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唯識論コミュの龍樹に訊く

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「唯識とはなんですか。」

「唯識とは―唯識所変―というのが正しい言い方で、これを読み下すと、―唯、識によって変じだされた所のもの―となります。つまり、我々の識(心)こそがすべてを創造し、決定しているということを言っているのです。」

「唯識とはその字のとおり、唯識のみということであり、識の外には何も実在しない、ということであり、それを、あたかも実在しているように思うのは妄想にすぎないということなのですね。」

「そのとおりです。識があるのみで、それ以外は妄想なのです。唯識とは、自己およびこの世界の諸事物はわれわれの認識の表象にすぎず、認識以外の事物の実在しないことをいうのです。『十地経』に『この三界は心よりなるものにすぎない』といわれるように、われわれに認識されている世界は自己の認識の内なるものであり、他方、自己の認識の外にあるものをわれわれは知ることができないのですから、世界とは自己の認識の世界にほかならないことになります。 このことを自覚することこそが仏道修行の目的です。つまり、すべてが妄想なのですから、それらを実在だとして追い求める欲望に悩む煩悩も妄想なのだと気付くことがさとりの第一歩です。これに気付けば、煩悩もたちどころに消えて、涅槃の世界へまっしぐらです。」

「唯識論を現代的にわかりやすく解説してください。」

「では、六識から説明しましょう。六識というのはサンスクリット語シャッド・ビジュニャーナの訳で眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六種の認識のことです。色形と目とによって視覚(眼識)が生じるように、色、声、香、味、触(可触物)、法(考えられるもの)という六境(六種の対象)と、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(一瞬間前の識)という六根(六種の認識器官)とによって視覚、聴覚 、嗅覚、味覚、触覚、思惟が生じ、この六種の認識を六識といいます。意識、すなわち、思惟作用は概念的認識であるとともに、視覚ないし触覚という前五識に参与し、統覚としての作用をも持つものです。
 この六識の奥にさらに、第七識の末那識(まなしき)、第八識の阿頼耶識(あらやしき)というのがあります。」

「末那識、阿頼耶識について教えてください。」

「末那識(まなしき)とは、インド仏教の唯識論で主張された重要な用語です。末那はサンスクリット語のマナスの音写で、唯識論では、感覚器官に基づく五識と、それを推理判断する意識との計六つの識のほかに、その背後で絶えず働いている自我意識の存在を認め、これをマナス(思い量る意)もしくはクリシュタ・マナス(染汚の意)とよんでいます。これは、さらにその深層に存在すると考えられた第八識の阿頼耶識(あらやしき)を対象として、それを自我であると思い込む意識です。それが玄奘訳を介して末那識、あるいは第七識として中国や日本に伝えられ、仏教的認識論に重要な役割を果たしています。
阿頼耶(あらや)識(しき)は、サンスクリット語でアーラヤ・ビジュニャーナといいます。アーラヤは住所、ビジュニャーナは認識の意味で、仏教の瑜伽行唯識学派(単に瑜伽行派または唯識学派ともいわれ、中国と日本では法相宗とよばれる)のたてる根源的認識のことです。この学派は、眼、耳、鼻、舌、身、意による六認識と、阿頼耶識を自我と誤認する自己執着である末那識と、阿頼耶識との八識をたてています。前七識が表層的、意識的であるのに対し、阿頼耶識は深層心理的、無意識的な認識です。阿頼耶識は、前七識とその表象、つまり、自我意識、意識ある存在者、自然などのあらゆる認識表象を生み出すとともに、それらの表象の印象を自己のうちに蓄えるから、種子に例えられます。
阿頼耶識は種子として刻々に変化しながら成長し、成熟すると、世界のあらゆる現象を生み出し、その果実としての印象を種子として自己のなかに潜在化していきます。ですから、世界は外的な実在ではなく、阿頼耶識から来た個体の認識表象であるのです。」

「精神分析学では、無意識とか潜在意識が存在するとしていますが、 末那識、阿頼耶識はそれによく似たものですか。」

「そうです。人間の心を無意識の底の底までつきつめていくと、最後に突き当たるものは我執(自我にこだわる心)です。六識が働き得ない奥の奥まで行っても、我執だけはあるのです。この我にこだわる心は、寝ても覚めても、無意識の中ででも、すべてを支配して蠢いているのです。この我執の本体を、唯識では末那識と呼んでいます。
 そして、末那識のさらに奥に、阿頼耶識という識があります。
 阿頼耶識は、生命存在の中枢であり、我よりもさらにその根底にある本質に執着します。この阿頼耶識の認識発見が唯識論の最重要事項目であるのです。」

