物の獲物だとか、あるいはその動物が棲む環境があります。木であるとか土であるとか、そういう環境とその動物は非常に密接に関係していまして、体の色からなにから、全部そういう事によって決まってくるのです。

そのように考えますと、その動物の持っている環境世界全体としてその動物を捉えた方が理解しやすいのです。

特によく取り上げられるのがビーバーです。ビーバーはすごいですね。ビーバーダムやその中にある三階建ての水中住居があります。ビーバーダムにはたくさんの魚が飼われています。

 そういうものを抜きに、ビーバーの体だけをもってきてこれをビーバーだといって、平べったい尻尾がついていて、大きくて鋭い前歯が二本あるというところから、だからこういうビーバーダムができたと演繹するのは大変難しいわけです。

 ですからビーバーというものを理解しようと思ったら、ビーバーダムからビーバーを理解するというようなってきます。つまりビーバーダムも含めてビーバーというものはどういうものかを我々は知っているわけです。

 特に人間ともなりますと、裸の人間をいくら分析しても人間が何かはぜんぜん分かりません。人間の文明、これを人間として捉えるのです。核兵器から大量のゴミまで含めて人間を論じるというようにしてはじめて人間を論じることができるのです。

田辺:確かに次のような思考実験を想定してみますと、やすい先生のお話は非常に説得力があると思います。即ち、仮に、知性を持った異星人が人間を理解しようとする場合を仮定してみます。その場合、おそらく裸の人間の個体だけを実験室のような閉鎖空間で調べても、分かる事は非常に限定されるはずです。むしろ、人間をそれを取り巻く環境世界との相互交渉的な存在として、総体的に研究する方が、はるかに深い理解に達し得るでしょうね。

 ところでこの環境世界というものを、ユクスキュルは動物について研究したわけですが、そのままの形で人間を論じる場合に敷衍していってもいいものかどうか、この点については、どのようにお考えでいらっしゃいますか。

やすい:環境世界論はもちろん人間にも適用できます。人間も動物に含まれている限りで共通性があります。

 ただ動物は各種によって、身体的特徴は一定ですから、その動物の環境系も一定でいわば閉じられているわけです。それに対して人間の場合は、身体的特徴は進化しないのですが、道具が進化しまして、それに伴って環境系も開発され変化するので開かれた環境系になっているわけですね。そこが根本的な違いです。

 人間はやはり動物と区別しなければならないわけですが、その場合に本質論的な人間理解というものがなければ人間の特徴はつかめません。それで人間とは何かということを本質論的に特徴付けるという場合にどういう議論があるのか考えまして、その中からどうしてそういう本質が生じたのかという問いを発していけば、また分かってくるのではないかと思うのですが。





            
           5動物の知覚と人間の認識


田辺:-本質論的な人間観と申しますと、例えば「ホモサピエンス」「ホモファーベル」「ホモデメンス」「ホモルーデンス」等等様々な規定がございまして、それらは相互に連関がないかの如くに見えるのですが、これらを統一する方法と言うのは一体あるのでしょうか。

やすい:それぞれ人間を論じている論者が自分の関心に従って述べているものですし、それに同じ人が論じているわけではないですから、ばらばらなので統一しにくいのですけれども、しかしある程度は統一できます。

 例えばホモサピエンスという考え方は、人間が理性をもっているということですね。当然理性というものは、人間が物を考える力があるということを前提します。やはり考えることなしに、たとえば労働したり、ホモファーベルでいう対象変革することもできません。

それからホモデメンスつまり錯乱動物という場合、人間は物事を言語でもって捉えるので、それで物事をそのまま体で捉えるのではないからズレが生じるという議論になっておりますね。

そのように考えますとやはり根本は、人間は物を考えるというところに行き着くわけなんです。その場合、動物が世界を捉える、感覚する、知覚するという場合と、人間が物事を捉えるという場合の捉え方では、何処が違うのか、ということを詰めていけばですね、なにかその思惟というところに人間の本質を総括できるのじゃないかなと考えられるわけなのです。

田辺:動物と人間の間の差異は、思惟の有無にあるというお話だったのですけれども、この場合の思惟というのは、一体何を意味しているのでしょうか。犬や猫などを身近に見ておりますと、全く精神活動がないというのは考えにくいのですけれども。

やすい:動物の知覚に基づく、反射とか条件反射の活動と人間が物事を認識するという場合とは、大きく違うのではないかと思われます。

その場合にキーになるのが、やはり「自己意識」ということでありまして、人間がお互いに他人として接する、あるいは物を自分と切り離された他者として見る、あるいは物同士を区別して互いに別の物というように認識するということで、やはりその根底には自他の関係というものがあるのではないかと思われます。

田辺:人間だけが他者性をもち、動物はもたないというその根拠はどこにあるのでしょうか。

やすい:例えば「猫はねずみを捕まえる」という場合に、猫とねずみは他者であると客観的に見れば見えます。他者性があるじゃないかといえばそれまでなのですが、しかし猫やねずみの意識に即して考えますと、猫は動くものに反応して、反射的に体がそこに動いていくようになっています。それでねずみというチョロチョロしたものが動きますと、猫は追いかけ回すことになります。

ねずみもねずみの意識に即して考えますと、猫というものが現れたら、反射的に逃げないと食べられてしまうので、逃げなかったねずみというものは、滅んでいくわけです。習性としてねずみは、猫が見えたその感覚に反射して逃げているわけなのです。

 このように考えますと、他者として先ず認識した上で反応しているのではなくて、自分の感覚として対象が存在して、その自分の感覚に対して反応しているのが動物の行動であります。ですからあくまでも動物の場合、自分の感覚に対して反応していると言えます。

ところが人間の場合は、どうかと言いますと、例えば人間が魚を釣るとか、人間が狩をするとかいう場合においては、例えば人間が鹿を見つけて鹿を狩ろうとした場合に、「ああ!鹿だ」という場合に、鹿というものも人間の感覚であって、ライオンが鹿を追いかけるのと全く同じじゃないかと思われるかもしれませんね。しかし人間はそれを鹿だというように認識しまして、そして鹿はどういうものであるという知識に基づいて、鹿を狩る工夫をして、鹿を狩るわけなのです。

そうしますと、鹿というものがどういうものであるかということを事物として「鹿はしかじかである」という認識が鹿に対してなされて、そういう認識に沿うものとして鹿というものに対して、人間は観念の実在としての鹿を追いかけるわけなのです。

というのは、鹿を単に感覚の対象として追いかけているのではなくて、鹿という概念の定在しての事物として自分の身体の外にあって、自分の鹿という表象を物に置き換えた形で捉え返してから、それに対応しているという意味では、人間だけが感覚に対するのではなくて、感覚から認識される事物に対して対応して行動しているということが言えますね。それで他者性を持っているといえるのではないかと考えているのです。

田辺:動物にとっての事物というものは単なる感覚表象であり、反応を呼び起こすシグナルに止まってしまうのですけれども、人間の場合は、感覚表象としてあらわれる事物に対して、様々な規定を与え、それを物として概念化するという働きがある、そこに大きな違いがあるということでしょうか。

やすい:そういう事になると思いますが、要するに人間は、感覚の世界に止まらずに、感覚している事柄をそれぞれ別個に存在している事物として規定して、そしてその認識に基づいてその事物に対応しているつもりでいるわけなのです。

ですから、例えば薔薇というのが見えますと、我々はその薔薇を見て「ああきれいだな」と思う場合は、感覚として捉えているわけなのですが、「ああこれは何々の薔薇だ」とか色々思う時には、それは単なる感覚を超えたそういう概念の定在として、つまり事物として捉えているわけなのです。

こうして、人間においてはじめて世界が事物から構成される、単なる刺激としての感覚表象によって世界が構成されているだけではなくて、様々な概念化された事物の集まりとして世界が構成されていると捉えることができているのです。そういう意味で人間においてはじめて事物認識が成立したということが言えるのではないでしょうか。
             6人間だけが言語を持つか

田辺:ようするに人間だけが事物を概念化するということは、人間だけが言語を持つということなのでしょうか。
         
やすい:はい、その通りです。それは言語の捉え方にもよると思うのですが、よくドリトル先生などは動物も言語を持つのだと言われています。

 それは動物も様々に感覚表象を持ちまして、その情報を仲間に伝達するということがあるからなのです。そういう意味で動物は仲間に信号を送っているわけですが、それを言語というように規定すれば、動物ももちろん言語を持つことになります。

