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唯識論コミュの瑜伽行唯識から密教へ

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今回、この密教への転換を為した唯識仏教が、アーガマ(原始仏教)とは違った密教という変化をしていった


経緯に目を向け、如来の智恵の転回がどのように密教へと移り変わったのかを見つめ、成仏論の地図と、


修行の意味を見つめたいと思います。



密教の成立が、ヒンドゥー教の勢力に押されて仏教も密教化したという勘違いをしている人もいらっしゃるかもしれません。  実際にはアビダルマ仏教と中観仏教における業煩悩論から展開した理論に裏打ちされた識のの転変されたものから発展してきたものです。

 アビダルマ仏教の業煩悩論は、『倶舎論(アビダルマ・コーシャ)』に代表される心所法に基づいていますが、『倶舎論(アビダルマ・コーシャ)』の作者は、世親(ヴァスバンドゥ)ですから、唯識も同時に含まれることになります。 四智及び五智は修道論に関わりますが、その辺は行の話と不可分になります。


コメント(18)

密教と言うのは一つの総合仏教であるので、唯識(瑜伽行派)から密教へと変化変化したものと捉えるなら、完全な片手落ちになってしまいます。

 どうやったら悟れるか?
 どうすれば「仏」になれるかを突き詰めたのが「成仏論」になりますが、成仏論は直ぐに、実践、つまり止観の修習に繋がります。


扱う範疇が大きいので、問題提起していただけると助かります。
そうじゃないと何を書くのか迷ってしまいます。

止観を、単なる瞑想と見て、深い自己洞察と考えるのか?阿頼耶識を自覚しそこに到達する手段なのか?また末那識を客体と見る修行なのか。全てを含み内観するだけか?四分で弁証をするのか?三宝を一体としていく修行なのか。又全てを消し去るのか。又全ては絶え間なくあることに解放するのか?

座禅をして心を静かにするのではなく、武当派の瞑想太極拳のように心を動かしながら広げていくのか。

私は止観を、止めることと、観ることを、不二として考えています。
止観不二は、以上に述べたようなことを囚われないで含むものではないかと思います。

止はただ阿頼耶識に止まる。観はそこから、三千世界に分身を飛び交わして全てを観てくるものと考えています。如来の世界から世俗の果てまでです。

止は阿頼耶識を受け入れてそこに定して止(とど)まるということでしょう。
止まれば、阿頼耶識にある多くの観念が自らの周りにうごめきますが、末那識さえ客体として見え始めます。そこから手を伸ばして(分身を派生して)、自らが定まっていた主体と、分身が観てきた客体を一体であることを経験するのが止観だと思います。

すなわち、心は静かでもなく、動いているのではなく、ただ一つのものとして全体として有る。又は無いという、実体を味わう場所であると思います。

このように、あらゆる世界を三昧に通じてこそ、止観というものと思います。

私はもう座禅を長らくしていませんが、歩きながら、又、何かをしながらでも、止観ができるという考えを持っています。

たぶん、定が動くはずのない一つの処にあるのであろうと、そしてそこから全てを観ているのだろうと、自覚してみるとそう思います。

修行の意味は、釈迦が生きていた頃に、自ら経験していた人間的な行の中での止観のように、歩き、働き、生きていく日常の中での止観を行っていくことではないでしょうか。

原始仏教はとても人間的であり、又、躍動的であり、その時に釈迦といっしょにいないと、拈華微笑に到底到達できないものですが、そこに行こうとするととても、観念的になってきます。ですから、多くの宗派や思想を生んでいくのでしょう。

しかし、私たちは釈迦と同じ人間ですから、そこに唯識という素晴らしいものがあるのです。密教も成仏論も、各論であったり、総論であってとしても、所詮眼横鼻直です。

修行の意味はこの刹那に生存する、そして時空を超えて存在する私(全体)のありのままを受け入れるだけの事だと思います。

このように私は思っています。
私は、不勉強で、顕教と密教の違いが良く判っていません。

二つの違いや、同じ点などお教えいただけると嬉しいです。
顕教と密教の同じ点は仏教であること。違いは秘密があることと無いことです。

なぜ秘密を持っているか、本当に秘密だったのか。本当に秘密はなかったのか、なぜ秘密がないと言ったのか?深く考察していくと面白いですが、企業や政治を考察している方が秘密については面白いです。

