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スワミ・ヴィヴェーカーナンダコミュの聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」

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わたしのヨーガの先生が要約されたヴィヴェーカーナンダの生涯を掲載させていただきます。

管理人様、トピックとして不適切など思われるならば、ご指摘ください。

よろしくお願いいたします。

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聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(1)



 ナレーンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)の家系は、カルカッタの古い王族の一つでした。
 ナレーンドラの祖父のドゥルガーチャランは弁護士で、莫大な遺産を相続し、妻と息子にも恵まれていましたが、あるとき、すべてを捨てて出家しました。
 その後のあるとき、ドゥルガーチャランに執着していた妻は、ドゥルガーチャランを探しに、2、3歳になる息子を連れて、ヴァーラーナシーを訪れました。ヴァーラーナシーに着くと彼女は、毎日ヴィシュワナート寺院を訪ね、祈りを捧げました。ある雨の日、道路が滑って、彼女は寺院の前で転びました。するとちょうどそばを通りかかった僧がそれに気づき、駆け寄り、丁寧に起こすと、怪我がないか調べてくれました。そして二人の目が合ったとき、ドゥルガーチャランと妻は、お互いに気づいたのでした。一切を放棄したドゥルガーチャランは、直ちにその場を立ち去り、二度と振り向くことはありませんでした。

 このドゥルガーチャランが残した息子であるヴィシュワナートは、成長すると、カルカッタ最高裁判所の弁護士になりました。かなりの収入があったにもかかわらず、父譲りの性格で、友人や困った人に対して大変寛大で、自分のために貯蓄や節約をすることはできませんでした。援助に値するかどうかを検討することなく、誰に対しても手を差し伸べました。
 その中には、怠惰で無益な生活を送っている者や、ドラッグや酒に溺れている者もいましたが、ヴィシュワナートは誰に対しても平等に援助の手を差し伸べていました。
 後にナレーンドラが成長したころ、こうした役立たずに金銭的援助をして養っている父を非難したことがありました。それに対してヴィシュワナートは答えました。

「人生に降りかかる災難が、今のお前にどうして理解できようか? 彼らの苦しみの深さを感じたら、酒に頼って一瞬でも悲しみを忘れようとする不幸な人たちに同情することだろう。」


 ナレーンドラの多芸多才な能力は、子供時代から、様々な分野で発揮されました。ナレーンドラの記憶力は超人的で、たった一度聞けば、どんな本でも記憶でき、決して忘れませんでした。
 そのため、彼の勉強の仕方は一風変わっていました。彼は家庭教師を雇っていましたが、家庭教師が来るとナレーンドラは、静かに座るか、または横たわりました。家庭教師はその日勉強すべき箇所について一通り講義すると、そのまま帰っていきました。それだけでナレーンドラは、家庭教師が講義したすべてを暗記し、理解したのでした。
 また、ナレーンドラは日々自分の好きな本を読み、試験の直前になって、集中的に試験勉強をしました。あるときナレーンドラは、試験の2、3日前になって、幾何学についてほとんどわからないことにきづきました。そこでナレーンドラは集中して徹夜で勉強し、24時間で幾何学の本四冊を習得したのでした。
 
 また、父親の影響で、貧者への哀れみの心は、ナレーンドラにも深く染み付いていました。小さなころから、乞食に乞われると、母親に無断で、母親の着物や家庭用品などを乞食に与えてしまうのでした。これにきづいた母親はナレーンドラを叱って、乞食から品物を買い戻しました。
 これが何度も続いたので、ある日母親は彼を二階の部屋に閉じ込めました。それでも、通りで乞食が大声で施しを求めだすと、ナレーンドラは、母親の高価な着物を、窓から乞食に投げ与えたのでした。

 ナレーンドラの母のブヴァネーシュワリーは、ナレーンドラの生来の美徳を発達させる役割を果たしました。ある日、彼が学校で不当に扱われていると母に語ったとき、彼女はナレーンドラに言いました。
「ねえ、かまわないじゃないの? 自分が正しいと思ったら。結果など気にしないで、いつも正しいことに従いなさい。真実を守るためには、しばしば、不正とか嫌な結果に苦しまねばならないでしょう。けれども、いかなる境遇にあっても、真実を忘れてはなりません。」


つづく

―Sri Shavari

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聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(20)

 さらに激しい修行に励んでいたナレーンドラは、あるとき、自分の中に強烈な霊的な力が生じるのを感じ、それは他の人にも伝えることができると感じました。
 そこでナレーンドラは、兄弟弟子のカーリーを呼び、彼の体に触れて、深い瞑想に入りました。するとカーリーは電気ショックのような衝撃を感じ、考え方が全く変わってしまいました。
 しかしこれを知ったラーマクリシュナは、ナレーンドラを叱りました。それはまず、十分に霊力が蓄えられないうちにそのようなことで霊力を浪費するべきではないということ。
 そしてもう一つは、実はカーリーはそれまで、二元的なバクティの修行の道で、かなりいいところまでいっていたのです。しかしナレーンドラのエネルギーを受けたせいで、不二一元論の考え方にガラッと変わってしまいました。しかし二元的信仰ではかなりいいところまでいっていたけれど、不二一元の道ではまだ未熟だったので、ただ言葉で不二一元的なことを繰り返すだけの男になってしまい、それはラーマクリシュナが意図していた方向ではなく、結果的にカーリーの成長を妨げる結果になってしまったのでした。

 このように、ナレーンドラは、すでに他者にも大きな影響を与えることが出来る霊的エネルギーの充実を自らの中に感じていましたが、同時にその危険性も知り、また、それらに疲れてもいました。ナレーンドラはあくまでも、不二一元の境地、無分別サマーディの体験にあこがれていたのです。それはかつて、ラーマクリシュナが半年間に渡って入り続けた境地でした。自分もそれを経験したいとナレーンドラはラーマクリシュナに願いましたが、ラーマクリシュナは黙ったままでした。

 しかしある夜、その体験が突然ナレーンドラにやってきました。
 いつものようにナレーンドラが瞑想に没頭していると、突然、あたかもランプが頭の背後で燃えているように感じました。その光はどんどん強くなっていき、最後に破裂しました。圧倒されたナレーンドラは、意識を失って倒れました。そして意識が戻り始めたとき、ナレーンドラは、自分の頭以外の肉体の感覚を全く感じることが出来ませんでした。
 ナレーンドラは興奮した声で、同じ部屋で瞑想していた兄弟弟子のゴーパールに、
「私の体はどこにあるのだ!」
と言いました。ゴーパールは、
「ここにあるよ。どうしたのだ、ナレーンドラ。わからないのかね?」
と答えました。
 ゴーパールは、ナレーンドラが死にかかっていると思い、ラーマクリシュナの部屋に走っていきました。ラーマクリシュナは言いました。
「しばらくの間、そのままにしておきなさい。長いこと彼はそれをしつこく私に求めていたのですから。」

 ナレーンドラはしばらく、通常意識を失ったままでした。普段の意識に再び戻ったとき、彼はこの上もない安らかさに浸っていました。
 ナレーンドラがラーマクリシュナの部屋に行くと、ラーマクリシュナは言いました。
「今、母なる神が、お前にすべてをお示しになった。しかしそれには宝石箱のように鍵をかけられ、お前から隠され、私の管理の下に置かれることになる。鍵は私が預かっておく。お前がこの世での使命を遂行し終わったときにはじめて、その箱の鍵は再び開けられ、お前は今経験したすべてのものがわかるだろう。」


 後にラーマクリシュナは、他の弟子たちに言いました。
「ナレーンドラが自分の真の本性を悟ったとき、彼はこの世にとどまるのを拒み、自らの意志で肉体を放棄するでしょう。しかし彼がこの世でなさなければならない仕事はたくさんあります。だから私は、絶対者の叡智に彼を近づけず、彼の目をマーヤーのヴェールで覆ってくれるように、母なる神に祈ったのだ。だがそのヴェールは、私も知っているが、いつでも引き裂くことが出来る、とても薄いものです。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(21)

 ある日、ラーマクリシュナはナレーンドラを枕元に呼ぶと、彼をじっと見つめながら、深い瞑想に入りました。するとナレーンドラは、電流にも似た名状しがたい力が自分の中に入ってくるのを感じ、徐々に意識を失っていきました。
 ナレーンドラが再び意識を取り戻すと、ラーマクリシュナは涙を流していました。そしてナレーンドラにこう言いました。
「おお、ナレーンよ。今日私は、自分の持っているすべてをお前に与えた。今、私は無一物のファキール(乞食僧)に過ぎない。お前に授けたその力で、お前はこの世の偉大な仕事を成し遂げなさい。そのときまでお前は、生きてきたその源に帰ることはないであろう。」


 そしてラーマクリシュナの死の二日前、ナレーンドラはラーマクリシュナの枕元に立って、心の中でこう思いました。
「師は本当に神の化身なのだろうか。もし師が死ぬ間際に、自らは神の化身であると宣言したならば、私は師の神性を受け入れるだろう。」

 するとラーマクリシュナはゆっくりと唇を開き、こう言いました。
「なあ、ナレーン。お前はまだ納得していないのかね? かつてラーマやクリシュナとして生まれた者が、ラーマクリシュナとして、まさにこの肉体の中に生き続けている。
 だが、お前のヴェーダーンタの見地から言っているのではないよ。」

 こうしてラーマクリシュナは、死の間際にハッキリと、自分が至高者の化身であることをナレーンドラに明かしたのでした。

 そしてその二日後、1986年8月16日、ラーマクリシュナはマハー・サマーディに入り、その生の肉体を捨てたのでした。


 ラーマクリシュナの死の一週間後、ナレーンドラは兄弟弟子の一人とともに、庭を歩いていました。すると突然目の前に、光り輝くラーマクリシュナの姿が現われました。ナレーンドラはそれを自分の幻想だと思い、何も言わずに黙っていました。
 しかし一緒にいた兄弟弟子が、驚きのあまりに叫びました。
「見てごらん、ナレーン! 見てごらん!」
 兄弟弟子も同じヴィジョンを見ていたことがわかって、ナレーンドラは、本当にラーマクリシュナその人が光り輝く姿で現われたのだと確信しました。
 師が現われたと、ナレーンドラが他の弟子たちも呼んできた時には、もうその姿は消え去っていました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(22)

 ラーマクリシュナの存命中より、若い弟子の何人かは、家族との絆を断ち切っていました。また、ナレーンドラはラーマクリシュナに、若い弟子たちが家に帰らずに修行を続けられるように面倒をみてやってくれという依頼を受けていました。

 しかしカーシプルに借りられた家は、ラーマクリシュナの死とともに、引き払われることになりました。これから、これらの若い弟子たちは、どこに集まって修行すればいいのかという問題が生じました。
 まもなくしてこの問題は、ラーマクリシュナの信者の一人であったスレーンドラナート・ミトラが解決してくれることになりました。カルカッタとドッキネッショルの中間にあるバラナゴルというところに一軒の家が借りられ、それに伴う費用はすべてスレーンドラナートの布施によってまかなわれることになったのです。

 このバラナゴルの家は、物寂しく荒れ果てた建物であり、幽霊が出るという噂もありました。しかし若い弟子たちはそんなことは意に介せず、おどけてその建物を「幽霊屋敷」と呼び、自分たちを「主シヴァに仕える幽霊たち」と呼んで、楽しんでいました。この「バラナゴルの幽霊屋敷」が、ラーマクリシュナ僧団の最初の本部となったのでした。