 しかし人間の場合は、先ほども申しましたように、事物として物事を概念化し、感覚表象を概念の現れである事物として捉え、それでもって世界を構成するわけですから、単なる感覚表象をシグナルで送っているのではなくて、事物認識をコミュニケーションしているわけです。

 そうしますと事物認識というものは、「何々は何々である」という主語・述語的な形態をとることになります。これを命題言語といってもいいのですが、その命題的な構造を持つというか、文法的な構文を成すというのが言語の特徴であります。

 そういう意味においては、動物は言語を持っておりません。ですから、動物も言語を持っていると規定した場合の言語は、信号の伝達でしかないわけで、それを言語と定義するのか、それとも命題を伝達するのを言語と定義するのかは、それは定義する側の自由であります。

 ただ我々は言語とは何かということを通して、人間とは何かを問うているのです。人間も動物も言語を持つ者ならば、言語によっては人間の特徴は捉えられない事になります。

 そうしますと動物的な信号の伝達活動を言語に含めない方が、つまり言語の定義を命題言語にしまして、人間だけが言語を持つということにした方が、言語によって、つまり言語の有る無しで人間と動物を区別できます。

 そして言語を伴う活動を思惟と限定することによって、思惟でもって人間と動物を区別できるということになります。そういうことによって我々は人間とは何かを規定していくことができるわけなのです。そうしませんと人間と動物は区別できないままになってしまいます。

田辺:今のお話で、主語・述語構造という形式の統辞法を持つ命題言語をあやつることが人間の人間たる所以であるというように考えた場合、これは当然「私は〜である。」例えば「私は人間である。」「私は男である。」「私は会社員である。」というような自己の属性を表す命題言語が成り立つわけです。

 これは明瞭に自己意識の発生を表していると思います。やすい先生のお考えでは、言語の発生と自己意識の発生は密接に結びついているというお考えでよろしいのでしょうか。

やすい:それは重要な指摘だと思います。自己意識があって自他の区別があり、人間同士が区別されます。また自分が持っている物と他人が持っている物、物と人間の区別とか、物同士の区別だとかいうことも、自他の関係というものを契機に成立する可能性もでてくると思われます。

 そういう環境があってはじめて事物認識の条件がでてくるのではないかと考えられるわけなのです。ただそれが何によって自他の関係が生まれたのかということがはっきりしませんと、その自己意識が成立して、言語が成立した謎は解けないと思います。
           7自己意識の発生の契機は交換である

田畑:それでは単刀直入にうかがいますが、やすい先生は、人間に言語と自己意識の発生の原因について、それは何によるものだとお考えなのですか。

やすい:それは様々に考えられるわけなのです。例えば労働が発達することによって、人間の身体と身体の延長としての道具がたくさんになり、それぞれの道具が産み出す生産物がたくさんになっていって、それぞれ区別されていくというような自己意識の発生のプロセスを考えたり、分業社会を考えまして、それぞれの役割の違いから他者と自己の違いを意識するという分業論的な自己意識発生論も考えられるわけなのです。

 しかしながら、たとえば分業論の場合は、動物も分業している場合もありますので、必ずしもそこから自己意識が発生するとはいえません。

 身体の延長としての道具の発展も、それに伴う様々な生産物の豊富化をもたらします。そして物と物とを区別するというのがでてきて、そしてその物を作り出す自己を意識したりするということはあると考えられますね。

 しかし次次と新しい道具が発明されたりしていく場合には、多を産み出す一として自己が意識されるでしょうけれども、何しろ言語が発生した時代というのはかなりの昔のことでしょうから、一生の間にどれだけ新しい道具ができたり、新しい物が生み出されたりすることによって、そういう自己を発見する契機が与えられるということは、あまりおぼつかないわけなのです。

 現実的に一番考えられるのは、やはりお互いに人間同士が他者として接しなければならないという関係がどうして生まれたのか、それを考えれば分かるのじゃないかなと思うのです。

田辺:今のお話で、他者との接触というものが言語や自己意識の発生の契機になるということですが、他者という言葉は非常に様々な定義や含みをもって哲学の世界では使われますので、やすい先生における他者の定義をここでお聴きしたいと思います。

やすい:動物同士の関係におきましては、親しい関係と疎ましい関係というものが考えられます。それはやはり感覚表象の中で親しい関係であれば、一緒に交わったり、疎ましい関係だったら喧嘩になったり、斥けあったりするわけなのですが、人間の場合は感覚表象として親しい場合に一緒になったり、疎ましい場合に斥けあったりでやっていけなくなった場合を想定してみてください。

 相手の共同体にある物がこちらの共同体に無いのでそれを欲しいということになり、逆の場合にもそれが成り立つ場合です。

 お互いにそれが血縁関係でもあれば、お互いに送り合いをすればいいのですけれど、生憎血縁関係が無い、疎遠な共同体間であるとします。しかしながら喧嘩をして、相手をやっつけてしまいますと今度は再生産ができませんので、一回しか手に入れることができなくなります。長期にわたってそういう補充して欲しいものを持つ共同体というものが、親縁の共同体ではない場合は、お互いに自分ところでは余っているけれど、相手の所では要るものを出し合うことになります。

 だけど最初から対面してやりますと、疎ましいのでどんなトラブルになるか分かりません。それで無人のところに捨てあうような形で、いわゆる「物々交換」というものが、交換の最初としてあったと考えられます。

 こういうものが始まりですが、徐々にそういうものが発達していきますと、やはり互いに必要なものを交渉によって交換し合うという関係がでてくると考えられます。

 この関係がいわゆる私がいう「他者性」でありまして、単に敵でもなければ、完全な味方でもなくて、互いに独立し合っていて、独立した人格同士として交渉し合うという関係が「他者性」であると捉えられると思います。

田辺:やすい先生は異なる共同体間の関係を他者性と定義されるというわけですね。

 今非常に重要な問題が幾つか提出されたと思います。阿吽の呼吸でお互いに分かり合えるような親密な共同体の中での贈与とお返し関係からは他者性は出てこない、そうではなくて異なる共同体間での緊張感をもった「交換」というものが、言語や自己意識の発生と密接に関係が有るというお考えと捉えてよろしいのでしょうか。

やすい:まあ、そういうことなんですね。ですから異なる共同体という場合は二種類考えられると思います。それは元を正せば血縁関係があったような親戚的な親縁共同体間ですね。これは交換の論理ではなくて、送り合いの論理でやっていけると思います。偶然、親縁の共同体が昔いたところに別の全く無縁の共同体がやってきた場合に無縁同士の共同体間で交換が必要になります。そうした場合にはじめてはっきりし他者性に基づく交換という物が始まります。

 でもやはりそういう他者性というものは、未開的な思惟においてはなじまないものですから、最初は他者的な交換をしていても、血縁関係を取り結ぶと言いますか、プナルア婚によって、親縁共同体に変えまして、もう交換じゃなくて、送り合いの論理に戻していくという事が起ったと思うのです。

 しかしながらそこに於いてはもう既に交換の色が染まっていますから、そういう中にも交換の論理が多少なりとも貫かれていくということになります。

 こうしてまあ徐々にということになりますが、長い年月によって、交換の論理が浸透していきますと、それに伴いまして親縁を取り戻しても他者性は多少残るわけです。

 それが次第に他者性が浸透していきまして、人間同志の関係が他者として捉えられ、そして人間にくっついていた事物が交換によって、自分のものから他者の物になる、他者の物が自分の物になるというような感じて、物が他者性を帯びるということで、単なる表象的な存在から事物として捉えられていきます。

 そうして事物から世界が構成されていくように捉えられていくようになったのではないかと思います。そういう中で、この物はこういう物であるという規定が、与えられていくようになりますと、認識というものが発展していって、そういう主語・述語関係から一つの主語にたくさんの述語が与えうるわけなのですから、こういう言語は認識を急速に発展させることができます。これが文明の元になったと考えられるわけなのです。

田辺:非常にスリリングなお話だったわけなのですが、一方である疑念も生じます。交換の発生が言語と自己意識の発生の原因であるとした場合、交換が発生しない前の人間は、言語や自己意識を持ってなかったという論理になると思います。一方で言語や自己意識というものは人間にとって生得的なものではないかという議論もあるわけでして、この点について先生はどうお考えですか。