ただその違いにより、独自性が生まれていることは確かです。その狙いがあることも確かでしょう。

私ももっと深い何らかの違いがあるのなら、知ってみたいです。
よろしくお願いします。
石田さん  ZEROさん





 密教は総合仏教の側面があって、色んな角度から対象を吟味します。


経量部の学説である、「知識の自己認識」を認め、刹那滅論を展開するのは、唯識も同じで、経量部と唯識の違いは、外界の存在を認めるか、否かという問題だけなのです。 外界の存在をどの様に知覚するか・・・

これによって生じる認識の違いも出てきます。
基根によって生じる認識の違いもあります。

同じ教えを聞いた人達が、基根によって様々な解釈の違いを見せる事があるのは、当然のことでしょう。
インドではイスラムの侵攻とインド国内のナショナリズムの台頭によって、インド仏教は衰滅してしまうのですが、それまでに流行っていた成就法は、性的な現代では問題のあるやり方が主流だったのです。

そういうのを無上ヨーガという特別の瞑想法を行なうのですが、このやり方は、誤解しか生まないので、広めることを諌めたのです。  つまり秘密にしたのです。

弘法大師空海が持ち帰った密教は、密教の中でも中期に広まった教えで、『理趣経』に納められていますが、セックスも菩薩の境地であると記述が在るんですけど、これは、理解するのが容易ではない。
 最澄が空海に密教を教わりたいと頼むのですが、空海は、エリートの最澄には理解できないであろうと、教えませんでした。  実際は最澄のお弟子さんが学のですが、あの最澄でも理解する事が出来ないのだから、一般人なら尚更だと思うのも無理はありません。  こんなことで、秘密の教えが出来てきます。

同じ言葉でも、聞いている人の基根によって受け止め方が違うなんて良くあるとです。

唯識の逸話の中には、多いのですが、例えば、「一水四見」といった、一つの水溜りを見て、見ている有情のカルマによって見え方が違うと言うのは、有名な話です。

神々には美しい宝石に見え、
餓鬼の住人には、炎や膿に見え
人間には水溜りに見え、
魚には住みかに見えます。


外界の対象を認識するのは業(カルマ)であり、認識する対象の形象はカルマによって見え方が違うという問題があるのです。  一般的なことで言うなら、私たちの認識は、「行(意思作用)」によって見え方は違います。 「行」と言うのは、中村元先生に拠ると、「経験の構成」と言う言葉を訳語に充てられましたが、これは記憶ではなく、記憶になる前には、イメージ作用が生起するのですけど、イメージ作用が生起する前の、刹那の瞬間の印象のことで、好悪の認識に基づいていて、この「行」が、欲求を生むので、意志作用と訳されていました。


話は脱線しましたが、この様に人によって認識の違いがあるので、誤解を生みそうなものは秘密になります。
日本には伝わりませんでしたが、後期密教は、身体論や深い禅定体験に基づいています。
仙道やヨーガに合い通じる身体論も持っていて、それ自体が理解できる人もいるけど、出来ない人も居るのは実際のところです。

しかし、基本的な教えは、顕教と同じもしくは、同じものが教えになっています。 勿論、顕教とはまるで違う教えもあります。  特に後期密教の教えは日本には入って来てませんから、難しいところです。
私の理解は「言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だから」密教というくらいなんです。
石田さん

 そうですね、
>言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという・・・

 ここに石田さんが言われているのは、勝義諦のことで、密教という教えとは少し違うと思うんです。
密教は教えは、方法論の問題があって、私たちの知覚は、思考の誤謬と錯覚が入らない限り、間違いは無いという量論という唯識の知覚認識論に基づいて、現量(直接知覚)には誤りは無いと言う視点で取り組むのです。 

 昔から、密教の導師達は、知覚の神秘性が前面に出てしまうので、裏付けになる仏教理論の証明を細かくやっています。 密教家の方が理論に精通しているのです。  知覚において、常識離れしてしまうので、それを必要としたのでしょう。

カルマ・ランジュンさん、ありがとうございます。

「現量には誤りは無いという視点で取り組むんですね。

ちと了解です。
弥勒の五法という五つの論書があります。


『現観荘厳論』、『荘厳経論』、『中辺分別論』、『法法性分別論』、『究竟論』の五つから成る弥勒菩薩の説とする論書群があります。


『現観荘厳論』は中観派の二諦説が中心になっていて、『荘厳経論』、『中辺分別論』、『法法性分別論』の三つは、全ての大乗教典意図を解説し、特に唯識の「三性説」が中心の教えです。
そして最期の『究竟論』は、中観の二諦説と唯識の三性説とも矛盾せずに『如来蔵経』を中心にした教えです。