「阿頼耶識についてもう少しお話ください。」

「人間が行動(現行)を起こすと、その何らかの痕跡が残ります。それを唯識では、一切の現象・事物となって現れ出るべき可能力を植物の種にたとえて、種子(しゅうじ)といいます。この種子は阿頼耶識の中に残って蓄積されます。これは、すべての経験は潜在意識の中に残るという精神分析学の考え方と同様で、過去のすべての経験は顕在的記憶の中にはなにも残らず、思い出すことが出来なくても、潜在意識の記憶になって、すべて蓄積されているのです。
 この蓄積を唯識では熏習(くんじゅう)といいます。熏習とは、香りが衣服などに移り付くように、あるものが習慣的に働きかけることにより、他のものに影響・作用を植えつけることです。つまり、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることをいうのです。これを『現行の種子(しゅうじ)は阿頼耶(あらや)識(しき)に熏習(くんじゅう)される』といいます。例えば、善行を積めばその善行(現行)にみあった善い種子が熏習され、熏習された善い種子は芽を出し花咲いて善い現行を生みます。ここで生まれた善い現行は、さらに善い種子を熏習し、熏習した善い種子は、芽を出し花咲いて、善い現行を生むということを繰り返すのです。」

「それでは逆に、悪い現行は悪い種子を熏習するのですか。」

「そうです。悪い現行は悪い種子を熏習し、悪い現行と悪い種子とが、互いに、原因となり、結果となって、生み生まれる連鎖を繰り返すのです。そして、現行は、単に外面的行為だけでなく、その行為をなさしめた内面の心理的動機や、その結果生じた心理状態をも含みます。ですから、現行の善し悪しにかかわらず、一切の行為、あらゆる心の状態が熏習されて、阿頼耶識の中の深層無意識の記憶としての種子となって残るのです。そして、この種子は、自己の性質そのままの現行を生む力がありますから、原因としての種子の善し悪しによって、その結果として現れる現行の善し悪しも決まっているのです。」

「悪い現行によって悪い種子を熏習してしまったら悲劇ですね。」

「現行から阿頼耶識に熏習された種子は、生まれてからの種子だけにとどまらず、遺伝子情報も種子の一種ですから、生命発祥の古の昔から、親から子へと代々受け継がれた種子もあります。
すなわち、天地開闢の頃からの、膨大な記憶が、阿頼耶識に熏習された種子として蓄積されていることになります。ですから、現在の当代において熏習された種子は、それを原因として発現する現行となるには、その種子が発芽して実を結ぶ条件の必要十分な成熟度の閾値に達しないことが多いので、当代においてはそれほど悲劇的に考えることもないでしょう。」

「現在、病気とか、一般的に不幸と言える状況の中に居る人は、かつての悪い現行が熏習された悪い種子が発現した結果の中に居るのでしょうか。」

「唯識の理論からいけばそうなります。」

「現在の悪い現行(例えば病気)の悪い種子は阿頼耶識に熏習されて、さらに悪い現行が発現し、それがまた悪い種子を熏習するというのを繰り返すのでしょうか。」

「そうなるでしょう。」

「その繰り返しの中から抜け出す道はないのでしょうか。」

「あります。それは般若心経に言うところの『照見五蘊皆空』というさとりを得ることです。」

「この場合の、『照見五蘊皆空』というさとりとはなんですか。」

「唯識の説明として、あたかも現行、種子、熏習、末那識、阿頼耶識というようなものが実体として存在するような言い回しをしてきましたが、それらを皆空だと照見すること、実在するものは何もなく、すべては空であり、一切は刹那、刹那に生生流転、生滅を繰り返して、行く川の流れの如く、無常であるということのさとりです。」

「阿頼耶識も空であり、無常なのですか。」

「そうです。すでに述(の)べたように、阿頼耶識は生命存在の中枢であり、我よりもさらにその根底にある本質的生命に執着し、すがりつく心です。しかし、実在するものは何もなく、すべては空であり、一切は刹那に生生流転、生滅を繰り返して、行く川の流れの如く、無常であれば、すがりつく術がありません。そこで、空であり無常ではあるが、無常を見つめる心をわずかでも持っていそうに思われる認識野を阿頼耶識と名づけ、これこそが『我』であるとしてしがみつくのです。そういう心である阿頼耶識の、ある一部を末那識といい、この末那識が実在しない『我』を実在すると錯覚して、あくまでもこれにしがみつくという構図になっているのです。」

「『五蘊皆空』のさとりを完全には照見出来なくても、悪い種子を熏習し、悪い現行が発現するという繰り返しの中から抜け出す道はありませんか。」

「ないこともありません。」

「どうすればいいのですか。」

「悪い種子を発芽させないことです。」

「悪い種子を発芽させないためにはどうすればいいのですか。」

「例えば病気の場合、それは悪い種子が花開いて病気という悪い現行の真っ只中にあるわけです。その現行が成熟して種子を作る前の、まだ、青いうちに刈り取って、次の種子が実らない様にすれば良いのです。」