やすい:はい、それがやはり一番説得力の無いところなのです。といいますのが、先ほども申しましたように、交換が発生するまでに長い年月が考えられることになります。

 交換というのは、交換されるものは商品性を持つものですから、交換が発生すれば、市場というものができていきます。そういうような段階というのはかなり未開社会でも後半にあたるのではないかというように考えられますので、そういたしますと、エンゲルスなどが原始・野蛮・未開と分けました時に、未開の後半になってやっと自己意識や言語が成立したということになりますので、今からいくら遡っても一万年程前にやっと言語や自己意識が成立し、そのことによって人間の段階に到達したということになります。

 つまり人間の本質を先ほど言いました思惟だとか言語ということに置きますと、それまでは思惟や言語は成立していないことになりますので、たかだか一万年しかまだ人間の歴史はないということになります。これはアウストラロピテクスが数百万年前に人類になったということから考えますと、一万年にしかならないのはおかしいのじゃないかという批判もあります。

 しかし私が論じていますのは、人間と動物をはっきり区別するという問題です。猿の進化によって人が生まれた、その段階において最初から思惟や言語を持つ人間的段階に到達していたということは全くいえないわけで、かなり時間がたってから到達したということが考えられます。

 それで到達しますと、言語や思惟を使って飛躍的に進歩するわけです。つまり人間的段階に達したわけですから、それまでの動物的段階から人間的段階に達するや言語の主語・述語構造というものがありますので、主語に対して述語はいくらでも付け足せるので、そういう全く新しい世界認識のやり方が成立したものですから、進歩は非常に急速に加速したのではないかなと思うのです。ですから今から一万年前というように考えましても、それまでの数百万年間はまだ動物的段階にあったのだということでいけるのではないかなと私は考えているのです。

田辺:今うかがいましたお話の本質は、交換による言語そして自己意識の発生の条件を明らかにするというお話だったと思います。従ってそれは歴史的な段階論でもあり、それと同時に歴史を越えた普遍妥当性をもつ議論でもあると思います。したがって、たとえば現代社会にあってもある人間なり、共同体が先ほどおっしゃられたような一定の条件を欠く場合、未開以前の状態にもなりうるということを示唆されていると思うのですけれどもいかがでしょうか。

やすい:それは微妙な問題がたくさん入っています。先ず原理的に現代社会においても、人格的な独立性というものが成立する条件がなくなれば、人格として生きていけなくなるということは、精神病の症例の中でも人格崩壊的な例もありますし、狼に育てられた少女が人格を持つのが難しかったという例でも言えることですが、人間の言語というものは、言語能力が大脳に大きな影響を与えていまして、それが遺伝するということもありますので、人間はやはり交換とか自己意識を持って生活するということに適応しやすい形になっていると思います。

 将来そういう交換というものが必要ないぐらい世界が発達しまして、世界が一つの共同体になって、市場というものが成立しなくなった場合、人間が人間でなくなるのか、人間を超えた存在になりうるのかというような問題も考えられますね。それはやはり、人間を超えた形になるでしょうね。

 人間は交換にふさわしい形の言語を持っていて、これまでの生活をしてきたわけですが、そういう条件が無くなった場合に、また新しいより高い段階での理性というものが発展してきて、他者関係を止揚しながら、その中に競争だとかいろんな関係を含みながら、より高い段階での人間性を確立していかなければいけないわけです。それはいわば既成の人間を超えて超人になるようなものですから、すぐにはいかないわけですね。

 マルクスなとが、商品経済を一気に止揚して新しい共同体を実現しようとしたけれども、それは私に言わせれば、なかなか商品交換を乗り越えるということは人間が人間でなくなるくらいの大きな変革なのであって、そういう条件を追及していくということは、交換における商品性の疎外を克服するという意味では大切であり、決して目標にしてはいけないというわけではないですが、一足飛びに簡単に実現できるかのように考えると、いろんな弊害が生まれる可能性もまた出てくるわけです。

              
  8商品性の超克

田辺:今非常に重要なお話をうかがったと思うのですが、商品交換をなくすということは、人間が人間でなくなるぐらい大変なものであるということをお話されたわけです。

これは言い換えますと、商品交換というものは人間存在の存立条件であると私は思います。従って交換される生産物というものを商品とするならば、人間存在とは即ち商品に他ならないというパラフレーズ(言い換え)も可能だと思うのですが、いかがでしょうか。

やすい:人間が商品交換によって、自己意識が発生し、言語を持つようになったという話をしたわけですね。そうしますと、その前にお話しましたように、人間の身体だけが人間であるのではなくて、人間の生産物も人間であるという、この議論とつなげていくと、生産物が交換によって商品になっているわけですから、それも人間に含まれることに成りまして、人間が生産物としては商品であるということができることになります。

 それでは身体的な人間は商品じゃないかと言いますと、身体的な人間が商品になりますのは例えば奴隷、あるいは資本主義になりまして労働力商品の場合に、労働力は身体的な能力でもありますので、その使用権が商品化するということがあるわけです。

そしてもっと一般的に考えますと、生産物だとか身体だとかが商品性を持つということが人間の特徴であるという意味では、人間が商品であるという規定は差し支えないというのが私の「人間商品論」でありまして、これは大変評判が悪い議論だったのです。

田辺:今の先生のお話で、非常に重要なポイントがございますので、ここをきっちりと押えておきたいと思います。

「人間が商品である」という言葉だけを捉えた場合は、人間の精神性であるとか、人間の尊厳であるとかを無視しているものではないかという批判などもでてくることかと思いますが、やすい先生のおっしゃっていることは、商品交換によってまさにその人間的な精神が発生し、発達したという点にそのポイントがあるわけですから、この点に充分留意していただけば、そういった誤解の余地はないものであると思われます。

 先生の今のお話をうかがっていますと、人間の存立条件として人間の商品化というものをこれは不即不離であるというお話であるのですけれど、そうしますと現在の市場経済、資本主義というものがいわば人間的なものの最終段階であって、それを超える人間の交換形態だとか社会形態というのはないのかという批判も考えられるのですけれど、この点についてはどういったご見解でございましょう。

やすい:私の「人間商品論」に対する批判の一つとして、商品性というものを超歴史的なものとして捉えてしまっているのではないかという批判があります。

マルクスの『資本論』の狙いは、商品経済というものが、歴史的なものである。それは克服できるのだという立場があるわけです。

 ですから例えば商品の価値と使用価値だったら、価値は歴史的な規定性であるけれど、使用価値は超歴史的な規定性であるということで、資本主義とか商品経済を乗り越えていくのがマルクスの共産主義の立場です。

 その意味で「人間商品論」というのは、商品性を乗り越えられないとして捉え返しているのではないかという批判です。だからそれはブルジョワ的な捉え方ではないかという批判があるのです。

 ところがよく考えますと、人間の商品性というのは、人間性の根幹にありまして人間が自己の商品性を超克することは、人間性を乗り越えて超人になるというか、人間の次の段階に行くぐらい難しいのです。

 このことをしっかり認識しないと、簡単に乗り越えられるように思いますと、非常に無理なあまりにもラジカル過ぎるような社会改革を呼び起こして社会の混乱を招くような場面もあったわけなのです。

 やはりそういう事を考えますと、人間の商品性というものを再認識すべきです。そしてそれをただ受け入れるだけではなくて、批判し、そこからくる弊害に対して対策を立てていくという意味からも、人間の商品性を確認しておく必要はあるんだということを言いたいためにも、「人間イコール商品」ということを言っているのです。

 それが価値的に批判すべきものでないという意味で、「人間は商品なんだから、人間の商品性を否定したり、批判したらいけない」というつもりは全然無いわけなのです。

田辺:いわゆる資本主義というものが、人間の意識によって取替え可能なイデオロギーなどであれば、話はある意味簡単なのかもしれませんが、現実の歴史が実証してきたことではありますが、資本主義というのは資本主義者がいて考え方を変えれば、資本主義がなくなるというものでもないように思われるところがあるわけです。

 やすい先生はその意味で、資本主義と言うもの、商品性というものをもっと人間にとって根底的なものとして捉えていらっしゃるということは非常に、そしてそれをよく認識することが先ず何よりも肝要だとおっしゃっているということは、現実の歴史に照らし合わせてみても非常に照合していらっしゃるし、一貫したお考えだと思います。