 このバラナゴルの幽霊屋敷で若い弟子たちが修行を始めた初期のころ、弟子の一人バーブラームの母親の招きで、全員でアーントプルという村に出かけたことがありました。この地において、ナレーンドラは兄弟弟子たちに繰り返し、出家生活のすばらしさを説き、単なる宗教の学問的研究や、物質世界への未練を断ち切るようにと説きました。若い弟子たちは放棄の精神の高まりを、自らの心の中に感じました、
 そしてその情熱は、皆が火のまわりに座って瞑想していたある夜、最高潮に達しました。
 突然、ナレーンドラは瞑想から立ち上がると、兄弟弟子たちに、イエス・キリストの生涯を、強い熱情とともに語り始めました。そして「身を横たえる場所さえ持たなかったキリストのように生きよう」と彼らに説きました。新たな強い熱意にあおられて、若者たちは聖なる火を証人として、全員が正式に現世を放棄し、出家僧になることを誓ったのでした。
 そのとき、「今日はクリスマス・イブだ」と誰かが言ったことで、皆はより大きな祝福を感じました。

 このようにこのラーマクリシュナの若い弟子たちは、師の教えどおりに、宗派主義に陥ることなく、ヒンドゥー教の諸宗派みならずブッダ、キリストなどにも大いなるインスピレーションを受けて鼓舞されつつ、純粋に神を求める道に邁進していったのでした。

 こうして再びバラナゴルの僧院に帰った後、彼らは完全に家庭を捨てて、僧院の永住者になりました。彼らは食事さえ忘れ、瞑想、礼拝、学習、神の歌などに没頭しました。
 彼らは経済的には貧しく、しばしば全く食物のない日もありましたが、そんなときは彼らは一日何も食べず、ただ昼夜を祈りと瞑想のうちに過ごしました。
 食料があるときも、米と塩と、味のついていない野菜だけですごしていました。あるときは、野菜も、味付けの塩さえもない米だけの食事のときもありましたが、誰一人としてそんなことを気にする者はいませんでした。
 着物は、それぞれが二枚の腰布だけを持ち、そして誰かが外出しなければいけないときのために、共用の外出着が数枚あるだけでした。夜は、ごつごつした土間に、筵を敷いて眠りました。

 しかしナレーンドラは、このような苦行生活を送りつつも、自分たちが単なるヒンドゥーの意固地な苦行者になることは好まず、視野を広げるために、法友とともに様々な教えを学び、研究しました。それはジュニャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガなどのヒンドゥーの様々な教えのみならず、仏教、キリスト教、さらにはアリストテレスやプラトン、カントやヘーゲルに至るまでの様々な思想が、日々徹底的に論じられました。
 
 このころのことを振り返り、若い弟子の一人は後にこう言いました。
「あの当事に、ナレーンドラは気狂いのように働いた。夜もまだ明けやらぬうちから、彼は寝床から出て、『目覚めよ、起きよ、神酒を飲みし者よ!』と歌いながら、仲間を起こすのだった。真夜中を過ぎても、われわれは僧院の屋根の上に座って、宗教歌を夢中になって歌うのだった。近所の人々は文句を言ったが、無駄であった。また時々は学者たちがやってきて、議論をした。ナレーンドラは一瞬たりとも怠けたり、ぼんやりしていることはなかった。」

 このような厳しい生活を送りつつも、彼らは、それでも自分たちはラーマクリシュナの教えの一つさえもいまだに実現していない、と日々嘆いていたのでした。

聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(23)

 ラーマクリシュナは信者の性質に合わせて様々な教えの説き方をしたために、ラーマクリシュナの信者の中には、彼らのこのような放棄の修行生活を認めない者もいました。あるときそのうちの一人が、
「世を捨てることで、神を見ることができましたか?」
と、からかうようにたずねました。
 「どういうことですか?」と、ナレーンドラは憤慨して答えました。
 「たとえ私たちがまだ神を実現していないからといって、快楽の生活に戻り、より高い本性を堕落させなければならないのですか?」と。

 しばらくの間、ラーマクリシュナの若い出家の弟子たちは、バラナゴル僧院で共に住み、修行に明け暮れていましたが、そのうち、一人また一人と、放浪の修行の旅に出るようになりました。ナレーンドラも、様々な聖地を訪れてはまた僧院に帰ってくる、ということを繰り返していました。

 旅の中で、インドの各地で苦しんでいる様々な人々を見るにつけ、ナレーンドラは、彼らに教えを説き、彼らを救済することの必要性を強く感じました。そして常に「自分は何かをせねばならない」という強い思いに駆られていましたが、それが何であるのかわかりませんでした。

 世間で苦しむ人々を救わなければいけないという強い思い。しかし何をしたらいいかわからないもどかしさ。そのもどかしさの中で、ナレーンドラは各地の様々な聖者を訪ねることで、救いを求めようとしました。

 その中で、ナレーンドラが強く心をひかれた聖者がいました。それはガージープルに住むパオハーリー・ババという名の聖者でした。

 パオハーリー・ババはヴァラナシで生まれ、青年時代に様々なインド哲学を学んだ後、世を捨てて出家し、放浪の禁欲修行者となりました。後にガージープルに落ち着き、ガンジス河畔の人目につかないところに住みました。彼は毎日ほとんど瞑想に没頭し、それ以外に何もしないで生きていたので、人々から「霞を吸って生きている聖者」と呼ばれ、その謙虚さに、多くの人は感動と尊敬の念を感じていました。

 彼にまつわるエピソードは多くありました。たとえばあるとき、彼はコブラに咬まれました。激しい痛みに耐えながら、彼は言いました。
「おお、私の最愛の方からの使者よ!」

 またあるとき、犬が彼の食料のパンをくわえて逃げました。彼は犬の後を追いかけながら言いました。
「どうぞ待ってください。私の主よ。あなた様のためにパンにバターを塗らせてください。」

 しばしば、彼は乞食や修行僧に自分のわずかな食料を与えては、自分は飢えを耐えているのでした。

 また、あるときからパオハーリー・ババはラーマクリシュナのことを聞き、ラーマクリシュナを神の化身として信じ、大変に尊敬し、自分の部屋にラーマクリシュナの写真を飾っていました。

 ナレーンドラがこのパオハーリー・ババと出会ったころ、ナレーンドラは激しい腰痛に悩まされ、また精神的にも疲れていました。
 パオハーリー・ババと出会って彼を大変尊敬したナレーンドラは、パオハーリー・ババをヨーガの師としてあおぎ、教えを請い、その心身の苦境から脱しようとしました。
 しかしなぜかパオハーリー・ババは、ナレーンドラを弟子として受け入れることを拒否し続けました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(24)

 ある夜、ナレーンドラが寝床に横たわりながらパオハーリー・ババのことを考えていると、ラーマクリシュナが現われ、戸口の近くに黙って立ち、一心にナレーンドラの目を見つめました。このヴィジョンは、21日間にわたって、毎晩繰り返し現われ続けました。
 ナレーンドラは、ラーマクリシュナへの信が自分には不足していたことに気づき、自らをきつく責めました。今やっとナレーンドラは、確信を得たのです。彼はラーマクリシュナがいかに一途な祈りを捧げ続けたか、民衆による侮辱を許容したか、そしていかに自分の苦悩を取り除いてくれたかを、涙ながらに思い出しました。
 彼は友人への手紙の中で、こう書きました。
「ラーマクリシュナに匹敵する人はおりません。師のすべての人に対するすばらしい親切さ、束縛されている人々に対する強い同情などの完全さは、この世のどこにも、いまだかつて見たことがありません。」

 
 このようにして聖地を訪ねたり、僧院へ戻ったりを繰り返すうちに、ナレーンドラは、いまや自分の人生が、普通の世捨て人の修行者と同じであってはならないと自覚し始めました。ナレーンドラは、ヴェーダーンタなどの偉大なる叡智をもって、インド、そして世界の人々を救わなければいけないという使命感を感じていたのです。しかし当時若干25歳のナレーンドラにとって、その仕事はあまりに大きくも感じられました。これについてナレーンドラは兄弟弟子と何度も話し合いましたが、あまり賛同してくれる声はありませんでした。ナレーンドラは、たとえ他の人々の助けがなくても、自分は一人でもそれをなすべきだと決心しました。

 ついに1890年のある日、ナレーンドラは、強い決意をもって、再び放浪の旅に出ることにしました。出発にあたってナレーンドラは、兄弟弟子に対してこう言いました。
「私が触れるだけで人々を救えるような悟りを得るまでは、私は帰らないでしょう。」

 また、ラーマクリシュナの妻であるサーラダー・デーヴィーのもとへ行き、最高の智慧を得るまでは帰らないという誓いを立てました。サーラダー・デーヴィーはラーマクリシュナに代わって、ナレーンドラに祝福を与えました。

 「今生の母に別れを告げなくてもいいのですか?」
とサーラダー・デーヴィーに尋ねられたナレーンドラは、彼女にこう答えました。

「お母様。あなただけが私のたった一人の母です。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(25)

 ナレーンドラは、ヒマラヤへ向けて修行の旅に出ました。何人かの兄弟弟子たちも、この旅に同行しました。カルカッタからヒマラヤまでは相当な距離がありますが、彼らはこの旅の全行程を、徒歩で、しかも一切お金を使わずに行こうと決心しました。

 いくつかの聖地を訪れた後、ナイニータールという場所で、ナレーンドラは深い瞑想体験をしました。それを彼は、ノートに次のように記しました。

「はじめに言葉があった。
 小宇宙と大宇宙が同じ計画の下に創られる。
 ちょうど個人の魂が生きている肉体の中に包まれているように、宇宙の魂もまた活動するプラクリティ、すなわち客観的宇宙の中に包まれている。
 カーリー女神はシヴァ神を包んでいる。これは空想ではない。他のものによって唯一なるものを包むことは、概念とそれを表現する言葉との間の関係に類似している。それらは全く同一である。それらを区別できるのは、ただ知的な抽象的観念によってのみである。思想は言葉なしには不可能である。それゆえ、はじめに言葉があった。
 宇宙の魂のこの二面は永遠である。われわれが知ったり感じたりするものは、永遠にかたちのあるものと永遠にかたちのないものとの結合である。」

 
 旅の途中、悲惨な境遇にあったナレーンドラの妹が、自殺したという悲しい知らせが届きました。


 ようやくヒマラヤに着いた一行は、まずヨーガの聖地であるリシケシに滞在し、その後にメーラットという場所に移って、兄弟弟子たちと共に、瞑想、祈り、歌、聖典学習などに日々をすごしました。

 五ヶ月ほどそのような日々が続いた後、1891年1月、ナレーンドラはじっとしていられなくなり、兄弟弟子たちに別れを告げて、一人で再び放浪の生活に出ました。ナレーンドラは、今生の自分の使命が、ヒマラヤの清らかな洞窟の中で瞑想のうちに過ごすことではないと、確信していたのです。しかし、では何をすればいいのか、それはまだ具体的にはわかっていませんでした。

 ナレーンドラは、名前をスワーミー・ヴィヴィディシャーナンダと変えて、ヒマラヤを去って南へと向かいました。ナレーンドラは、誰にも知られずに孤独のうちに旅をしたかったので、その後もたびたび名前を変えました。ナレーンドラは、敬愛するブッダの次のような言葉を唱えながら、南へと進んでいったのです。