「悪い現行が成熟して悪い種子となる前の、まだ、青いうちに刈り取ってしまうには、具体的にどうすればいいのでしょうか。」

「病や悪い出来事などは、悪い種子が芽を出し、花開いた状態であるので、そのまま、悪い種子が芽を出し、花開くという目的を果たし終えた段階で完結したものという認識を持てばいいのです。」

「病という悪い現行は、悪い種子が芽を出し、花開くという目的を達成させた結果であるので、それを、そのまま、素直に、認めてやればいいというのですね。」

「そうです。しかし、ほとんどの人は、自分の不幸な現行を、『無明』から来る恐怖や漠然とした不安で、さらに増幅した形で阿頼耶識に熏習し、新たな種子とするのです。そして、その新たな種子は『五蘊皆空』を『照見』出来ないが故の『罣礙(けいげ)』によって、『恐怖』や『顛倒夢想』を肥料として、発芽し、さらにおおきな大輪の悪の花を咲かせるのです。」

「『無明』、『罣礙(けいげ)』、『顛倒夢想』とは何ですか。」

「『無明』とは仏教の術語で、サンスクリット語アビドヤー、パーリ語アビッジャーの訳語です。三法印・四諦など仏教の真理に対する無知をいい、癡(モーハ)と同義語とみなされています。原始仏教経典では三漏、四瀑流、十結などのおのおのの一つに数えられる煩悩であり、また十二縁起においては人間存在の苦の因として、まず最初にあげられるので、根本的な煩悩と解されているものです。後(のち)の部派仏教のいくつかの有力な部派や、大乗仏教の瑜伽行派(唯識学派)では、精神現象を心の本体(心王)と多くの心の作用(心所)の結び付き(相応)によって説明しますが、ここでも無明は根本的な煩悩の一心所とされています。すなわち、パーリ上座部では共一切不善心心所、有部では大煩悩地法、瑜伽行派では根本煩悩心所のおのおの一つに数えられ、染汚(煩悩で汚れた)の心が生ずるときはかならず存在する煩悩とみなされているのです。部派仏教の論書『倶舎論』に『無明は四諦、仏・法・僧の三宝、善悪の業因、業果を了知しないことである』とまとめられていることから、無明とは仏教の真理に対する無知であることが改めて理解されます。
次に、『罣礙(けいげ)』ですが、これの『罣(けい)』は『引っ掛けるもの』『礙』は『妨げるもの』を意味し、サンスクリットの『アーヴァラナ』を翻訳するために、漢訳者が作った術語です。この『アーヴァラナ』は『妨げとなるもの』『閉ざすもの』『覆うもの』『取り囲むもの』という意味です。
次の、『顛倒夢想』の『顛倒』(ヴィパルヤーサ)とは『逆さま』という意味です。『夢想』とは『夢のようにありえないこと』という意味です。つまり、『顛倒夢想』とは『ないものをあると逆さまに考えること』という意味になります。」

「『その新たな種子は『五蘊皆空』を『照見』出来ないが故の『罣礙(けいげ)』によって、『恐怖』や『顛倒夢想』を肥料として、発芽し、さらにおおきな大輪の悪の花を咲かせるのです。』というところをわかりやすく解説してください。」

「般若心経に出てくる言葉を使いましたが、そんな文言をこれ以上細かく解説する必要もないでしょう。とにかく、仏教においてはすべてが空なのです。『無明』も『罣礙(けいげ)』も、すべて空であり、それだから実体のない妄想、迷妄から生み出された『恐怖』や『顛倒夢想』に幻惑された悪い種子も空なのです。このことさえ理解できれば、妄想である悪い種子など、すでに阿頼耶識に熏習されていようと恐れることはないのです。なにしろ、唯識の世界においては、一切があなたの想いによって如何様にも創造され、創りかえることも出来るのですから。」

「やっぱり、般若心経で言うところの空のさとりがなければ埒が明かないようですね。そうだとすると、空をさとるために、般若波羅蜜多のマントラ念誦法を真剣にやるしかありませんね。」

「そうとは限りません。」

「えっ、それ以外に何かいい方法があるのですか。」

「仏教では釈迦の教えとして、さとりがひらける修行法を伝えていますが、それはその修行法でもさとりが啓けると言うだけで、その修行法でなければならないというものではありません。というのは、独覚といって、なんの修行もせず、たちどころにさとりを啓く人もいるからです。」