 もう少し具体的に申し上げますと、例えばソヴェト連邦というものは、そういう社会主義の理念のもとにつくられた国家であるとことになっていたのですが、まあ崩壊したということは措くとしてもですね、ソヴェト連邦の経済自体がでは商品交換の市場経済ではなかったのかという疑問がございまして、その点についてはいかがですか。

やすい:これも重要な問題なんですが、ソ連も一時は商品経済を著しく制約した時期もありますし、それでは経済がかえって進展しないということで、緩和して商品経済をフルに活用しようとした時期もあります。

 それで結局、企業単位の生産性をよくするためには、一九六〇年代にはやはり利潤原理を導入しなければならないということになりました。これは資本主義的な利潤とはちょっとちがいますが、しかし資本効率ということを考えなければいけないという点に於いては、社会主義も同様でした。

 価値法則の運用を行わなければいけないというのは資本の原理ですから、そういう意味では資本制的な側面があるわけで、市場経済というのは、完全な共有性が実現しない限り、残っていくと言うことがあるわけです。

 共産主義にならない限り、商品経済が基本的に続くということは、現在では広く承認された見解になっています。ただその面を強調しすぎますと、それの一番効率的な形態はなにかということでそれじゃあ社会主義も企業単位に資本主義的な企業でいいということになります。それだったら社会主義の実験は無意味だったということになります。

 しかし資本主義の経済にはマルクスが四つの疎外でも取り上げていますように、様々な矛盾がありまして、そういう弊害をなくしていかなければならないということで、労働者による共有制というものが打ち出されたのですが、現実には共産党による一党独裁下で、全く労働者には企業に対する発言権、運営権とか認められていなかったので、それは社会主義とはいえません。

 そういう意味では社会主義の実験はイデオロギー面では行われたとしても、それは単なるイデオロギーの看板でしかなくって、実質的な社会主義の実験はまだ行われていないということです。

 社会主義の実験をやっていくとしたら、私の考えはちょっと古いかもしれませんが、やはり下から協同組合的な運動だとか、自主的に資本主義形態とは違った企業形態を模索していき、それが資本主義企業よりも能率がいいし、優秀な経済システムであるということが認められていくように努力していく中でも広がっていきます。

 また資本主義企業も労働者が実際働いているわけですから、労働者が働きやすいような職場に変えていこうと思えば、労働者に発言権を与えていき、運営権を与えていくという形で社会主義化していく、あるいはまあ株式の労働者持株制を導入していくという形で、改革が進んでいけば、社会主義的なものに成る可能性があります。

 そういう中で商品経済、資本としての効率性とひけをとらない、それを超えたような共同社会としての実質というようなものを広げていく中で、商品経済や資本主義の矛盾というものを減らしていく努力の積み重ねによって、商品性を次第に克服していけるかもしれません。
            9マルクスは疎外論を捨てたか

田辺:少しお話が前後致しますけれど、急進的な社会主義、あるいはマルクス主義、共産主義、ちょっと微妙に違う概念を混同し、並列しているかもしれませんが、急進的な立場になった場合、資本家は悪であるというような非常に分かりやすい図式でもって攻撃するというラジカリズムがあります。

 でも、マルクス自身は『資本論』の中で資本家自体はそういう社会的位置にあるからそうするのであって、個人に対して責任を問うようなものではないというような言葉があったような気がするのですが、先生のお考えもそれに近いと考えてよろしいのでしょうか。

やすい:マルクスは『経済学・哲学手稿』の段階で疎外論を展開しています。我々が疎外論に感動したのは、今まで資本主義に対して労働者が搾取されているから、これを倒して社会主義、共産主義にしなければいけないと考えるときには、階級闘争という視点が強くて、敵を倒すという憎しみの感情というものが中心だったのですが、疎外論ではすべて労働者の自己疎外です。資本主義体制も資本家も自分たち労働者の疎外された姿なのだという形で捉えているわけなのです。

 ですから資本の人格化として資本家というものを捉えているわけで、資本家も自分たちの疎外された姿ですから、資本家も疎外されているわけです。

つまり利潤追求しかできないという人間性の喪失があるわけです。資本主義を打倒することが、すなわち労働者の自己解放であるし、資本家を人間性喪失の不幸から解放することでもあるわけです。

だから人間一般の解放だという視点があったわけです。それは終生変わらなかったのです。第一エンゲルスも資本家ですし、マルクス自身エンゲルスに寄生して生活していたわけです。そういう意味で資本家に対する憎しみという感情はあまりなかったと思いますね。もちろん個々の悪徳資本家にはあったでしょうが。

田辺:疎外論のお話が出てきましたけれど、マルクスにおいて『経済学・哲学手稿』の段階で疎外論が強く打ち出されておりました。その後、日本では廣松渉、フランスではアルチュセールあたりが、認識論的切断などと言い出しまして、要するに『フォイエルバッハ・テーゼ』以降は、マルクスは疎外論とは手を切ったのであるというような論理が非常に一時期盛んになったわけですけれども、この疎外論について先生の観点をお聞かせ願えればと思います。

やすい:私も疎外論については、『フォイエルバッハ・テーゼ』あたりで切断しているという切断論を採用していたことがあります。

 「青春の甘きすっぱき疎外論、一度捨てたがまた拾いきぬ」という歌にあります。

 特に『ドイツ・イデオロギー』以降は自己疎外という概念の使用がほとんど行われていなかったのです。それでも経済学批判期つまり『経済学批判要綱(グルントリッセ)』『剰余価値学説史(メアヴェルト)』『資本論(ダス・キャピタル)』の段階になりまして再び「疎外」という概念が使われるようになりますが、それまでの間はほとんど使われていないことは事実です。

 その場合にやはり唯物史観というものが『ドイツ・イデオロギー』で確立しておりまして、それに沿って議論をするということが中心でしたので、そこでは疎外という概念があまり必要でなかったということがあったと思われます。

 ただマルクス自身の思想の中で全く疎外という言葉は無用になったとか、思想として成り立たないということはなかったということが、やはり後期に再使用されていることに現れていると思います。それを初期の段階の疎外と比較しますと、学問的な意味で「労働からの疎外」という意味で多く使われているのです。

 『経済学・哲学手稿』の四つの疎外というのは、労働者の労働における疎外なのですが、後期経済学批判期における「労働からの疎外」は、労働から価値の現れである価格がずれるということなのです。

 市場価格が労働時間の凝固である価値からずれるのは当然なのですが、市場価格の基準になるべき生産価格も独占段階になってきますと、価値からずれるわけなのです。すると生産価格が価値のように見えていますから、つまり労働から「価値」が疎外されているように現れるということです。

 これは経済学の疎外なのです。これはじゃあ労働者の疎外とは関係ないのじゃないかと思われるかもしれませんが、やはりその根底には労働者の疎外があるということは『資本論』を読んでいますと、『経済学・哲学手稿』での労働者の疎外と同様の使われ方もしておりますので分かるのです。

 念のために、このホームページの『疎外論再考ノート』の「付編.『資本論』と疎外論」から引用しておきます。

       「一、『資本論』における疎外論の役割

 後期マルクスとも呼ばれる経済学批判期に「疎外」概念はほとんど使われなくなり、キーワードとしての重要性が無くなったという疎外論払拭説は、『資本論』に対する決定的な誤解に基づいている。

 もちろん『資本論』自身は資本制生産様式の法則的な認識を目指すものであって、労働者の疎外状態を告発することを目的としたものではない。したがって生々しい労働日をめぐる闘争を論じた箇所でも、「疎外」という用語を使わずに済ませている。では一体どのような意味で使用されたのか。

 経済学批判期には計49回使用されている。『グルントリッセ』11回、『メア・ヴェルト』25回、『ダス・キャピタル』13回である。その内訳は次のとおりである。Gは『グルントリッセ』、Mは『メア・ヴェルト』、Kは『ダス・キャピタル』を示す。

(1)労働から疎外された客観的実在(としての資本)   G1、M10、K2 計13回
(2)同一性(統一性)の破壊・分裂・対立としての疎外  G1、M6、K5 計12回
(3)本質からの乖離としての疎外       G2、M4、K2 計8回
(4)疎外としての対象化        G2、M1、K1 計4回
(5)生産物からの疎外        G2、M1、K1 計4回
(6)労働における疎外(疎外された労働)     G0、M1、K2 計3回
(7)自己の本質or社会的関連の物象化としての疎外    G1、M2、K0 計3回
(8)人間間相互の疎外        G2、M0、K0 計2回