 道なき道を進もう
 恐れるものなく、愛着するものなく
 サイのように、ただ一人さまよおう
 ライオンのように、物音におののくことなく
 風のように、網に捕らえられることなく
 蓮華のように、水にけがされることなく
 サイのように、汝はただ一人さまよえ

 旅の途中、ナレーンドラは、あらゆる人々と交わりました。夜は不可触民の人々と共に眠り、昼間はさまざまな階級の知識人や庶民たちと話を交わしました。それによってナレーンドラは、彼らの喜びや悲しみ、希望や不安を知りました。現代インドのさまざまな悲劇を目の当たりにし、その救済策について考えをめぐらせました。苦しむ人類を神への道にいかに向かわせるか、模索し続けました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(26)

 アールワールという地に着いたとき、その地のマハーラージャ(地域の王)と、激しい議論を交わしました。ナレーンドラは、目立たぬように粗末な出家僧の身なりをしていましたが、その頑丈そうな体と、学者風の高貴な風貌は、明らかに普通の人ではない印象を人々に与えていました。そこでその王はナレーンドラに、なぜそのような高貴な学者風の風貌のあなたが、わざわざ放浪生活を送っているのか、と尋ねました。それに対してナレーンドラは、
「なぜあなたはマハーラージャの義務を怠って、いつも西洋人とともに時を過ごしたり、狩りに出かけたりしているのですか?」
と、逆に王に質問しました。それに対して王は答えました。
「どうしてかは説明できないが、それが好きだということは確かです。」
 するとナレーンドラはこう言いました。
「なるほど。その同じ理由のために、私は出家僧となって放浪しているのです。」

 また、議論の中で、西洋かぶれしていたその王は、インドにはびこる偶像崇拝をあざ笑いました。ナレーンドラは、ヒンドゥー教は偶像を象徴として礼拝しているのだと主張しましたが、王を納得させることはできませんでした。そこでナレーンドラは、壁にかかっていたその王の肖像画を外すと、それに唾を吐きかけました。そこにいた人々は皆、この大胆な行為に恐れをなしました。ナレーンドラは王のほうを振り向くと、言いました。
「肖像画は生身のマハーラージャその人ではありません。しかしすべての人にその人を思い起こさせるので、非常に尊ばれるのです。同様に、偶像は帰依者たちの心に神の存在をあらわすものです。それゆえに、特に宗教生活のはじめには、精神統一に役に立ちます。」
 この堂々としたナレーンドラの行為と言葉に、王は負けを認め、自分の至らなさをわびました。

 ベルゴームという地では、兄弟弟子のアベーダーナンダに偶然会いました。ナレーンドラはアベーダーナンダにこのように言いました。
「兄弟よ、時々、体全体が張り裂けるのではないかと思うほどの強い力が、私の中に盛り上がってくるのです。」

 また、かつて弟子として受け入れたハリパダという男とも出会いましたが、そのときハリパダは、うつ病にかかっていました。ナレーンドラは彼に次のような忠告を与えました。
「病気のことばかり考えていて、いったい何になるのか。ほがらかにしなさい。宗教生活を送りなさい。いつも思想を深めるようにしなさい。陽気になりなさい。決して、健康に障ったり、後で後悔するような楽しみにふけってはなりません。そうすれば、すべてがよくなるでしょう。
 また、死についていえば、君や私のようなものが死んでもどうということはありません。私たちが死んでも地球は逆転しません! 世界は私たちがいなければ動かないと思うほどうぬぼれてはなりません。」

 また、このときナレーンドラは、アメリカに行きたいという希望を、ハリパダに伝えました。旅の途中、もうすぐアメリカのシカゴで世界宗教会議が開かれるという噂を聞き、それに参加したいと考えていたのでした。これを聞いてハリパダは喜んで、そのためのお金を集めようとしました。しかしナレーンドラは、まずはラーメーシュワラムに巡礼し、そこの神を礼拝し終わるまでは、そのことについてはこれ以上考えない、とハリパダに言いました。

 ラーメーシュワラムにつくと、ナレーンドラは、後に熱心な弟子のひとりとなったラームナードの王、バースカラ・セトゥパティに会いました。彼も、シカゴでの世界宗教会議にインドを代表して出席するようナレーンドラに勧め、そのための援助を惜しまないことを約束しました。

 ラーメーシュワラムを立つと、ナレーンドラはついにインド最南端の地であるカンニャークマーリー(コモリン岬)目指して歩き出しました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(27)

 コモリン岬に着いたナレーンドラは、子供のように興奮しました。寺院に駆け込み、処女の女神・カンニャークマーリーにひれ伏して礼拝した後、外に出て海を眺めていると、彼の目は一つの岩に吸い付けられました。ナレーンドラは海を泳いでその岩まで渡ると、その上に座りました。
 ナレーンドラの胸は高鳴りました。ついにナレーンドラは、北のヒマラヤからこのインド最南端の地までの、徒歩による大いなる旅を達成したのでした。

 岩の上に座りながらナレーンドラは、旅の途中、自分の目で見たものを思い出していました。苦しむ多くのインドの民。そして自分の使命は何なのかを、改めて自問しました。
 ナレーンドラは、出家の儀式のときに、神への奉仕に自らを捧げるという誓いを立てていました。そしてその神はすべての人間として現われており、彼らへの奉仕こそが自分の使命であることを確信しました。
 そしてそれは、自らの母国であるインドの民の救済からはじめなければならない、と考えました。
 ナレーンドラは叫びました。
「私の真じる唯一の神、すべての魂の統一者、そしてとりわけ邪悪なる者として現われた神、苦悩する者として現われた神こそを私が礼拝できるならば、私は何度も生まれ変わり、数限りない苦しみを受けますように!」

 しかし、どのようにしてインドの民を救うのか。
 ナレーンドラは、やはり宗教こそが、インド民族の背骨であると思いました。インド滅亡の因は宗教にあるという評論家の意見には、ナレーンドラは耳を貸しませんでした。むしろ彼は、宗教の名のもとに行なわれた虚偽、迷信、偽善などを批判しました。
 人間の中に眠っている神の存在を知ることが、人間に強さや智慧や愛を与えるということを、ナレーンドラは知っていました。そしてこの人間の中に眠る神性を目覚めさせる手伝いをしようと、彼は決心したのです。
 しかしそのためには、現実的なさまざまな行動が必要だと感じていました。
 このときに考えたことの一部を、ナレーンドラは後に法友への手紙の中で次のように記しています。

「もしも私心のない出家修行者が、他人への善行を心がけ、口頭で教えたり、不可触民に教育を広めたり、またあらゆる逆境からの改善に種々の方法を探し求めて、村々を訪れるならば、やがては実を結ぶでしょう。
 これらの計画のすべてを、私はこの短い手紙に書くことは出来ません。要点だけを言えば、相手が来ないなら、こちらから出かけていかねばならないということです。
 貧しき者は貧しさのあまりに学校に行けません。彼らに詩などを読んでやっても全く無益です。私たちは一国民として、個々の人格を失っているのです。私たちは失ったその人格を国民に返し、民衆を向上させなければなりません。」

 しかし具体的に、どのようにして自分のヴィジョンを実現させればいいのか。岩の上でこのようなことを思索していたとき、ナレーンドラは、西洋世界に近づき、彼らの自覚に訴えなければならない、と思い至りました。インドが没落するなら、世界もまた没落するだろう。なぜなら西洋社会は、物質主義という怪物の鋭い爪から自らを救うために、インドの叡智を必要としていると感じたからです。

 そのとき、ナレーンドラの心にひらめきがありました。
 ――アメリカ。
 当時のアメリカは、無限の可能性を秘めているように見えました。楽天的で、豊かで、物惜しみせず、感受性豊かな人々。ナレーンドラは彼らにインドの叡智を教え、逆に彼らから西洋の智慧をインドに持ち帰ろうと考えました。アメリカでの伝道に成功したならば、西洋にインドの叡智を広められるだけでなく、インドの人々の中に新たな自信を生み出すだろうと考えました。
 ナレーンドラは、シカゴの世界宗教会議に出席せよと勧めてくれた友人たちの言葉を思い出しました。特に、最初にそれを勧めてくれたある友人の、次のような言葉を。

「行って、完全に感服させて、帰れ!」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(28)

 コモリン岬の岩の上で、自分の使命に漠然と気づき始めたナレーンドラは、再び東海岸に沿って歩いてインド中央部へと向かいました。

 ハイデラーバードという地において、ナレーンドラははじめて公開講演を行ないました。聴衆は感動しました。このような活動を続けるうち、ナレーンドラの信者は増え、彼のアメリカ行きのために、信者たちがお金を集めました。

 しかしナレーンドラは、本当に自分がアメリカに行くことが神の意思なのか、まだ確信がありませんでした。そんな時彼は、示唆的な夢を見ました。夢の中でラーマクリシュナが、海の上を歩きながら、手招きをしているのでした。また、ラーマクリシュナの、
「行きなさい!」
という厳然たる声も聞こえました。

 また、ラーマクリシュナの妻であったサーラダー・デーヴィーに手紙で相談したところ、彼女もまたナレーンドラのアメリカ行きに祝福を与えてくれたのでした。

 こうしてついにナレーンドラは、アメリカ行きが自分の使命であることをハッキリと確信したのでした。

 アメリカ行きの準備がすべて整ったとき、ナレーンドラの信者であったケートリーのマハーラージャに王子が生まれたというニュースが飛び込んできました。ナレーンドラは王子を祝福するために、そのマハーラージャのところへと行きました。
 マハーラージャはナレーンドラに、アメリカ行きにあたって、新しい名前を自分につけさせてほしいと願い出ました。ナレーンドラは旅の途中、これまでたびたび名前を変えていたので、このときも快く了承しました。そのときこのマハーラージャがつけた名前が、後に西洋での大成功によって世界的に知られるようになり、ナレーンドラの宗教名として定着した――ヴィヴェーカーナンダという名前でした。

 その後、マハーラージャは、ヴィヴェーカーナンダを、踊り子が歌う音楽会に招待しました。しかしヴィヴェーカーナンダは出家修行者であり、世間的な娯楽を楽しむことは許されないので、その誘いを断りました。するとそのやり取りを聞いていた踊り子は傷つき、哀願をこめて次のように歌いました。

 主よ、私の罪を見ないでください。
 あなたの御名は、すべてを平等に見るお方ではないのでしょうか。
 一片の鉄は、神聖な寺院の中でも使われるし、肉屋が手にする包丁にもなります。
 でも、賢者の石に触れられると、この二つはともに黄金になります。
 ヤムナー河の水は神聖で、路傍の溝の水は汚れています。
 でも、ひとたびガンジスの流れに入ると、等しく清められます。
 ですから、主よ、私の罪を見ないでください!
 あなたの御名は、すべてを平等に見るお方ではないのでしょうか。

 この踊り子の少女の歌を聞いて、ヴィヴェーカーナンダは心を強く打たれ、大いなる示唆を受けました。すなわち、永遠に純粋であるブラフマンは、あらゆる存在に偏在する本質だということを。神の前には、善も悪も、浄も不浄などの差別はない。そのようなものは、ただブラフマンの光がマーヤーによって隠されるときに現われるのだということを。 
 それからヴィヴェーカーナンダは音楽界が催される部屋に行くと、目に涙を浮かべて、踊り子の少女に言いました。

「母なる神よ。私は罪を犯しました。この部屋に来ないことで、あなたを軽蔑しておりました。だが、あなたの歌は私を目覚めさせました。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(29)