『現観荘厳論』以外は、アサンガとヴァスバンドゥ兄弟が著作されましおたが、『現観荘厳論』だけは、世親の四大弟子の一人、アールヤ・ヴィムキティセーナが、『二万五千頌般若経』を八章に噛み砕いて、書かれた教えです。



知識として、前の刹那は既に原因になっており、後の刹那に起こった結果があり、その今の刹那が縁であると自己認識して、その自体である現刹那が原因となり消滅していくという、生起と消滅は、知識というものの対象が外界であるので、その外界の知覚という部分で認識の違いがあるのは、もともと知覚自体が認識されるものであるのでその人のカルマ、経験認識、知識の自己認識によって違うのは当然だと思います。

 しかし、密教はそのような違いを超えて、同じ知覚を得ようとする世界を求めるため、その知覚はカルマによって千差万別であるのであるから、その知覚を得ないとわからない概念が多いというところで、その知覚と概念の整合性を教えとして述べるときに、その知覚を得たとされるものは、根本的なことを理解していないといけないという筋道でしょう。

 もちろん根本的な概念さえ宗派においては違いがあります。

 ですから、高度な修行を経てから、法が明らかにされるというところなのでしょう。

 それだけではなく、密教を広めるための方便も、又、独自性や、神秘性の付加価値などの戦略的側面が、その知覚を共有するという密教のコンセプトと適合したのであることも見逃せません。

 又、ヨーガもそうでしょうが、武当派の太極拳に伝わる内丹仙術などもそうです。
 とても誤解を生む法や修行が多いのですが、修行によって知覚を得たもの、知識を自己認識できたものは、同じ解釈を持てると考えています。
 これが、私は観自在であるとも考えます。知覚を無尽蔵と考えます。無尽蔵は無知覚でもあり、無の概念に通じます。
 密教は、その無の概念の世界は現実であり、その現実を知覚するには、密教の修行と共に、その現実に立ち戻り、それから真言を聞くことができると考えています。
 私は、このような少し凡夫に対してあきらめのかけらも見えるような、又、逆に、完全な妥協のない正直な教え(真言)を述べたいという感覚も密教から見て取れます。

 陰陽和合という太極の完成に、男女の精神と肉体の融合は、還虚の寸前にやってくる太極飽和の世界を創世する修行として、内丹仙術では最高の修行です。私にはその修行の課程や成果が最高の内丹と止観になっています。

 太極内丹では、絶えず、男女が愛し合って性行為をすることは、たとえひとときの、又、一期一会の間であっても高位な修行としています。根幹にある思想は、密教の根幹にあるタントラに象徴される、経験と知覚、知覚からの知識の自己認識を、最高の融合位にて得ることが真言という言葉に表せない事を知ることになるという考えと同じです。
 般若心経の最後の真言(マントラ)にあるように、高まりと融合が描かれています。
 このような、実際の性行為が内丹にもあるような知識の自己認識を得る最も効果的な方法としていたのですが、一般的に受け入れらにくい、多くの誤解を生むようなものであるため、密教として有る一定のレベルまで修行したものに、このような修行に関わる法を説いていこうとしたのだとは思いますが、まだまだ深い考察は面白そうですが、真実は知りませんので、これぐらいにしておきます。
 ただ、私自身の思想は、密教の歩みに共時性のようなものを持っているので、とても興味深いものです。顕教は深めていくと、密教の秘密部分と同じようなものを持っているのですが、そこの部分は、逆にオブラートや方便に包みながら、あからさまにしていると考えることもできます。
 ですから、密教と顕教は何も違うことはないが、方法論が違うというところではないでしょうか。

私はこのように思っています。
ZEROさん

 密教の見解と、顕教の見解は、修道の違いによる物で、これを混同しては、混乱してしまします。

 教えの見解には、ナーガールジュナ(龍樹)の二諦説(勝義諦と世俗諦)という、二種の真理に対する見解があります。 これは最高真実の第一義諦と言語習慣による縁起による真実です。
まず、これが見解に対する一つの見方。