 (1)(2)(3)(4)は物神性の原因で、この用法が経済学批判期における疎外論の特色となっている。これはマルクスが疎外論を脱却して物象化論・物神性論に移ったのではなく、物象化論・物神性論が疎外論の新展開であることを示している。

 (5)(6)(7)(8)は『経済学・哲学手稿』の四つの疎外と同じ用法で、疎外論の新展開が若きマルクスとの思想的断絶を意味しないことを示している。」

 やはり我々が生活している場面で人間性を失うということがたくさんあるわけで、「疎外」と表現して批判するというのは、大いに必要なことであると思いますね。

田辺:「疎外」といいますと哲学用語的でとっつきにくい感じがするかもしれないのですが、人間の疎外という場合は、人間の本来的なあり方から人間が疎外されている、あるいは人間の本質から人間が疎外されているというような形で、本質論と実はこれはセットというか、コインの裏表なのですね。まずそのことを前置きとして、ご質問致します。

 ちょっと卑近な例で言いますと、ここ日本でも豊かな生活が手に入るようになったにもかかわらず、やはり一般的に我々の周りの人を見ても、我々自身を省みましても、どことなく不全感を感じてしまいます。

 本当の自分はこんな自分じゃなかった筈だということで、いわゆる「自分探し」というようなものがブームになったりしています。

 自分探しというのは要するに本質的な、自分の本来的な在り方を探すという意味で、ある意味で、非常にカジュアルな感じではありますが、疎外論の一形態だと思われます。

 そういう意味で、疎外論的な認識、あるいは本質論的な認識というものは、広く共有されているものだと考えます。ところで、本質論的な人間観というものに対して、やすい先生はどちらかというと、現在はカウンターとして状態性としての人間観を強調すべきだというお立場に立っていらっしゃると思うのですが、先ほどのお話と本質論的でない人間観の結びつきというのは、どうなるのでしょうか。直接結びつけると矛盾が発生するように思うのですけれど。

やすい:本質論的な人間観というので、マルクスは、労働するというのが人間の本来の姿だとしています。だから人間の本質的な能力は労働を通して発揮されます。それでいろんな生産物だとか、社会だとかができているのです。まあ畑を見ても、森や山を見ても人間の労働の成果が現れるわけなので、そういう自己実現というものがなされるという意味で、人間は労働が本質だということです。

 それで労働を通して自己実現しなければならないのですが、実際はそれが目的ではなくて、他人の労働の成果を手に入れるための全くの手段でしかないのです。

 自分はいやいや犠牲として労働しているわけですね。まあこういう状態になっているので、それは疎外だというわけです。ですから本来の人間性を取り戻すということは、労働する事自体が喜びであるような、そういう労働の状態を取り戻すということなのです。

 つまり「疎外」というのは状態概念なのです。そういう意味で労働者の疎外を論じるのはは、これは人間論になっているのです。ですから実存主義の人間論というのは疎外論なのです。

 それは本質論を前提にしています。何らかの人間本質の規定があります。そこからはずれているいうことがあって、それで疎外というわけです。

 実存主義だったら労働本質論じゃなくて、自由本質論ですね。人間の本質は自由だというわけです。ところが自由を失っているから、だから疎外なんだと、まあそういうものです。

 一つの人間論の形態として状態論があるというのは三木が強調したわけですが、それは重要な観点なのですが、それは必ずしも本質論と対決する場合もあるかもしれないけれど、両立できるものだと思うわけなのです。

 だから状態論として人間論を捉える視点も必要だし、本質論として捉えることも必要であって、それでどちらにウェイトが強いかはその個性ですから、どちらが強くてもいいのですけれども、やっぱり人間を論じる限り、本質を無視して論じるわけにもいかないわけです。そしてそれがどういう状態であるのかを無視して論じても意味がありません。そういう意味では完全に人間論は両方とも含んでいると思いますね。

田辺:なるほど、先生の今のお話で、冒頭でお話していらっしゃった「哲学の大樹」というものが、実際にはどういうものかが少し見えてきた気が致します。

 今のお話をうかがっておりますと、例えば、廣松渉などの疎外論批判は、一見、明確に見えるのですが、ドイツ観念論的であった時期のマルクスと唯物史観の論客としてのマルクスというものマルクスの二つに分裂しますね。

 分裂したままではいけないので、廣松は前期の観念論的なマルクスを切り捨てるという捉え方だったわけですね。しかしマルクスのようよ一世紀でるかでないかというぐらいの優れた思想家が、そんなに分裂した二人のマルクスというのがいるというのは常識で考えて違和感がある面もありますね。

 マルクスは二人ではなくて、一人ですね。その意味では先生のおっしゃっている方が一貫したマルクスの読解になっていると思います。時期において重点を置くところを変えた、ポイントをシフトさせたとうことはあったとしても、一貫しているのだという意味では、マルクス読解としては、より矛盾が生じないことになると思いますが、いかがでしょうか。

やすい:我々の若い頃は、唯物論か観念論かということが非常に大きな問題意識でありました。唯物論の立場からは観念論は間違っているということです。

 それでマルクスが観念論的な問題意識を脱して、唯物論的になったということで、『フォイエルバッハ・テーゼ』とか『ドイツ・イデオロギー』を画期点にして唯物史観の成立イコールマルクス主義の成立ということを考えていたわけなのです。

 しかしながら、そういう問題もマルクス主義の見直しの中で、やはり疎外論というのは、主体が対象に自己を対象化して、生産物なり、世界などを作くりあげていくなかで、その中に自己を発見するということができれば、疎外がないのですが、それがなかなかできないで、自己を見失うわけです。

 あるいは自分が作り出したはずの世界から圧迫され、支配されて苦しめられるということがあります。それを疎外だとマルクスは呼んで、そういう疎外から自己を回復しなければいけない、自分を取り戻さなければいけないということが、言われるわけです。

 これを観念論的であると廣松さんは捉えました。そういう観念論をマルクスは克服したと思われたわけなのです。もちろん廣松さんだけではなく、一般にそういう見方が多かったわけです。

 しかしながら、やはり世界を捉えるときに、主体が自己の意識とか意志とかを自然だとか社会だとかの対象に実現して、自分自身を自己実現していく、その中に自分を見出していくという観念論的な見方が、これは当然必要なことであります。そういう観念論がマルクスの中にあったとしても、別に不思議はありません。

 そういう観念論と共に、物事を認識する場合に、経済的な基盤から捉えなければいけない、物質的な基礎からきっちり捉え返さなければいけない、物質的なものによって規定されているという唯物論的な社会認識、歴史認識、人間認識もまた必要ですね。

 それは唯物論であるとしますと、そういう観念論と唯物論というものが、全く対立ばかりするのではなくって、補完し合うものであるという面もやはりあるのです。

 ですから『経済学・哲学手稿』の中に、「唯物論でも観念論でもない」とか「両者の統一である」とかいう表現があって、これが一番難解で、理解できなかったわけなのですが、今から考えるならば、「哲学の大樹」の中では当然の表現であるということが言えるのではないでしょうか。

田辺:唯物論と観念論というのは、今まで非常に相反する立場ということで捉えられておりました。それに対してやすい先生は、そのような二分法というのは、実は適切ではないのではないかといわれているわけで、これは非常に根本的な問題提起ですね。

 誤った事物の切り分け方、あるいは物の見方をしていては、現実を捉えることはできないのでして、「唯物論対観念論」といった捉え方はある意味浅薄ではないかというお話とも受け取ることができたと思います。

やすい:唯物論と観念論の対決というのが、十九世紀、二十世紀に行われたわけなのですが、その歴史というものは、まるっきり無視するわけにもいけませんし、評価しなければならないと思います。

 唯物論が観念論に対して言ってきた経済的な土台をきちんと見ていないとか、意識の根拠をきっちり物質的なものとして押えていないという形での批判が、全く間違っていたとかという問題でないと思います。

 ところが観念論的な問題意識というものを丸っきり否定できるのかというと、そうじゃないという意味で、唯物論と観念論というものは接合できるというのが、私の今の立場です。

 それはだから対立面を提出したのがまちがいだとか、対立してはいけないだとか、あるいは批判してはいけないとか言うことは全くないのです。

 やはり批判し合い、そして接合したり、融合したりできるところは、するということで、それでマルクスに戻しますと、『経済学・哲学手稿』のマルクスは観念論的なマルクスであったわけです。そして『ドイツ・イデオロギー』では唯物史観に基づく認識が強くなったということです。これは一つの展開であり、発展ということなのです。だからといって観念論的な問題意識が無用になったということではないと今からは総括できるのです。