 その後ヴィヴェーカーナンダは、アメリカ行きの船に乗るためにボンベイへと向かいました。その旅の途中、兄弟弟子のブラフマーナンダとトゥリヤーナンダに会いました。ヴィヴェーーカーナンダのアメリカ行きの話を知ると、二人の兄弟弟子は非常に喜びました。ヴィヴェーカーナンダは二人に、アメリカ行きの理由を次のように説明しました。
「私はインドをくまなく旅しました。だが、ああ、君たち、私は民衆の悲惨さをこの目で見て苦闘した。私は涙をこらえることが出来なかった。まず最初に彼らの貧困と苦悩を取り除かずに、彼らに宗教を説くことは無益だと確信した。この理由のために――インドの貧しい人々の救済の方法を見出すために、私はアメリカに行こうとしているのです。」
 ヴィヴェーカーナンダは続けました。
「君たちの言うところの宗教は理解できない。」
 ヴィヴェーカーナンダの顔は血が上って紅潮していました。激情で震える手を胸において、さらに言い足しました。
「だが、私の心はますます大きくなり、感じることを学びました。信じてほしい。私は本当に激しく感じるのです……」
 こう言うと、ヴィヴェーカーナンダはもう言葉が出なくなり、沈黙しました。涙がとめどなく頬を流れ落ちていました。

 トゥリヤーナンダはこのとき、
「これはまさにブッダの言葉、仏陀の気持ちそのものではないだろうか。」
と思いました。


 そしてヴィヴェーカーナンダはボンベイに着き、予定通りに船に乗り、出航しました。このときヴィヴェーカーナンダは30歳でした。

 船はスリランカ、シンガポール、中国などを経て、日本に着きました。ヴィヴェーカーナンダは船で長崎、神戸へと行き、そこから陸路で大阪、京都、東京、横浜を見てまわりました。
 広い街に小さな家々、松の木で覆われた山々、潅木、苔、美しく整えられた池や庭園などに、日本人の生来の芸術的性格を見、ヴィヴェーカーナンダは感動しました。

 そしてヴィヴェーカーナンダは横浜から船を乗り換えて太平洋を横断し、ついにアメリカに着きました。船はバンクーバーに着き、そこから列車に乗り、世界宗教会議が行なわれるシカゴへと向かったのでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(30)

 ついにシカゴに到着したヴィヴェーカーナンダは、世界宗教会議について訪ねようと、会議が行なわれる万国博覧会の案内所に行きました。
 そこでヴィヴェーカーナンダは、大変なショックを受けました。宗教会議に参加するには、信用できる団体からの推薦状が必要であり、しかも参加の申し込みはすでに締め切ってしまったというのです。

 これはヴィヴェーカーナンダにとって、全く予期せぬことでした。というのも、インドにおいて、世界宗教会議に出席するよう勧めてくれた多くの友人や信者たちの誰もが、そんなことは言っていなかったからです。ヴィヴェーカーナンダも、他の者たちも、ただシカゴで世界宗教会議が行なわれるということだけしか知らず、詳しい申し込み方法も、会議の詳しい日時さえも、誰も知らなかったのです。
 インドの信者や友人たちは、ヴィヴェーカーナンダのすばらしい人格こそが十分な証明書となるのだから、細かな申し込みなどはいらない、とにかくシカゴに行けば出席できるだろうと、まじめに楽天的に信じていたのでした。

 インドという地で生きてきたヴィヴェーカーナンダと信者たちは、西洋社会のシステムについて、あまりにも世間知らずで無智だったのでした。

 ヴィヴェーカーナンダは困り果てました。しかも、信者から援助されたお金も少なくなってきていました。
 そこでヴィヴェーカーナンダは、以前親交があったインドの神智学協会に、援助を求めました。自分を宗教会議にインド代表として推薦してくれるとともに、金銭的援助も依頼したのです。しかし神智学協会の指導者からの返答は、援助をするには、ヴィヴェーカーナンダが神智学協会の信条に同意しなければならない、というものでした。ヴィヴェーカーナンダは神智学協会と友好関係にはありましたが、その教義はほとんど信じていなかったので、結局その条件を拒み、神智学協会の指導者も一切の援助を拒みました。

 窮地に追い込まれたヴィヴェーカーナンダでしたが、彼は運命をただ神に任せました。

 どちらにせよ、宗教会議が行なわれるまではまだ二ヶ月ほどあったので、とりあえずヴィヴェーカーナンダは、残り少ないお金を節約するため、生活費の安いボストンに移動することにしました。
 このボストン行きの汽車の中で、ヴィヴェーカーナンダは、ある裕福な貴婦人と知り合いました。彼女は、ヴィヴェーカーナンダの高貴な人格と、叡智に富んだ会話に感動して、ぜひ自分の家に泊まってくれるように勧め、そして彼をハーバード大学のギリシャ語の教授だったJ.H.ライト氏に紹介しました。
 ヴィヴェーカーナンダは、この学識高い教授と、さまざまな問題について何時間も語りあいました。ライト教授はヴィヴェーカーナンダのまれに見る才能に深く感動し、ヒンドゥー教の代表として世界宗教会議に出るべきだと、強く勧めました。
 ヴィヴェーカーナンダは自分の事情を説明し、そうしたいのだが信任状がないのだ、と打ち明けました。するとライト教授はこう言いました。
「スワーミー。あなたに信任状を要求するのは、太陽に対して、お前は輝く権利があるのかと尋ねるようなものですよ!」

 ライト教授はヴィヴェーカーナンダのことを、宗教会議に関係している多くの重要人物に手紙で推薦しました。そこには、このように書かれていました。
「ここに、学識あるわが国のプロフェッサーたち全部を一つに集めたよりも、もっと学識のある人がいます。」

 こうしてヴィヴェーカーナンダが宗教会議に参加できるよう手はずを整えたライト教授は、さらに彼にシカゴ行きの切符を買い与えてくれました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(31)

 ヴィヴェーカーナンダは早速再びシカゴへと向かいました。
 汽車はシカゴに夜遅くに到着しました。しかしなんとヴィヴェーカーナンダは、宗教会議の委員会の住所を書いた紙をなくしてしまったのでした。彼はどこに助けを求めていいかわかりませんでした。しかも彼が迷った場所は、ドイツ人ばかりが住んでいる町の一角で、ヴィヴェーカーナンダの英語は全く通じないのでした。
 仕方なくヴィヴェーカーナンダは、鉄道の貨物置場の中にあった大きな貨車の中で、何も食べずに一夜を過ごしました。
 翌朝ヴィヴェーカーナンダは、家々を訪ねて食物を乞いました。インドを旅していたときは、彼はこうして日々の食物を得ていたのです。しかし布施の観念が強く根付いているインドと違い、そのような習慣のないアメリカの人々は、食事を分けてくれと突然たずねてきたヴィヴェーカーナンダをただの乞食としか見ず、多くの家々を回っても、誰も食物を分けてくれませんでした。
 空腹と疲労で疲れきったヴィヴェーカーナンダは、ついに道端に座り込んでしまいました。そして、すべてをただ至高者の意思に任せようと決心しました。

 すると、ヴィヴェーカーナンダが座り込んでいた道路の向かい側の家の扉が開き、一人の貴婦人が近づいてきて、
「失礼ですが、あなたは宗教会議の代表の方でいらっしゃいますか?」
と尋ねました。
 この女性は、シカゴ婦人会のジョージ・W・ヘール婦人でした。
 ヴィヴェーカーナンダが彼女にすべての事情を話すと、婦人はヴィヴェーカーナンダを家に招いて朝食に誘い、その後に宗教会議の事務所に案内してくれました。こうして無事にヴィヴェーカーナンダは正式な手続きを済ませ、世界宗教会議の参加者として認められ、他のアジアの代表者たちとともに宿舎を与えられたのでした。


 無謀にも、何の手続きもせず、日時さえも知らぬまま、ただ神と師ラーマクリシュナの意思だけを信じて、一人颯爽とシカゴに乗り込んで来たヴィヴェーカーナンダ。
 それはあまりに無計画な行動にも見えましたが、結局神の導きにより、ヴィヴェーカーナンダが世界宗教会議にインド代表として出席する手はずは整えられたのでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(32)

 1893年9月11日、ついに世界宗教会議が開会されました。

 キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、儒教、神道、ゾロアスター教など、世界中のさまざまな宗教の代表者たちが一堂に会し、その会場は七千人ものアメリカの文化人の聴衆たちで埋め尽くされていました。
 
 初日、各宗教の代表者たちは、一人ひとり壇上に立ち、用意されていた原稿を読み上げました。
 ヴィヴェーカーナンダの順番は31番目にやってきました。しかしヴィヴェーカーナンダは、何の原稿も用意しておらず、またこのような多くの聴衆の前で話すのは初めてだったので、少し気後れし、自分の番は後に回してほしい、と議長に頼みました。
 ついに他の全員のスピーチが終わり、ヴィヴェーカーナンダは促されて壇上に上がりました。

 何の原稿も用意していないヴィヴェーカーナンダは、壇上に立つと、神に祈りを捧げてから、堂々とした声で、こう言いました。
「アメリカの兄弟姉妹の皆さん!」

 この瞬間、七千人の聴衆は立ち上がり、スタンディングオベーションで拍手喝采を送りました。なんとその後二分もの間、聴衆は座ることなく、拍手を送り続けたといいます。

 なぜこのようなことが起こったのでしょうか? これまでにスピーチしたすべての宗教家たちは、用意された形式的な原稿を読み、ただ自分たちの宗教の優位性を語るだけの、退屈なスピーチでした。聴衆はこのときのヴィヴェーカーナンダのような、兄弟のように自然で率直な暖かさを持った言葉を待っていたのです。
 しかしもちろんそれだけでは、このような短い言葉で、7千人の聴衆にスタンディングオベーションをさせることなどは不可能でしょう。やはりこのときのヴィヴェーカーナンダは、神の意思により、その言葉、その姿から、まさに文字通り神がかり的なオーラを発していたのではないかと思います。
 
 やっと聴衆の拍手がおさまった後、ヴィヴェーカーナンダはスピーチを始めました。
 他の宗教家たちが、自分の宗教のすばらしさを語るだけだったのに対し、ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの教えの特徴である、すべての宗教は一つであり、すべての宗教の神は、ただひとつの絶対者であるということを説きました。
 スピーチが終わると、再び耳をつんざくばかりの大拍手が起こりました。

 この日はヴィヴェーカーナンダの独壇場で終わりました。
 この夜、ホテルに帰った後、ヴィヴェーカーナンダは涙を流しました。それは、スピーチが成功したことへの喜びの涙ではありませんでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、ついに世に出たのです。もう彼にとっては、ただ神との不断な交わりの中での、一僧侶としての孤独な生活は終わりを告げたのです。神の安らぎの平安のうちにひっそりと住む代わりに、絶え間ない騒ぎと強要の付きまとう公の生活の中に投げ出されたのです。それは神の意思であるということはわかってはいましたが、自分の平安な人生が終わりを告げたことを知り、彼は子供のように泣いたのでした。

 この宗教会議の期間中、ヴィヴェーカーナンダは計12回にわたるスピーチをしました。
 議長は毎日、ヴィヴェーカーナンダのスピーチの順番を、一番最後に回しました。なぜなら聴衆の多くが、ヴィヴェーカーナンダのスピーチを聞きにやってきていたからです。人々は15分のヴィヴェーカーナンダのスピーチを聞くために、一時間でも二時間でも待っているのでした。
 シカゴの町には等身大のヴィヴェーカーナンダのポスターが飾られ、多くの通行人はその前で足を止め、敬意を表して頭を下げました。