「そんなことが出来た人がいままでにいたのですか。」

「維摩経に出てくる維摩居士がその人です。維摩居士という人は修行などしていない。善行も積んでいない。釈迦の教えも受けていない。教団とも関係ない。悪魔の誘惑にもすぐに乗って、絶世の美女に化けた魔女でも全部妾にしてしまう。さとりを啓いているからそんなことは平気の平左。病気にもなる。釈迦の十大弟子(厳しい修行をして最高の段階に達している人々)が見舞いに来ても高説を吹っかけて言い負かしてしまう。それは維摩居士が『この世の森羅万象は空である。しかも、空から森羅万象が発生する。』『この世に存在するものはすべて実体がない。すべて因縁によって存在するようになったものである。つまり、全てが空である。』というさとりを啓(ひら)いているからである。そして、維摩居士はその空の真っ只中で空を生き抜いたのである。
いつ、どこで空をさとったのか。釈迦に教えを受けたわけでもない。修行したわけでもない。ではどうしたのか。それは維摩居士が自己本来の面目たる空の実相を実覚智したいという強い願望を自己の内面に向かって投げかけた瞬間に啓けたのです。」

「自己本来の面目たる空の実相を実覚智したいという強い願望を自己の内面に向かって投げかけた瞬間にさとりが啓(ひら)けたのですか。」

「そうです。自己本来の面目たる空の実相を実覚智したいという強い願望を自己の内面に向かって投げかけた瞬間に悟ったのです。」

「それは、誰でも、自己本来の面目たる空の実相を実覚智したいという強い願望を自己の内面に向かって投げかけた瞬間にさとりが啓けるということですか。」

「そうです。」

「誰でもですか。」

「そうです。」

「なぜ、そう言えるのですか。」

「なぜなら、維摩居士が自らのことを「皆ことごとくすでに清浄になっていて、久しく煩悩の束縛から離れている。心は常にさわりのない解脱に安住して、正しく念(おも)い続け、心はおちつき、きまった正しいことばをとなえ、弁才は絶えることがない。情け深さ・いましめ・耐え忍ぶこと・勤め励むこと・智慧・および方便力はどれも具わっていないものがない」、「無所得にして何ものも生起しないという認識に達し、よく随順して不退転の教えを展開して、善く法相を解している」と自覚したとき、さとりが啓けたからです。」

「維摩居士とはそもそもどんな人ですか。」

「初期大乗仏教の経典の一つ『維摩経(ゆいまきょう)』に出てくる人です。維摩はバイシャーリーの富裕な在家の仏教信者(居士)で、すでに菩薩としての実践を完成していました。『維摩経(ゆいまきょう)』によると、釈迦が近くに滞在し説法をしていたが、彼は病にかかり参席できなかった。釈迦は弟子たちに見舞いに行くようにいったが、みんな維摩に議論を吹きかけられて負かされた経験があるため辞退した。結局智慧の優れた文殊菩薩が見舞いの代表となり、維摩の居室(方丈)を訪ね、病気の問題などを発端として仏教の真理について議論を闘わした。そのとき、文殊は垢(よごれ)と浄(きよ)らかさは究極的に不二、無言無説であるとことばで表現したのに、維摩は沈黙でもってそれを示したとされています。これを維摩の一黙といっています。
維摩は在家者でありながら、空思想を実践する理想的な菩薩として、中国・日本の禅宗においてとくに重要視されている人です。」

「維摩居士と私たちとを同じレベルの人間として見るのには少し無理がありませんか。」

「それは「ヒトとは何か」、「人間の実相とは如何なるものか」についての認識が浅いものになりすぎています。認識不足ですよ。もっと人間を、いや、人間としての本来の面目をもった自己を見つめなおして下さい。」

「人間としての本来の面目をもった自己とは何ですか。」

「創造力を自由に行使出来る「空」なる実存意識を自覚した唯識です。」

「唯識とはなんですか。」

「唯識(ゆいしき)とは―唯識所(ゆいしきしょ)変(へん)―というのが正しい言い方で、これを読み下すと、―唯、識によって変じだされた所のもの―となります。つまり、我々の識(心)こそがすべてを創造し、決定しているということを言っているのです。」

「唯識(ゆいしき)とはその字のとおり、唯識のみということであり、識の外には何も実在しない、ということであり、それを、あたかも実在しているように思うのは妄想にすぎないということなのですね。」

「そのとおりです。識があるのみで、それ以外は妄想なのです。唯識とは、自己およびこの世界の諸事物はわれわれの認識の表象にすぎず、認識以外の事物の実在しないことをいうのです。『十地経』に『この三界は心よりなるものにすぎない』といわれるように、われわれに認識されている世界は自己の認識の内なるものであり、他方、自己の認識の外にあるものをわれわれは知ることができないのですから、世界とは自己の認識の世界にほかならないことになります。 このことを自覚(じかく)することこそが仏道修行の目的です。つまり、すべてが妄想なのですから、それらを実在だとして追い求める欲望に悩む煩悩も妄想なのだと気付くことがさとりの第一歩です。これに気付けば、煩悩もたちどころに消えて、涅槃の世界へまっしぐらです。」


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