田辺:それはやはり二十世紀の現実の歴史の動き、思想の動きというものが、あったからこそ、それを踏まえて出てくる、逆に言えば、今二十一世紀になったからこそ出てくる視点だというように捉えてもよろしいでしょうか。

やすい:全くその通りだと思いますね。
                               10 幸福論

田辺:これは私の私見なのですけれども、二十世紀の主な哲学の潮流において、大きく欠落していたものが二つあると思います。一つは人間論ですね。

もう一つ幸福論というのも非常に欠落し、後景に遠のいていたと思います。人間の幸福とは何かについて答えてくれる哲学というのがなくなったのです。

構造主義などは全くそういう事に関与しない面が非常に強いわけでして、その意味で今それらの成果も踏まえたうえで、新しい人間論と共に幸福論というものもまさに今必要とされているのではないかというように思います。

 いかに幸福に生きるかということは、やはり大変重要なことです。一般的な人々の感じを見ましても、先ほど申しましたように、どこかしら自分は疎外されていると、今の状態は本来の自分の姿じゃないということで、自分探しがあります。

しかしナイーブな場合は、カルトに嵌ったり、あるいは自分探しに失敗した挙句、ニヒリズムに陥ったりという光景を非常によく目にするのです。

一方で現在たとえば大工さんとか、建築の設計者が例えばこのビル、この家とかを自分で作ったんだよとかいいます。そういうのは非常に満足の行く仕事であるとかいうイメージも一般に広がっていって、それにあこがれるという風潮があります。

 それは逆に言えば、いかに自分のしている今の仕事というのが、そういう意味で自分の作ったものに対して、自分自身の人格というか、自分自身が仕事の中に篭められているとか、実現されているいうような思いを一般の人々が感じたがっているのです。渇望されているのですね。そういう意味での人間の幸福論について少しお話いただければと思います。

やすい:それは先ほどの自己疎外論とも関連がありますね。やはり自分の持ってる個性なり、能力なりがどう活かされているかということに対して、自己実現の満足が得れるかということですね。

 その場合にやはり「類的存在」ということがたいせつなのです。パン屋さんがパンを焼いて、自分が作ったパンをパン屋さんが自分で食べておいしいと言っても、幸福な感じがしませんね。やはりお客さんがそれを食べて、おいしいといってくれてそれで満足というか幸福な感じがあると思います。

 その場合に商品経済だったら、やはりできるだけ少ない労働時間であるいは少ない労力でつくった、より多くの対価が得れるということが中心になってきますので、そういう人に食べてもらって幸福になるという構造が疎外されているのです。やはりそういう意味で、商品経済というのは、そういう面を持っているということに対しての批判がマルクスの中にあったわけで、それは継承していかなければいけませんね。

 たとえ商品経済であっても、カントになりますけれど、単なる手段ではなくて、互いに目的にし合わなければいけないということがあるわけです。ただし目的にしたらいいといっても、目的にできないのが現実だから、それだけ生活というのは厳しいものですから、疎外の方が厳しくなっていくのです。

 心の持ちよう次第で商品経済、資本主義経済であっても、それはみんなの役に立っているのだから、それを幸福と思えばいいのだといっても、生活が苦しかったりした場合に、実感できないわけです。

田辺:(おもわず)実感できないですね。それと自分が作ったものといっても、それらが雲散霧消してしまうのが早いのですね。今はスピードが速いですから。

やすい:まあ、そういうことでね、人間いろんな矛盾にぶつかって、自己を見失ってしまうのです。

 でも本来の自分というものは、やはり分業の中においては、自分の個性、能力を社会の中でみんなのために発揮できて、社会とのつながりの中で自己を実現できるのです。

 そしてその事で皆から評価されることによって、幸せを感じるということが、これが基本にあるわけです。これが共同体的なというか、共同意識、類的意識ということですね。これを強調した疎外論は幸福論でもあるわけです。そういう面を二十一世紀になって、もう一度見直して継承していく必要があると思います。

 それから幸福というのも感情ですから、感情というものをやはり見直して、哀しみだとか憎しみだとか、苦しみだとかそういう感情があって、それが幸福感を増したり、減らしたりするわけですよね。

 そういう幸福感情というものを感情として捉えて、それが満たされる構造というか、感情がもたらすいろんなもの、感情の世界がありますので、感情を根底に置いた哲学みたいなものをやはり二十一世紀は見直していく必要があるのではないか、それは幸福の哲学に繋がると思いますね。

田辺:フロイトなんかのいう人間の欲望の構造とも関わってくることだと思うのですけれど、我々が、何か新しい携帯電話であるとか、プラズマ・ディスプレーのテレビであるとかいろんな新しい商品を欲しいと思いますね、それを買ったら満足だと思いますね。しかし買ってみたら、また次のものが欲しくなって、常に不満足であるという状況が自分の実感としてもあるわけですね。しかし消費しなければいけない。消費は善であると一方では広告から世界が反復強迫的に推奨され、そういう意識を持っているわけです。

 たくさんお金を持ち、物を持っている人はさぞかし幸福だろうと思うのですけれど、実際には、さあ本当に幸福かというと、それは非常に疑問なわけでして、では本当の幸福というのは、どういうあり方なのかということに、今非常にヒントをいただいたと思います。もう少し補足していただければありがたいと思います。

やすい:幸福論は不幸論と繋がっていると思います。やはり幸福というものは、ベンサムの量的功利主義だと特に特徴的なのですが、幸福も快楽の量が多ければ、それだけたくさん幸福であるというのですが、快楽というのは逆の苦痛というのを前提にして、苦痛があるからこそ快楽があるということがありますね。

 だから幸福というのも、やはりいろんな苦労や哀しみがありまして、そういうものと格闘しながら何か掴んでいくときに、幸福を感じる、味わうということがありますので、何か幸福な社会を作ればいいだとか、不幸にするような原因をなくせばいいということばっかりでは、これは幸福論としては不充分なのです。

 ですから我々は現実には様々な矛盾に満ちた苦しみや苦闘や様々な悪戦苦闘の人生を送っているわけで、そういう中にこそ幸福があるというようなものでないと、力にならないのです。そういう疎外というものの中で幸福をつかんでいくという視点が大切です。

 






 

 
             11価値論

田辺:幸福論と言った場合、人間にとって価値論が不即不離で切り離せないものとしてあると思うのですが、やすい先生の価値論をここでお話願いたいと思います。

やすい:人間商品論との関係で言いますと、人間存在が商品だとしますと、人間の本質が価値だということになります。そのときの価値というのは、何かというとその商品の持っている交換力というか、交換できる力なのです。その実体はというと、その商品に投下された労働量というものが、価格の標準としての価値になるわけです。

田辺:それは実体ですね、まさしく。

やすい:商品としてはそういうものが価値だということになるのですが、我々が生活しているうえでは、「価値」という言葉は全く別の意味で遣われています。精神的な価値だとか、かけがえのないものだとか、神聖なものだとか、そういうものをみんな価値に含めて考えているわけなのです。

 幸福論との関係で言いますと、幸せというものは、ベンサムなどの量的功利主義の考えでいきますと、価値がたくさん手に入った方が、交換力が大きければ大きいほど、幸せになれるわけなのです。

しかしそれはお金持ちはそれでいいわけなんですね、ところが大部分の人々は貧しいわけで、そうしますとあまり交換価値としての価値は手に入れることができないわけですよね。ですから窮乏感に苛まれることになりまして、たくさんの交換力を手に入れることが幸福だとしたら、不幸でしかないわけです。

そうすると貧しい人は不幸せであるということになってしまいます。それで大部分の人が貧しいとすれば、大部分の人は不幸であるということになるのですが、しかしやはり人間というものは自分を不幸としか思えないのは辛いですから、そういう貧しい生活の中にも、幸福を見出そうとするものです。

ですから、むしろ交換力というものをたくさん手に入れることが幸せとは限らないと、むしろそういうのに追われて我利我利亡者になってしまって、いろんな財宝を一杯持ち、ダイヤモンドを身にまとって、それで幸せかというと、そんなことは一つも幸せではないんだ、そんなことよりも家族が健康に暮らせたり、夫婦が仲がいいとか、親子関係がいいとか、いい友達がいるとか、まあそういうことが幸せなんだとか、あるいは宗教的に神様を素直に信じることができるのが幸せであるとか、まあそういうことになっていきますね。