 アメリカの各新聞も一躍宗教会議のヒーローとして颯爽と現われたインドの無名の僧のことを、こぞって書き立てました。

「彼は間違いなく、宗教会議中の最も偉大な人物である。
 彼の話を聞くと、これほど学識のある民族に宣教師などを送るのは何という愚かなことだろう、と感じる。」
(ニューヨーク・ヘラルド紙)

「彼はその情操や容貌の威厳から、会議の大変な人気者である。演壇を横切るだけで拍手される。この無数の人々からの格別の賛辞を、彼はほんのわずかの自負心もなく、子供のような心で喜んで受け入れた。」
(ボストン・イブニング・ポスト紙)
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(33)

 このヴィヴェーカーナンダの大成功は、インドの新聞や雑誌にも掲載されました。
 それを知ったヴィヴェーカーナンダの法友たちの喜びは、筆舌に尽くしがたいものでした。
 確かにラーマクリシュナは、
「ナレーンドラはいつの日か世界を揺るがすだろう」
と、口癖のように言っていました。しかしその言葉を文字通り信じた者はどれほどいたでしょうか。ラーマクリシュナの信者や弟子たちは改めて、師の言葉が寸分たがわず正しかったことを知ったのでした。 

 ヴィヴェーカーナンダ自身も、インドの兄弟弟子や信者たちに何度も手紙を送り、彼らの情熱をかき立てました。たとえばあるときヴィヴェーカーナンダは、信者への手紙にこのように書きました。

「ふんどしをしめなおしたまえ、私の息子たちよ。
 私はこのことのために主に呼ばれているのだ。
 希望は君たちの中に――柔和な、謙虚な、そして誠実な者たちの中にある。
 不幸な人々のために感じ、そして助けを求めたまえ。――それは必ずやってくる。
 私はハートから血を流しつつ、助けを求めて地球の半分をよぎり、この知らぬ他国にやってきたのだ。主が私をお助けくださるだろう。私はこの国で寒さと飢えに死ぬかもしれない。しかし、若者たちよ、私は君たちに、貧しい人々、無智な人々、圧迫された人々へのこの慈悲心、彼らのためのこの努力を残して逝く。
 「彼」の前にひれ伏して、大きな犠牲をささげたまえ。彼らのために――日々に沈んでいくこれら三億の人のために――全生涯を捧げるのだ。
 主に栄光あれ。われわれは成功するだろう。幾百人が、努力の半ばで倒れるだろう。――しかし幾百人が、喜んでその後を引き受けるだろう。
 命などはなんでもない。死などはなんでもない。主に栄光あれ! 前進せよ! 主がわれらの大将である。倒れた者を振り返って見るな。前進せよ! 進み続けよ!」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(34)

 世界宗教会議の終了後、ヴィヴェーカーナンダは、ある講演事務所から、アメリカ講演旅行の誘いを受け、それを了承しました。
 しかしまもなくヴィヴェーカーナンダは、この講演事務所が利己的な目的のために自分を利用していることに気づき、この事務所との縁を切りました。そして自分自身でスケジュールを決め、多くの講演を行なっていきました。
 彼はアメリカのさまざまな主要都市に、旋風のような講演の旅に出ました。人々は彼を「サイクロンのようなヒンドゥー教徒」と呼びました。
 また、多くのキリスト教徒の牧師たちが、ヴィヴェーカーナンダの熱狂的な友となり、教会で話をしてくれるようにと彼を招きました。

 ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの教えである万教同根を説き、キリスト教の信仰にも深い理解がありましたが、同時に、間違ったキリスト教信仰や、多くのキリスト教指導者たちの偽善的行為に対しては、歯に衣着せずに厳しく糾弾しました。
 また、西洋諸国の武力制圧とキリスト教の宣教師たちの活動は、実に奇妙にもしばしば平行して進んでいると、ヴィヴェーカーナンダは指摘しました。多くの国々で、多くの者たちが、世俗的な理由のためにキリスト教への改宗を余儀なくされました。ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。

「そのようなものは倒れます。それらは砂上の楼閣であり、長くは続きません。エゴイズムを土台とし、地位や名誉のために競争をし、現世的快楽を目的と持つようなものは、遅かれ早かれ滅ぶに違いありません。
 もしあなたがたが滅びたくないならば、キリストに帰りなさい。
 あなた方はキリスト教徒ではありません。
 キリストに帰りなさい。どこにも身を横たえる場所さえなかったキリストに帰りなさい。
 あなた方の宗教は、贅沢という名の下に説かれた宗教です。何という運命の皮肉でしょう! あなたがたは滅びたくないならば、宗教を完全に変えなさい。正反対のものにしなさい。あなた方は神と物欲の両方に仕えることはできません。
 この繁栄のすべて――このすべてはキリストから来ているでしょうか? キリストはこのようなことのすべてを否定されたでしょう。あなた方がこの二つ、このすばらしい繁栄とキリストの理想とを結びつけることができるなら、それは結構なことです。しかしできないならば、キリストの下に帰り、こういった無駄な探求を諦められたほうがいいでしょう。キリストのいない宮殿に住むよりも、彼と一緒にぼろを身にまとって暮らすがよろしい。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(35)

 またあるときヴィヴェーカーナンダはボストンで、師であるラーマクリシュナについて話してくれるように依頼されました。 
 しかしヴィヴェーカーナンダは、演壇に立ってラーマクリシュナのことを考えつつ、気取ったアメリカの人々を見たとき、ラーマクリシュナの限りない清浄さと、この西洋の人々の汚れを比べてしまい、感極まって、激しく西洋社会の物質文化を罵倒しました。聴衆は憤慨し、多くの人々が腹を立てて帰りました。
 ヴィヴェーカーナンダは家に帰ると、自分の行ないを後悔して泣きました。せっかくラーマクリシュナのことを学ぼうとして集まった人々を、激しい非難によって怒らせて帰らせてしまった。自分はまだまだ師には遠く及ばないと思い、この日からヴィヴェーカーナンダは、人前でラーマクリシュナについて語ったり書いたりすることをやめました。


 ヴィヴェーカーナンダの歯に衣着せぬ多くの発言は、キリスト教の宣教師や信者たちの間に、激しい敵意を呼び起こしました。彼らは悪意と憎しみをもって、ヴィヴェーカーナンダを批判しました。ありもしない話を書いたり、ヴィヴェーカーナンダの性格についての悪口を言ったりして、彼の名声を傷つけようとしました。
 インドにおいてさえも、ヴィヴェーカーナンダの人気に嫉妬した一部の宣教師やヒンドゥー教の指導者たちが、その中傷のキャンペーンに加わりました。
 しかしヴィヴェーカーナンダは、いかなる妨害にも心を乱されることはありませんでした。

 またあるときは、ある宗教団体の関係者たちがヴィヴェーカーナンダに近づき、『もし自分たちに協力するなら援助を惜しまないが、もしそれを拒んだら危害を加えよう』と脅して、ヴィヴェーカーナンダを自分たちの団体に抱き込もうとしました。しかしヴィヴェーカーナンダは、堂々とこう答えました。
「私は真理のために公然と戦います。真理は虚偽とは絶対に手を結びません。たとえ全世界が私の敵に回ろうとも、真理は最後には勝つに違いありません。」


 ヴィヴェーカーナンダの炎のような講演活動は、多くの敵対者を生む反面、多くの信者も獲得しました。その中でも特に熱心な者たちが、徐々にヴィヴェーカーナンダのもとに集まり始めました。ヴィヴェーカーナンダは彼らを、将来のアメリカにおける救済の働き手として、ラージャ・ヨーガやジュニャーナ・ヨーガなどの方法で訓練し始めました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(36)

 講演、ヨーガのクラス、個人指導、手紙のやり取り、書籍の執筆など、救済のさまざまな活動に燃えるように従事していたヴィヴェーカーナンダは、1985年の中ごろには、さすがにすっかり疲れきっていました。
 ニューヨークにおけるヴィヴェーカーナンダの生徒の一人だったエリザベス・ダッチャー嬢は、そんなヴィヴェーカーナンダのために、セントローレンス河のほとりにあるサウザンド・アイランド・パークにある彼女が所有する別荘に招待しました。
 ヴィヴェーカーナンダは喜んでその招待を受け入れ、その静かな環境で、12人の弟子たちとともに、7週間にわたり、休息と修行の日々を過ごしたのでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、自分の多くの生徒の中で、修行の実践に本当に熱心な者のみをこの別荘に連れてきました。この中からヴィヴェーカーナンダは、数人でもよいので、真のヨーガ行者を完成させたいと思ったのです。
 このときの12人の弟子の中には、死に至るまでヴィヴェーカーナンダに忠実に仕えた、シスター・クリスティンやJ・J・グッドウィンなどもいました。

 ヴィヴェーカーナンダは、この隠遁所の不断の静けさの中、かつてラーマクリシュナがドッキネッショルで弟子たちを導いたのと同じ雰囲気で、弟子たちを導きました。ヴィヴェーカーナンダは別荘の三階に宿泊し、弟子たちは一階に宿泊し、そして二回の部屋で、ヨーガの講習や、会話と沈黙による彼らの親しい交わりがなされたのでした。

 12人の弟子たちになされた講義において、ヴィヴェーカーナンダは、聖書、バガヴァッド・ギーター、ウパニシャッドなどの講義に加え、一般向けの講義では封印していた、自らの師であるラーマクリシュナについて、彼の思想や日常生活などについて、熱心に弟子たちに語りました。

 ここに集った12人の弟子たちは皆キリスト教徒でしたが、ヴィヴェーカーナンダの激しい教えに、混乱する者もいました。たとえばこの別荘の所有者であるダッチャー嬢は、革命的ともいえるヴィヴェーカーナンダの教えに、しばしば圧倒されました。今まで信じていた自分の理想、価値観、宗教についての概念などのすべてが、打ち砕かれていくように思われたのです。彼女は時にはヴィヴェーカーナンダと口論をし、数日間、姿を見せないこともありました。
「ダッチャー嬢は最近姿を見せませんが、どうしたのでしょうか? ご病気でしょうか?」
という問いに対して、ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「これは普通の病気ではありません。その病気は彼女の心に生じつつある大混乱に対する肉体の反動です。彼女はそれに耐えられないのです。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(37)


 ヴィヴェーカーナンダはこの別荘においてさまざまな講義をしましたが、いつも主題は「神の実現」ということに帰結するのでした。そしてその基盤としての戒律の遵守を強調しました。正直、誠実、非暴力、自制、不盗、禁欲などなしに、霊性の向上はありえない、と強調しました。

「すべての教団において、性的な純潔が強調されるのには理由があります。精神的な巨人は、純潔の誓いが守られるところからのみ生まれます。
 性的な純潔と霊性の向上の間にはつながりがあります。祈りと瞑想を通じて、聖者たちは肉体の中の生命力を精神のエネルギーに転じているのです。ヨーガ行者はそれを意識的に行ないます。このように変えられた力はオージャスと呼ばれ、脳髄の中に蓄えられるのです。それは最低の中心から最高のものへと引き上げられます。」

 こうしてヴィヴェーカーナンダは、自分に従う熱心な弟子たちに対して、戒律の遵守、特に性的な純潔を求めたのでした。

 ヴィヴェーカーナンダはこの別荘において、何人かの弟子にイニシエーションの儀式を施し、正式に出家させました。またヴィヴェーカーナンダ自身も、大きな霊的・精神的進歩を経験しました。彼は友人への手紙にこう書きました。