 もう一方では、インド仏教史上最高度に発達した見解の書、『タットバ・サングラハ(Tattva-Sangraha)(真理要集)』の存在です。 これは総てのインド哲学を網羅し、シャーンタラクシタ(寂護)が著したもので、8世紀のインドの仏僧・大論師( 725?784ころ)。 インドのナーランダー大僧院(Nalanda Monastery)の長老。
 このシャーンタラクシタと弟子のカマラシーラ(蓮華戒)によって、インド仏教は本格的にチベットに輸入されました。  このシャーンタラクシタの用いる論証法が、「離一多証因」という視点で論じられています。
 これは、『中観荘厳論』という論書にあるのですが、シャーンタラクシタの理論は難解な為に、浸透するには至りませんでした。

 シャーンタラクシタは、瑜伽行中観派と位置付けられているのですが、中観派の歴史の中でも最も思想的に発展した部類に属すると目されています。 このシャーンタラクシタは「菩薩」と呼ばれ、尊敬されていました。  彼の理論は、中観、唯識、アビダルマ、因明を網羅し、インドの六派哲学の教学を引用し、当時の総ての哲学を網羅した大哲学書になっていたのです。

しかし、理論においては、これは顕教に属し、密教の意味を包括していても、この学びは顕教なのです。

ZEROさんが指摘してくれている刹那滅の理論は、アビダルマの理論。 経験・知識・知覚論においては因明の中に網羅されています。 殆ど唯識の範疇です。  真言乗には、九乗説があって、ヨーガタントラまでの教えしか日本には入ってなくて、無上ヨーガ以降の教えは入って来ていないのです。
空海で最期で、それ以降発達した後期密教の教えは日本には無いのです。

ZEROさんの仰る性行為の修行は、インドのタントリズムにあって、性力(Cakti)崇拝にあり、それとは違って、チベット医学や、アーユルヴェーダから性と意識の関係を説く学説が展開し、後期密教では、グヒヤサマサージャ(秘密集会)を始めとする、修道法が開発されてきて、父タントラ、母タントラ、不二タントラが密教の教えとして流行したのです。

ZEROさんも仰る様に、方法論の違いは修道論の違いになり、見解の違いを生み出します。



石田さん

ホント、僕も難しい世界を前にすると一体自分は何のためにそこに足を踏み入れようとしているのか、あるいは踏破しようとしているのか、迷子になりそうな感覚に襲われます

そんな時、僕は歩むべき基本線をいつでも思い出すようにして脇道で本当の迷子にならないように気を付けます

幸せになるためにブッダの教えを学ぼうとしている

自分ひとりの幸せだけをおもんぱかって周りの人たちの幸せをかえりみない独善に陥らないように、この世のすべてのものが幸せになる道を考えている

自分と他者とこの世のすべてが幸せになる尊い道を歩かせていただこうと決心したのだ

この道から決して外れないように精進してゆかなければならない

この世界の危機を救うために清らかなお仕事の一端を引き受け、一所懸命取り組ませていただかなければならない

そういう人生を歩かせていただけることは何て幸せなことだろう



石田さん

78910さんの言われているように、密教といえも大乗仏教(菩薩乗)ですから、菩として生きるという志があれば、難解な教えも、何れ自分を不可分のものになるでしょう。

それぞれが、置かれた立場で、自分にできる事を見据え、奮闘努力して行くしかないんでしょうね。


アティーシャが仏教をチベットに伝える際にも膨大な仏教の教えの海で人々がただ右も左もわからなくなって迷ってしまうことのないようにとても有り難い道しるべをその温かな慈愛から示して下さいました

チベットの人たちはアティーシャによって示されたこの尊い道しるべに従って真摯に仏教の学びを相承して来て下さいました

その教えが広大であればあるほど、それを学ぶ僕たちは常に最も大事なことを思い出す努力が必要となりますね
皆さん、有り難いお言葉を有難うございます。

宜しくお願いいたします。
[008]においてカルマ・ランジュンさんが直接知覚(直観)の問題に言及されていますが、

ナーガールジュナ師(およびそのチャンドラキールティ師による注釈)は『六十頌如理論』において、
「涅槃はどのようなものとして誰によってどのように直接知覚(直観)されるのか?」
というややっこしい問題をとても面白く論証していますね

そのややっこしい論証を根気強くたどりながら自らの思考を組み直すことは、それ自体有益な瞑想の入口だと思います

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