つまり、元々、価値というものは交換力を意味しているものであったのですが、そういう交換力というのは真の価値ではなくて、むしろ交換できないもの、かけがえのないものに本当の価値があるのだ、というように価値概念が貧者のルサンチマンが無意識に働いて、変わってしまっているわけなのです。

 というのは「価値」という漢字をみれば一番よくわかりますが、交換力というのは、もともとの価値の語源になっています。

ところが交換力が全くないもの、つまり語源的には価値に含むことができないかけがえのなさ、崇高性などが価値に含まれるようになっているのです。

そういうことで哲学的価値論を研究している人々は、金持ちのお坊ちゃんが多いせいかもしれませんが、価値概念が貧者のルサンチマンで転倒した事情を全然考えません。

それで価値一般の定義は何かということで、色々苦労されているわけです。例えば「欲求充足手段が価値である」とか言っても、それなら「効用」ですから「価値」じゃないですね、それで矛盾に陥って、価値論とか価値哲学が全くナンセンスなものになっているということもあるわけです。

田辺:現在人間論と共に、哲学的な意味での幸福論というもの価値論というものに、新しいものが大変求められているということは、実感として私も非常に強く思うことであります。

ところで先程、価値の本来の意味合いで、それは交換価値であるということだったのですけども、交換価値というのは換言しますと、交換する権利の蓄積ですね、交換価値の蓄積というのは、つまり物を買うポジションとして物を買う権利を蓄積していくというわけで。

それで資本家は、守銭奴という古い言葉がありますが、ろくに食べる物も食べず、着る物も着ないで、欲しい物も買わず、ひたすら貨幣に執着して、交換する権利、交換価値を蓄積していくわけです。これは自分が死ぬまでやるわけです。

ここには一種の貨幣に対するフェティシズム(物神崇拝)があるいは倒錯というものが現れていると思います。

 マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で解明した資本家たちの致冨衝動も関連しますが、この貨幣に対するフェティシズムのよってきたるところ、あるいはその内容についてお話いただけますか。

やすい:貨幣のフェティシズムですが、結局人間は商品社会では交換力ということ、要するに他人の労働に対する支配権ということですね、他人の作った生産物の価値をより多く支配できることが幸せであるということですよね。

 そうするとそれは要するに貨幣というものによっていつでも買えるわけですから、貨幣自身がそういう力を持っているということで貨幣を貯め込むわけです。

 しかし貨幣をいくら持っているからといって、自分の欲望充足、つまりおいしいものを食べたり、豪華な服を着たり、世界旅行をしたりというのは、貯め込むことによってはできなくなってしまいますね。

 そこが疎外なのですが、要するに他人に対してこれだけ支配する力があるのだぞということだけだったら、別に貨幣だけでも示せるわけなのですね。ですから、欲望が結局、それだけ貧弱になって、他人に対する支配力の証明だけになってしまうのです。

具体的にどういう形で、他人の作った物を手に入れて、そこから自分の欲望を充足していくかということは、どうでもよくなってくるということです。

 そこで人間が結局、そういう価値を貯め込んで、より多くの価値を持てば、より多く幸せになるという考え方があって、それに囚われ過ぎたために欲望が逆に乏しくなってしまって、一面化することですが、抽象化してしまって、その豊かな内容というか、具体性を喪失していくということですね、これも大きな疎外です。

 具体性の喪失つまり抽象化ということがあります。それはマルクスの商品論の中の労働の二重性論で、具体的有用労働と抽象的人間労働という形で、労働を特徴付けています。つまり使用価値をつくる具体的有用労働と価値を形成する抽象的人間労働があると言います。

 その場合に、抽象的人間労働というのは、労働の具体性に関しては無関心という面がありますよね。だから労働というのは人間の自己実現なのですけれど、どう自己実現するかという具体性に無関心なのです。

ただ価値をどれだけか生み出して、他人の労働を支配できれば、それでいいというということになります。それでは自分が働くのはもう完全に犠牲でしかないので、できるだけ少なくしておこうと、それで他人の労働を搾取できれば一番手っ取り早いということになりますね。

 だから抽象的人間労働にも、私はそういう意味で、単なる学術的なタームであるだけではなくて、思想的な意味内容を見出すべきではないかなということを考えているわけなんです。そのことは修士論文の『労働概念の考察』に書きました。もう三十数年前になります。

田辺:本来的には交換価値としての貨幣というものは、自分の必要な欲望、あるいは有機的身体を健康に存続させて、幸福に暮らすためのインストルメンタル(道具)つまり手段です。エンドつまり目的ではないのですが、それが逆転してしまって、貨幣・交換価値を蓄積すること自体が、目的になってしまうというような倒錯性というものがあります。

 まあこう言ったからといって、みなさんに貯金をするなと言っているわけでもありませんし、お金を私にくれといっているわけでもありません。各それぞれ自分が幸せに暮らすための貯金の額というのは人によってそれぞれ違うでしょうし、それは大いにやっていただいて結構なんです。そういう話ではないのでありまして、そのところをご留意いただければ幸いだと思います。
             価値形態論


田辺:ここでは、本来の価値論についてもう少しお話をうかがいたいと思います。特にマルクスの『資本論』における「価値形態論」について先生のご見解をお聞かせいただきます。

やすい:価値形態論といいますと、布地であるリンネルと上着の関係でいいますと、リンネルが相対的価値形態、上着は等価形態にあたります。

リンネルは自分の価値を見出したいわけなので、それを何か別の上着というものに感じるわけなのです。そうすると上着はリンネルの価値を写す鏡になります。これを「価値鏡」と呼びます。24エルレのリンネルが1着に自分と等しい価値を感じるわけなのです。

 ということは24エルレのリンネルに投下された労働と等しい労働を上着の中に価値実体としてはあるのではないかということですね。

そういうことなのですが、私が問題にしていることはと言いますと、マルクスは上着の価値というものと上着を峻別しているということなのです。

 ということはリンネルは上着に自分の価値を見出すので、上着はリンネルの価値鏡なのですが、上着自身の価値というのは、上着とは別に上着に含まれているのですが、上着を作った労働の抽象的人間労働の面が上着にガレルテとして付着している、そこに上着の価値があるということです。

 しかしリンネルの側から見ますと、上着の価値と上着が区別がつかないわけで、一見同じなわけです。それで上着と上着の価値が同じに見えるから、それでリンネルが自分と等しい価値があると見出すわけです。

 それで価値鏡になるのですが、結局何が言いたいかと言いますと、マルクスの捉え方なのですが、要するに価値と価値を含んでいる生産物とは別だということなのです。

 それがどうして生産物が価値と同じに見えるのかということが問題です。そこでマルクスは価値が付着しているという考え方をしていることが分かったのです。

 じゃあ価値はどこにあるのかといいますと、使用価値にくっついているのです。それはマルクスが使用価値と価値を峻別していることと関連しているわけです。

 使用価値は超歴史的な概念だけれど、価値は歴史的な概念なのです。生産物は例えば上着ですが、上着は使用価値ですね。そこで上着そのものには価値は入っていないと見なすわけです。

 それで価値というのは、社会関係とか労働関係が投映して、そこにくっついているものなのだというように考えるわけなのです。

 何時間かの労働が上着に憑いているのが価値なのだということです。それはどうして付着するのかということですが、それは社会関係の中にあれば、社会関係から規定され、刻印されてという形で付着しているものなんだというわけです。

 そこでマルクスは「価値は抽象的人間労働のガレルテだ」と表現しているのです。それで「ガレルテ」というのが抽象的人間労働が固まってそこに付着しているということを表しているわけです。

田辺:通常我々の見方ですと、一着の上着があった場合、その生産物は使用価値であると同時に価値でもあるともみなすわけですけれども、しかしマルクスは「価値は抽象的人間労働のガレルテである」といったのでしょう。

 ガレルテはこれは膠着物の意味だといまご説明があったのですが、膠着物である以上、価値はくっついたり、離れたりするわけで、その商品そのものとは別なわけですね。しかしながら実際は同一視されてしまうわけで、そこにいわゆるそういう同一視をする事自体が、倒錯的でフェティシズム(物神崇拝)的であるいうような議論の流れだと捉えてよろしいでしょうか。