「私は自由です。私の魂の束縛は断ち切られました。この肉体が消えようと消えまいと、何をかまうことがありましょうか。私は真理を説かねばなりません。――神の子である私は!
 私に真理をお授けになった神は、地上で最も勇敢で最良な人々の中から、同志の働き手を私に派遣してくださるでしょう。」

 またヴィヴェーカーナンダはこの別荘においての霊的・精神的進歩を、「出家修行者の歌」という詩で生き生きと表現しました。その一部は、以下のようなものでした。

 
 汝の束縛を断て!
 輝く黄金や光鈍きものや貴金属などの汝をくくれるもの、
 愛と憎しみ、善と悪――すべての相対の大群を断て。
 知れ! 愛撫であれ鞭打ちであれ、奴隷は奴隷、自由でないことを。
 束縛は黄金であっても縛る力は弱くない。
 それゆえ、それらの足かせを断て。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 肉体、それがあろうとなかろうと、もう心に留めるな。
 その使命は果たされる。カルマは自然に尽きるままに。
 ある者はそれを花輪で飾り、他の者はそれを足蹴にする。この世間は無だと言おう。
 称賛も非難もない。そこでは、称賛する者・される者、非難する者・される者――皆一つなり。
 それゆえ、彼は平静なれ。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 真理を知れる者はほんのわずかだ。
 他の者は汝を憎むであろう。
 そして汝、偉大なる真理の具現者である汝をあざ笑う。
 だが、気にするな。
 行け! 汝、自由なる汝よ。
 そこかしこに趣いて、
 救え! マーヤーのヴェールに覆われし暗黒から、彼らを救え。
 苦痛の恐怖も、快楽への願いも、ともに超越して行こう。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(38)

 アメリカでの布教にある程度の成功を見たヴィヴェーカーナンダは、次はヨーロッパへと目を向けました。その最初の本拠地としたのはイギリスでした。この時期、ヴィヴェーカーナンダは、1895年の9月から11月、1896年の4月から7月、そして同年の10月から12月までと、計三回にわたってイギリスを訪れました。

 ヴィヴェーカーナンダの評判はイギリスにもたちまち広まり、到着後三週間経たぬうちに、ヴィヴェーカーナンダは講演やクラスなどの活動に激しく従事するようになりました。
 すでに最初のイギリス訪問において、ヴィヴェーカーナンダは、大勢の熱心な支持者を得ることができました。その中には、ある女学校の校長であったミス・マーガレット・ノーブルもいました。
 このミス・マーガレット・ノーブルは、後にヴィヴェーカーナンダのもとで出家してシスター・ニヴェーディターとなり、インドに渡り、特にインドの女性たちの教育のために生涯をささげました。
 このニヴェーディターは、後にヴィヴェーカーナンダとの出会いのことを回想して、友人への手紙にこう書き記しました。

「もしあの方が、あのとき、ロンドンに来ていなかったなら! 私の生涯は愚かな夢のようなものになっていたでしょう。
 私は自分がいつも何かを待ち望んでいるということを知っていましたし、また神の思し召しがあるといつも言っていましたから。そして、それが実現しました。
 しかしもし私が、人生についてもっと多くのことを知っていたならば、時が来ても、たしかにそれを認めたかどうかは疑問です。幸いにも私はそれをほとんど知らなかったのですから……
 間違いなく今、私は自分に適した世界を見つけ、世界も私を必要とし、待っております。矢は弓につがえられました。――でも、もし彼が来ていなかったならば! もし彼がヒマラヤの峰々の上で瞑想にふけっていたならば! ……私は一人では決してここに来れなかったでしょう。」



 イギリスでの活動をより進めるため、ヴィヴェーカーナンダは、兄弟弟子のスワーミー・サーラダーナンダを、インドからイギリスに呼び寄せました。ヴィヴェーカーナンダの二度目のイギリス訪問時にこの二人の兄弟弟子は再会を喜び合い、サーラダーナンダはヴィヴェーカーナンダの期待通りに、優れた講演やクラスを通じて、イギリスの人々の心をつかみました。

 1896年の5月には、ヴィヴェーカーナンダはオックスフォード大学の教授であり東洋学者のマックス・ミュラーの自宅に招待されました。マックス・ミュラーはヴィヴェーカーナンダの師であるラーマクリシュナ・パラマハンサに強い興味を持っており、すでに自分が知っていた知識以上のことを、ヴィヴェーカーナンダから聞きたがりました。ヴィヴェーカーナンダは喜んでラーマクリシュナの生涯とその教えについて、多くの情報を彼に提供しました。
 マックス・ミュラーはその研究を一冊の本にまとめ、それはまもなく「ラーマクリシュナ、彼の生涯と言葉」というタイトルで出版され、ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの思想を英語世界に定着させる大きな一助となったのでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(39)

 ヴィヴェーカーナンダは、兄弟弟子のサーラダーナンダをアメリカに、同じく兄弟弟子のアベーダーナンダをイギリスに呼び、教育し、自分の救済活動を引き継がせました。そして自身は久しぶりにインドへと、西洋人の弟子を引き連れて帰ることになりました。

 ヴィヴェーカーナンダがインドに到着したとき、ヒンドゥー教を欧米に広めた英雄を迎えるために、多くの民衆が集まり、大騒ぎになりました。無数の人々が、彼の足に触れようとして、地面に身を投げ出しました。旗が掲げられ、宗教歌が歌われ、聖水や花が道にまかれ、多くの供物が捧げられました。
 ヴィヴェーカーナンダは冷静さを失うことなく、これらの名誉と称賛のすべてを受け入れました。彼は戦いからも名誉からも逃げ出すような人物ではなかったのです。彼は無一物の乞食僧に過ぎない自分に与えられた称賛と供養を、インドの崇高な理想に与えられたものとみなしたのでした。

 ヴィヴェーカーナンダがカルカッタに到着して間もないころ、ラーマクリシュナの聖誕祭が、ドッキネッショルのカーリー寺院で開かれました。この祭典には非常に多くの人々が集まり、まさに人の海でした。
 かつてラーマクリシュナが生きていたころ、ラーマクリシュナを聖者と認めて訪ねてくる信者は、ごくわずかなものでした。しかしいまや、これだけ多くの人々が、ラーマクリシュナを神の化身と讃えて集ってきているのです。ヴィヴェーカーナンダは深い感動に包まれ、ギリシュに言いました。
「あのころと今とはなんと変わったことだろう!」
 ギリシュは答えて言いました。
「おっしゃるとおりです。けれども私はもっと多くの人が集まるのを見たいと願っています。」

 
 ヴィヴェーカーナンダはしばしば、さまざまな形を有する宗教の修行は、それぞれの時代に応じて効果的であったといいました。ある時代はそれは苦行であり、ある時代にはバクティであり、ある時代には思索であったと。しかし現代においてはカルマ・ヨーガこそが宗教的効果を速やかにもたらすであろうと主張し、非利己的行為の修行を強調したのでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、インド人がタマス、すなわち不活動の傾向が強いと見て取ったため、特にこの「活発な行為による解脱」の道を説いたのでした。
 ヴィヴェーカーナンダ自身はすでに、無分別サマーディに入ることによって、ブラフマンと合一し、解脱の境地に安住することができるステージにはありました。しかし彼は、神の意思によって、現象世界の意識に自分自身を下ろし、人類の幸福のために自己を捧げながら、菩薩のように生きたのでした。彼はこう言いました。

「全インドを修行しながら放浪していたとき、私は毎日、洞窟の中で瞑想に没頭していました。しばしば私は、解脱が得られないので、餓死しようと決心しました。今私は解脱への望みはありません。宇宙の中にただ一人でも解脱に達していない者がいる限り、私はそれを望みません。」


 しかし兄弟弟子たちには個人主義の者が多く、救済活動には無関心でした。彼らは孤独に難行苦行を実践し、世間から離れて静かな生活を送ることを望んでいたのでした。
 ヴィヴェーカーナンダの思想は、これらとは一線を画すものでした。ヴィヴェーカーナンダ自身、かつて個人的な解脱のみを求めていたとき、ラーマクリシュナに叱責され、人々の幸福のために生きるよう指示された経験がありました。よって彼は兄弟弟子たちに対して、自分ひとりだけの解脱を求めるのは、ラーマクリシュナの弟子としては非常に恥ずべきことである、と指摘しました。
 兄弟弟子たちは、必ずしもいつもヴィヴェーカーナンダの意見に同意するというわけではありませんでしたが、ラーマクリシュナによって特に選ばれた者であるヴィヴェーカーナンダを称賛し、彼の衆生救済の計画に、さまざまな形で協力を惜しみませんでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(40)


 こうしてヴィヴェーカーナンダと兄弟弟子たちの活発な活動により、多くの人々が、彼らの教団に加わるようになりました。
 あるとき、四人の若い信者が、ヴィヴェーカーナンダよりイニシエーションを受けて、正式に出家修行者になることを切望していました。しかしそのうちの一人が過去にある罪を犯していたため、兄弟弟子たちは彼を出家修行者として受け入れることに反対しました。これに対してヴィヴェーカーナンダは、憤慨して言いました。

「どういうことですか。われわれが罪人を避けるならば、誰が彼らを救うのですか。さらによりよい生活を望んで、僧院に帰依してくるということは、その人の意志が善であるということをあらわしているのです。だから、われわれは彼を助けねばなりません。仮に一人の男が悪人であったり堕落した人間であったとしても、あなたたちが彼の性格を変えることができないなら、なぜあなたたちは黄色の僧衣に身を包んでいるのですか。教師の任務をどのように果たしているのですか。」

 こうしてこの四人とも、正式に出家修行者として受け入れられることになりました。そのイニシエーションの儀式の前日、ヴィヴェーカーナンダは彼らにこう言いました。

「自分の魂の救済と、多くの人々の善と幸福のために、出家修行者はこの世に生まれてきたということを覚えておきなさい。
 他人のために自分の生活を犠牲にして、泣き声が空に響き渡る幾百万もの人々の不幸を経験するために、未亡人の目から涙を拭い去るために、子供を失った母親の心を慰めるために、無知で抑圧された民衆に生きるための戦いの方法と手段を提供し、おして彼らを自立させんがために、精神的、物質的幸福のために、差別することなく万人に聖典の教えを広めんがために、さらにヴェーダーンタの智慧によって万人の心の中にあるブラフマンの眠れるライオンを目覚めさせんがために、出家修行者はこの世に生まれてきたのです。」

 また、出家修行を熱望する他の信者たちには、このように言いました。
「あなた方はすべてのものを放棄しなければなりません。
 あなた方は自分のための満足や楽しみを求めてはなりません。
 あなた方はお金や欲望の対象を毒と、名誉や名声を最も下賎な汚物と、世俗的な栄光を恐ろしい地獄と、生まれや社会的地位などのプライドを『酒を飲むのと同じほど罪深いもの』とみなさねばなりません。
 あなたたちの隣人の教師となるために、また世間の利益のために、あなた方は自己の魂の智慧によって自由を獲得しなければならないのです。」

 
 ヴィヴェーカーナンダは、出家を望む信者たちを誰でも彼でも受け入れていたため、多くの人々は、ヴィヴェーカーナンダは弟子の能力の識別力に欠けると思っていました。実際、ヴィヴェーカーナンダが出家させた者が、後に悪事を犯してしまうということもありました。
 こうした現状を見て、あるとき、ヴィヴェーカーナンダの直弟子の一人であるニルマラーナンダは、ヴィヴェーカーナンダには正しい判断力と人間の本性への理解が欠けている、と言いました。するとヴィヴェーカーナンダは、興奮で顔を赤くしながら、こう言いました。