やすい:そこが私が『資本論』を研究していまして一番ビックリしたところなのですが、日本語訳の『資本論』では「凝結」とか「凝固」になっていまして「ガレルテ」とは書いていません。

 向坂逸郎さんの訳だけ「膠状質」という訳なのです。これは「ガレルテ」の直訳になっていますが、そのことの意味を特別論じられていないと思います。私が読んでいないだけかもしれませんが。

 私は何故「ガレルテ」という言葉をわざわざ遣ったのか気になったのです。「ガレルテ」は「膠が溶けてくっついて固まった状態」なのです。

 抽象的人間労働は流動状態とかいうことで捉えておりまして、労働している間はまだできていないわけです。ガレルテになると凝固するわけなのです。凝固して、それが膠として付着しているという状態です。だから価値は使用価値、生産物に付着するという表現もありますし、刻印するという表現もありますが。

 マルクスは何故労働の二重性を強調するかといいますと、それは別のものを作る労働なのだということです。使用価値を作るのが具体的有用労働で、価値を作るのが抽象的人間労働なのです。

 同じ労働が二面性を持つので「労働の二重性」なのですが、商品を説明する場合に、価値の面は抽象的人間労働が作って、具体的有用労働は使用価値を作った。後者は超歴史的である。価値を作るのは商品経済、価値生産の経済においてだけである。

 そこにおいては労働は抽象的人間労働の側面を持ち、価値になって、それが生産物に付着しているとなります。それで生産物自身は使用価値であって、価値ではないということです。価値ではないのだけれども価値実体がくっついているので区別ができないのです。

 特に抽象的人間労働は、労働を抽象していますから、具体性がなくなっているわけなのです。だからいろんな労働があるのだけれど、無色透明になっていると考えてもらえば分かりやすいのですが、くっついていてもそれが分からないわけです。

 見えるのは具体的な有用物、物でしかないから、価値そのもの別の物には見えないので、むしろ生産物が価値に見えるわけです。それで生産物は価値鏡になったりできるわけなのです。皆も生産物が商品であり。価値の現れであると思って、それで価値物として交換されたりできるわけです。

 ところがマルクスは、それは実は違うのだと、このカメラというのは価値ではないのだというのです。カメラなんだというわけです。だから共産主義になれば、カメラに価値などないのだということです。もちろん市場経済の中では価値を付着して価値として現れるけれど、生産物そのものは全く価値はない。ないのだけれど価値が付着しているから、価値として見なされて、取引されるのだと捉えているということになるわけです。

田辺:非常に素朴な質問をさせていただきたいと思います。私が新車の車を買ったと致します。ドライブにいったり、買い物にいったり、友達と遊んだりするとき使用価値ですね。この新車の車を売って、別の車を買うというような場合は、交換価値としての側面が出てくるわけですね。

 ところで使用価値も時間がたつとともに摩滅していくわけですね。例えば車でしたら、だんだんとタイヤが交換しなければいけなくなって、エンジンとかもかからなくって、故障がでてきたりとかするわけです。

 で、交換価値のほうも、これはニューモデルがでたり、走行距離が長くなったりした場合には、交換価値もドンドンドンドンと減っていきます。素朴な意識から言いまして、使用価値の逓減と交換価値の逓減というのは、平行するとは申しませんけれど,やはりどちらも摩滅するものであるというイメージがあるのです。その点は、どこか考えが間違っているところありますか。

やすい:使用価値が価値に見えるわけです。価値が付着している。つまり「抽象的人間労働の凝固物」が付着していますからね。だから使用価値の摩滅は当然価値の摩滅に見えるわけです。

 ですけど労働そのものは吸収してきた労働量そのものは変りがないわけですね。そういう意味では価値は変っていないはずです。でも価値というのは、ある意味、交換の場において評価されるわけですから、ですから労働としての価値量は変っていないけれど、その価値評価はまた市場が決定することです。ですから労働時間に変りがなくても、使用価値の摩滅によって、それに伴っていた価値も当然それだけ減ったと見なされて、取引されても当然なわけです。

田辺:それじゃあ、先程、使用価値は超歴史的だといわれたのは、個々の生産物において使用価値が摩滅しないということを意味していたのではないわけですね。

やすい:それは全然違いますね。使用価値というのは、例えばこれが茶碗であるということは、商品経済でなくなった場合でも、原始共同体においてもこれは茶碗だし、将来の共産主義においてもこれは茶碗だという意味では使用価値は変らないけれども、交換価値というのは商品経済ではこれは一万円だけれど、共産主義になれば価格はつかないという意味で歴史的だということです。

田辺:大変よく分かりました。マルクスの場合、労働価値説をとりますから価値というものは、労働時間に比例しまして実体としてあるということになります。

 一方で廣松氏の考えもそうですが、実体として商品に価値が内在しているのではないのだ、交換された後に事後的に価値があったかのように構成される論があります。この二つの捉え方は大変違ったものなのですが、やすい先生は、マルクスが実際言いたかったことを含めまして、お話いただけたらと思います。

やすい:マルクスの場合は、投下労働量これはリカードを継承して、価値というのは投下労働量なのだということです。『資本論』の叙述はそうなっているのですが、現実に商品が交換される時点で、交換されたの商品お互いは、等しい価値であったということになります。

 それが具体的には時計で測った労働時間がたとえかなり違っていても、交換されることがあります。といいますのは、市場では生産現場で投下された労働量がはっきり分かっているわけではありません。そうしますと、実際に交換されるのは、これからその商品を作るのにどれだけの労働時間がかかるかによって、決まっているのではないかという解釈を廣松さんなんかは、『資本論の哲学』(勁草書房)でされたのです。

 そこでは、価値というのは、これからもう一つ再生産する場合に必要な労働量が価値として機能しているのだというように見なされまして、価値をそういう生産関係に還元されて捉えた方がいいのじゃないか、それがマルクスの真意だったというような解釈があったわけなのですよ。

 それは『資本論』の叙述がそうなっているというのではなくて、廣松さんの見解としてそういうように解釈できるということなのですが、この解釈は無理があります。この批判は拙著『広松渉『資本論の哲学』批判』(経済哲学研究会刊)に詳しく論じてあります。このホームページにも収録していますのでご参照ください。

 市場に出回っている商品がどのように交換されるかという問題と、それからどれだけ労働が費やされていたかという価値の原理とは別なのです。マルクスは結局、一時間で作った物が二時間で作った物が交換されたら、二時間で作った人は二倍働かなければならない、損をするから労働力が移動する傾向にあるので、等労働量は等価値として働くということを言っているわけなのです。当然価値を論じる場合には、投下労働量で論じているわけなのです。

 ですからこれから再生産する場合に必要な労働量が交換基準になるというようなことは論じていません。それに現実にも出回っている商品の数量他そういう需要供給の関係で価格というのは形成されるわけで、そこは価値つまり投下労働量とはずれるわけなのです。

 その結果、廣松さんが考えたような、これから再生産するに必要な労働時間に近づくとは思いますが、しかしながらこれから生産するに必要な労働時間というもが、現実の交換の時点で、分かっているわけではありません。

 それがどのような影響を与えるかということは、実際には経済学的に言えないことですから、それが価格標準としての価値を決定しているということも現実にはありません。論理としてはなかなかしっかりしていると思いますが。しかしこれは間違いであると思いますね。

田辺:ここで一度用語の整理として、初歩的なところでありますが、価値と価格と使用価値のそれぞれの概念についてもう一度説明していただけますか。

やすい:マルクスに従っていいますと、商品が二つの価値を持っているという場合に、使用価値と交換価値を持っているというのです。使用価値というのは生産物それ自身のことでありまして、ですから生産物それ自身が持っている効用が使用価値にあたるわけです。

 交換価値というのは市場においてどれだけの他の商品と交換できる値打ちがあるかということを表しています。それが現実化すれば価格として実現するわけです。

 それでその交換価値はどうして生じたのかということを論じるときに、それは価値に基づいているというのです。

 その価値というのは、実体的にはなにかというと、それは投下された労働量であるというのがマルクスの考え方で、それが含まれているので交換価値があるのだということです。

 ただし含まれているという場合に、マルクスの場合は生産物そのものが価値を持っているのではなくて、生産物は価値ではなのだということで、含まれているという事は結局価値が付着しているという先ほどのガレルテ論になるわけです。ですから抽象的人間労働のガレルテが付着していて、それがどれだけ付着しているかで価値量が決まってきまして、それに基づいて交換価値が生れるということです。

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