「なんと言いましたか。私が人間の本性を理解していないとでも思っているのか。私は、これらの不幸な人々の現在の生活を知っているばかりか、以前の生活をも全部知っています。また将来、彼らが何をするかもよくわかっている。
 ならばなぜ私が彼らを受け入れるのか。これらの不運な人々は、心の平安と励ましの言葉を求めて多くの門を叩いたのだ。だが、どこでも拒絶されてきた。私が受け入れなかったならば、彼らには行くところがないのです。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(41)

 アメリカやヨーロッパで布教活動を続けた経験から、ヴィヴェーカーナンダは、インドと西洋を比べた場合のインド社会の大きな欠点の一つは、組織化の欠如であると考えていました。

 そこでヴィヴェーカーナンダは、自分たちの救済活動を組織化するため、法友の出家修行者や在家の信者たちを集めて、会合を持ちました。
 ヴィヴェーカーナンダは、この組織の名前には、ラーマクリシュナという名をつけようと提案しました。
「われわれがラーマクリシュナの名のもとに出家修行者となり、またあなた方がラーマクリシュナを理想として在家者の生活を送っており、師の没後12年間のうちに、その聖なる名前と影響と教えは東洋と西洋にこのように全く思いがけなく広がったためである。」
と、ヴィヴェーカーナンダは述べました。
 出席者たちはヴィヴェーカーナンダの提案に賛同し、こうして「ラーマクリシュナ・ミッション」が誕生したのでした。

 このラーマクリシュナ・ミッションは、以下のような性質を持つものとされました。

◎目的
・人類の幸福のために、ラーマクリシュナが自らの生き方を見本として説き教えた真理を広めること。
・人々の肉体的・精神的・宗教的発展のために、それらの真理を実践し、他者を援助すること。

◎義務
・すべての宗教は「不滅なる永遠のダルマ」の数多くの形態の一つであるということを知り、さまざまな宗教の信奉者の中に協調を確立するために、ラーマクリシュナが始めたもろもろの活動を正しい精神で指導すること。

◎活動の方法
・一般民衆の物質的・精神的幸福に貢献しうるような知識と科学を教えるにふさわしい人間を養成すること。
・人文科学や産業を促進、奨励すること。
・ラーマクリシュナの生涯において明らかにされたヴェーダーンタと他の理念を一般の人々に紹介し、広めること。

 ラーマクリシュナ・ミッションは、インド国内と外国との二つの活動分野を持ちました。
 また、ラーマクリシュナ・ミッションの目的と理想は、純粋に精神的・人道主義的なものであって、政治とはなんら関係を持ってはならないとされました。

 
 兄弟弟子たちや在家の信者たちは、喜んでヴィヴェーカーナンダが率いるこれらの活動に従事しましたが、しかしこのころになっても、兄弟弟子たちは全面的にヴィヴェーカーナンダのやり方に賛成していたわけではありませんでした。
 ある兄弟弟子は、ヴィヴェーカーナンダに対してあからさまにこう非難の言葉を述べました。
「あなたはアメリカにおいて、ラーマクリシュナについて説くことはありませんでした。あなたはただ自分のことを説いただけです。」
 これに対してヴィヴェーカーナンダは率直にこう答えました。
「人々には、まず最初に私を理解してもらいます。
 そうすれば、彼らも聖ラーマクリシュナを理解するでしょう。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(42)

 ヴィヴェーカーナンダは一見、師であるラーマクリシュナをあまり表に出すことなく、自分なりの方法で救済活動を行なっているようでしたが、実際にはその背後には常に師の存在があったのでした。あるとき彼はこう言いました。

「聖ラーマクリシュナは、弟子たちが理解しているよりもはるかに偉大であります。
 師は、無限の方法において発展の可能性を持っている永遠の宗教的理想の具現者です。
 彼の慈悲深い一瞥によって、たちまち十万のヴィヴェーカーナンダを作り出すこともできました。
 その代わりにもし彼がいま私を道具として仕事をしようとされるならば、私はただ彼の意思に従うのみであります。」


 しかしヴィヴェーカーナンダの考えややり方がいつも兄弟弟子に理解されるとは限らず、彼らがぶつかることもたびたびありました。
 ある日、この問題は頂点に達しました。兄弟弟子のひとりであるヨーガーナンダが、ヴィヴェーカーナンダに対して率直にこう言いました。
「師は、霊性の探究者に対して、神への愛のみを強調された。だから、愛国的仕事のための慈善事業とか、奉仕のための施設などを作るのは、西洋の教育と欧米の影響を受けたヴィヴェーカーナンダ独自の考えである。」

 これに対して、ヴィヴェーカーナンダも率直に、厳しく、堂々とこう言い返しました。

「あなたは私よりも聖ラーマクリシュナを深く理解しているとでも思っているのか!
 神の叡智は、心の最も優しい働きを殺してしまう荒野の小道を通って得られるような干からびた知識だと思っているのか!
 あなたのいうバクティは、人を無力にする、感傷的で愚かなものです。
 あなたは自分が理解した聖ラーマクリシュナを説こうとしている。しかしその理解は浅いものだ! そんなものは振り棄てなさい!
 あなたのラーマクリシュナなんかに、誰が目を輝かせますか。あなたのいうバクティや解脱に、誰が注意をむけますか。あなたの聖典が述べることに、誰が耳を傾けますか。
 もし私がタマスに沈んでいるわが同朋を、自力で起き上がるように目覚めさせ、そしてカルマ・ヨーガの精神によって彼らを奮い立たせることができるならば、私は喜んで千の地獄にも落ちていこう。
 私はラーマクリシュナの、また誰の信奉者でもなく、自己のバクティや解脱に心を奪われる者でもありません。ただ他人のために奉仕し、援助する人の信奉者です!」

 感情の高まりで声は詰まり、体は震え、目は燃えるように輝いていました。そしてヴィヴェーカーナンダは隣の部屋へと消えました。兄弟弟子たちが心配して見に行くと、ヴィヴェーカーナンダは半ば閉じた眼に涙を浮かべて、瞑想にふけっていました。
 
 一時間ほどして瞑想から立ち上がると、ヴィヴェーカーナンダは再び兄弟弟子たちのところへやってきました。彼は冷静さを取り戻しており、穏やかにこう言いました。

「人がバクティ(神への信愛)に到達したときには、その心と神経は、花に触れることさえも耐えられないほど、実に柔らかで繊細になるのです。
 私は圧倒されずに、聖ラーマクリシュナのことを思ったり語ったりすることはできません。だからいつもジュニャーナの鉄の鎖で自らを縛りつけようと努めています。なぜなら、母国のための仕事がまだ終わっていないし、世界へのメッセージがまだ十分に伝えられていないからです。
 神への愛の感情が湧き出て、自分がそれに没入しようとしているのに気づくと、私はそれを激しく鞭打ち、厳しいジュニャーナによって、自分を石のように堅固にします。
 ああ、私にはなさねばならない仕事があります。私はラーマクリシュナのしもべです。師は、なすべき師の仕事を私に残された。その仕事をなし終えるまで、私に休息は与えられません。ああ、私は師のことをどのように話せばよいのだろう。私に対する師の愛を!」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(43)

 この出来事があってから、兄弟弟子たちはヴィヴェーカーナンダを批判することをやめました。ヴィヴェーカーナンダが、いかに心の奥に純粋なバクティを持ち、またラーマクリシュナがヴィヴェーカーナンダを通じて仕事をしようとしているかを知ったからでした。
 そして兄弟弟子もまた、ヴィヴェーカーナンダの生き方にならって、自分だけの瞑想的安らぎに没入することなく、苦しむインドや世界の人々のための奉仕に全力を注ぐようになっていったのでした。

 ヴィヴェーカーナンダはこのような救済活動の順調な進歩を非常に喜びました。

 キリスト教をはじめとする他宗教の人たちや、その他の知識人からも、ヴィヴェーカーナンダは、無理解から来る多くの批判や中傷を受けつづけてきました。しかしヴィヴェーカーナンダはそれらに一切構うことなく、自分の道を進み続けました。

 1897年7月9日付のメリー・へールあての手紙で、ヴィヴェーカーナンダは次のように書いています。

「神は私と共におられます。私がアメリカやイギリスにいた時も、またインドの見知らぬ土地をあちこちと放浪していた時も、神は私と共におられました。
 彼ら【批判者】が何を言おうと、私は少しも気にとめません。赤ん坊はよりよいことを何も知らない。魂なるものを知り、この地上のすべてが愚かで空虚であることを知った私が、なぜ赤ん坊の片言によって己の道を踏み外すでしょうか。
 私はせいぜい、あと3、4年の命です。自己救済の願いは全くなくなりました。私は世俗的な楽しみなどは決して必要としません。自分の機械が正常に運転できる状態にあるのを見なければなりません。それから、少なくともインドにおいて、私は人類の幸福のために、いかなる力をもってしても逆転することのできないレバーを操っているということをはっきりと知り、そして次に何が起きるかということも気にも留めずに眠るでしょう。
 何度も何度も生まれ変わり、そして数え切れないほどの苦難に出会いますように。存在する唯一の神、私が信じる唯一の神、あらゆる魂の総和の唯一の神を、私は崇拝できますから。とりわけ私の神は、よこしまな人、悲惨な人、あらゆる民族・種族の貧しい人です。これらの神こそ、私の崇拝の特別な対象なのです。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(43)

 1898年八月の初め、ヴィヴェーカーナンダの熱心な信者であったミュラー嬢からの多額の布施によって、現在のラーマクリシュナ僧院の広大な土地が購入されました。他の信者たちも気前よく布施をし、僧院の建物が建てられました。

 ラーマクリシュナの遺骨が納められたラーマクリシュナ寺院は、ヴィヴェーカーナンダのアイデアにより、「すべての宗教はひとつ」というラーマクリシュナの教えをあらわすため、見る角度によってヒンドゥー教の寺院、イスラム教のモスク、キリスト教の教会などにも見える、珍しいデザインで建設されました。

 その頃、西洋でヴィヴェーカーナンダに感化された弟子や信者たちも、続々とインドにやってきて、ヴィヴェーカーナンダと一緒に旅をしたり、救済の仕事を手伝い始めました。

 ニューヨークでヴィヴェーカーナンダのクラスに参加していたジョセフィーン・マクラウド嬢は、ヴィヴェーカーナンダの生涯の献身者でした。あるときヴィヴェーカーナンダは彼女に、一週間、聖音オームについて瞑想するようにと指示しました。一週間後、ヴィヴェーカーナンダが彼女に何を感じたか尋ねると、マクラウド嬢はこう答えました。
「それは心の中の真っ赤な輝きのようでした。」

 ヴィヴェーカーナンダは彼女に言いました。
「常に覚えておきなさい。あなたは、たまたま一アメリカ人であり、一女性でありますが、常に神の子なのです。昼も夜も、自分が何者であるかを自らに言い聞かせなさい。このことを決して忘れてはなりません。」


 マクラウド嬢がインドに来て間もないころ、ヴィヴェーカーナンダ一行の一人としてカシミールを旅していたおり、彼女は、宗派を示すしるしを額につけている一人の僧を見て、笑い出しました。彼女にはそれがグロテスクなものに見えたからでした。すると前を歩いていたヴィヴェーカーナンダは、振り返り、まるでライオンのような鋭い目で彼女をひるませると、厳しくこう叫びました。
「干渉するな! あなたは自分を何様だと思っているのか。あなたは何をしたというのか!」

 マクラウド嬢は自分の行為を後悔し、うなだれました。のちに彼女は、自分が笑ったその僧が、かつて托鉢をしてヴィヴェーカーナンダのアメリカ行きの費用を集めた弟子の一人であったことを知りました。


 ある時、ヴィヴェーカーナンダの私用のためのお金がほとんど底をついていることを知ったマクラウド嬢は、ヴィヴェーカーナンダが生きている限り、毎月資金を援助し続けることを約束し、そしてその手始めとして、半年分のお金をヴィヴェーカーナンダに布施しました。それは多額のお金でしたが、ヴィヴェーカーナンダは冗談半分に、
「これだけで自分は大丈夫だろうか?」
と言いました。それに対してマクラウド嬢もユーモアたっぷりにこう答えました。
「毎日、生クリームをたくさん食べていたら足りませんね!」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(44)

 ロンドンにおけるヴィヴェーカーナンダのクラスや講演に出席していたマーガレット・E・ノーブル嬢は、あるとき、ヴィヴェーカーナンダのインドにおける救済活動のお手伝いに、自分の生涯を捧げる決心をしました。彼女がその決意をヴィヴェーカーナンダに手紙で告げると、ヴィヴェーカーナンダはその返信の中で、彼女の未来を祝福するとともに、インドの救済活動における困難を指摘したうえで、こう書きました。

「あなたはここに飛び込んでくる前に、よく考えねばなりません。そしてそのあとで、あなたが失敗したり、うんざりされるならば、私は死んでもあなたに味方するでしょうということをお約束します。あなたがインドのために働かれようと働かれまいと、ヴィヴェーカーナンダを捨てられようと奉じられようと、ゾウの牙は生えると決して引っ込むことはないように、この言葉も決して取り消されません。」


 こうして1898年1月28日、ノーブル嬢はインドへとやってきました。ヴィヴェーカーナンダはカルカッタの人たちに、彼女を「イギリスからインドへの贈り物」として温かく紹介しました。

 その年の三月には、ヴィヴェーカーナンダは彼女に、ブラフマチャリヤー(禁欲修行者)としての誓いを立てさせ、彼女に「ニヴェーディター(捧げられたもの)」という名前を与えました。
 誓いの儀式が終わった後、ヴィヴェーカーナンダはニヴェーディタ−に言いました。
「さあ、行きなさい。悟りを得る前に、他人のために五百回も生まれ変わって己の生命を与えた、ブッダのように!」

 その後、ヴィヴェーカーナンダはさまざまな方法で、ニヴェーディターを訓練していきました。ヴィヴェーカーナンダは繰り返しニヴェーディタ−の高いプライドを打ち砕く作業を行ない、西洋人らしい積極性と気の強さを持っていたニヴェーディタ−は、何度もこの師の厳しい愛に対して反発し、ぶつかり合い、多くの苦悩を味わいました。

 ある時、ヴィヴェーカーナンダと弟子たちがヒマラヤを旅していた時、ニヴェーディターの苦悩は、頂点に達しました。ニヴェーディタ−はもうこれ以上この苦難に耐えられないと見てとったマクラウド嬢は、ヴィヴェーカーナンダに誠意をもって嘆願しました。
 それを聞いてヴィヴェーカーナンダは、その場を立ち去りました。そして夕方に戻ってくると、マクラウド嬢に、子供のような無邪気さで言いました。
「あなたが正しかったです。私はやり方を変更しなければなりません。
 私は一人で森に行ってきます。戻ってくるときには、安らぎを得てくるでしょう。」
 そしてさらに、新月の夜空を指さして言いました。
「私たちも新月と共に新たな生活を始めましょう。」
 そしてヴィヴェーカーナンダは反抗的なニヴェーディターを祝福し、ニヴェーディターは彼の前にひざまずきました。

 その夜の瞑想中、ニヴェーディタ−は、自分の利己的な理性が、自分が正しく導かれる妨げになっていたのだということを理解しました。そしてこう記しました。
「最も偉大なる師たちは、神の非人格的な姿を認知させるためにだけ、私たちの私的関係を破壊するということを初めて理解しました。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(45)

 1898年6月2日、ヴィヴェーカーナンダの信者であり片腕として様々な尽力をしてくれたグッドウィン氏が亡くなりました。その報告を受けたヴィヴェーカーナンダは、深い悲しみに沈みました。

 そして6月11日、ヴィヴェーカーナンダは、西洋人の弟子たちを連れて、カシミール旅行に出発しました。
 この旅は、弟子たちにとって忘れ難い体験となりました。旅行中、ヴィヴェーカーナンダは身も心も弟子たちに注ぎ込みました。そして何日もの間、弟子たちに、偉大な放棄の神であるシヴァ神についての伝説を語りました。
 またある日はヴィヴェーカーナンダは、チンギス・ハーン、ナポレオン、そしてアレキサンダー大王について語り、この三人の偉大なる王は、同じ一つの魂である、と言いました。
 また同様に、同じ一つの魂が、クリシュナ、ブッダ、キリストなどになって、何度も何度も、人類の宗教的統一のためにあらわれたのだ、と言いました。

 しかし同時にこの旅においてヴィヴェーカーナンダは、しばしば孤独になりたがり、一行から抜け出して、一人でさまようのでした。放浪から帰ってくるとヴィヴェーカーナンダは、次のようなことを語るのでした。

「肉体を思うことは罪である。」

「事物は良くなることはない。今あるがままに続く。自らの内に生じるその変化によって、良くなるのは我々である。」

 弟子たちは、ヴィヴェーカーナンダが以前と違い、不思議な超然的な雰囲気を携えてきているのに気づきました。ある人はこう言いました。
「今日か明日にでも、師は永遠に去ってしまうでしょう。だから、師のこの世の最後の言葉を聞いているのですよ。」

 このころからどんどん、ヴィヴェーカーナンダの心は、現世の様々なわずらわしいことから離れていきました。
 しばらく後のことですが、ニヴェーディタ−がほんの些細な世間的な忠告をしたとき、ヴィヴェーカーナンダは声を荒げて叫びました。
「計画! 計画だって! それだから、あなた方西洋の人には、決して宗教を生み出すことができないのです! あなた方の誰かが宗教を生み出したというならば、それは計画を持たないほんの二、三のカトリックの聖者たちでした。宗教は、決して、決して、計画する者によって説かれはしなかった!」

  

 イスラーマーバードにおいてヴィヴェーカーナンダは、西ヒマラヤ山脈の氷河の流域、アマルナートの洞窟の中にある偉大なシヴァリンガへの巡礼をしたいと言いました。そしてニヴェーディターにも一緒に来るように言いました。
 一行は厳しい危険な道を通って、八月二日、洞窟にたどり着きました。
 洞窟の奥の一番暗い壁面に、全身が氷でできたシヴァリンガが立っていました。
 ヴィヴェーカーナンダの体は、感動で震えだしました。ヴィヴェーカーナンダはシヴァリンガの前に身を投げ出すと、まさにシヴァ神そのもののヴィジョンを目の当たりにしました。しかしヴィヴェーカーナンダはその体験の詳細について、詳しくは何も語りませんでした。
 誰にも語られることがなかったその驚くべき体験は、ヴィヴェーカーナンダの神経を打ち砕きました。洞窟から出たとき、ヴィヴェーカーナンダの左目には血のかたまりがあり、心臓は激しく高鳴っていました。その後の数日間、ヴィヴェーカーナンダは、シヴァ神以外のことは何も語りませんでした。

「その像は神そのものであった。そこでは、ただ礼拝するばかりであった。私はこれほど美しく、これほど勇気を与えてくれるものを、今まで見たことはありません。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(46)

 カーリー女神は、マー(母なる神)として、ラーマクリシュナが最も敬愛した存在でした。そしてかつてはヴィヴェーカーナンダは、師のカーリーへの愛を十分に理解していませんでした。

 しかしこのころヴィヴェーカーナンダは、この母なる神・カーリー女神は、すべてに遍在していると悟ったのでした。どこを向いてもヴィヴェーカーナンダは、カーリー女神の存在を感じるようになりました。そしてカーリー女神が自分の手をしっかりとつかみ、まるで本当に母が子を導くように導いてくれている、と感じました。

 ヴィヴェーカーナンダのカーリー女神への覚りは日に日に深まっていきました。そしてある日の瞑想中、まるで電気ショックを受けたかのように、ヴィヴェーカーナンダの全身は震えました。彼は、現象のヴェールの背後に潜んでいる強力な破壊者、カーリー女神の姿を、ありのままに見たのでした。熱狂のあまり、ヴィヴェーカーナンダは暗闇の中で鉛筆と紙を手探りし、「母なるカーリー」という詩を書くと、そのまま力尽きて倒れました。


母なるカーリー


星々は消え、雲が雲を覆い
闇は振動し鳴り響く。

ほえたけり渦巻く風は、
いく百万の狂える魂であり
牢獄より放たれ、
木々を根こそぎもぎりとり
すべてのものを道から一掃する。

海は騒ぎ立ち、山なす波を巻き上げて
暗黒の空に届く。

青白い稲妻の閃きは、四方八方に
汚れた黒き幾千もの死の影を現わす。

疫病と悲哀をまき散らし、喜びに狂い踊りながら
来たれ、母よ、来たれ!

恐怖は汝の名前であり
死は汝の呼吸であり
ふるえる歩みの一歩一歩が
永久に世界をうち砕く。

汝よ、時よ、万物の破壊者よ
来たれ、おお、母よ、来たれ!

悲惨をあえて愛し
死の影を抱きしめ
破壊の踊りを舞踏するもの−−
彼のもとに母は来たる。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(46)

 このころからのヴィヴェーカーナンダは、明らかに以前の彼とは違っていました。彼は弟子たちに、カーリー女神のことばかりを語るのでした。このころ、彼は弟子たちにこのように言いました。

「汝(カーリー女神)が私を殺害しても、それでも私は汝を信頼します!」

「苦悶の中にもまた、至福があります。」

「楽しさや喜びの中に母なる神を見出すように、悪、恐怖、悲哀、絶望などの中にも母なる神を認めるようになろう!」

「死について瞑想せよ! 死について瞑想せよ! 恐怖すべきものを崇拝せよ! 恐怖すべきものを、恐怖すべきものを!
 そして、母そのものがブラフマンだ! 彼女の呪いさえも恵みだ。 
 心は一つの火葬場とならなければならない。――おごり、利己主義、そして欲望、一切が燃えて灰となるべきです。そのとき、ただそのときにのみ、女神は来られるでしょう。」

「ハリ・オームはもう必要ではない! 今はすべてマーだ!」


 善、秩序、美しさなどの中にのみ神を見るように教えられてきた西洋人の弟子たちは、このころのヴィヴェーカーナンダの教えに、一撃を受けました。のちにシスター・ニヴェーディターは、こう書いています。

「地震とか火山の噴火のときに神への心を持たずに、愛の神や神の摂理や慰めの神などにささげられる礼拝の底に存在している利己主義について、スワーミーが語ったとき、聞き手は圧倒されました。人はヒンドゥー教徒が『小売商売』と呼んでいるそのような礼拝が、心の奥底にあるのを知ったし、また神が善を通じてばかりでなく、悪によっても顕現するという教えの無限に偉大な大胆さと真実を知ったのです。
 個人的な自我によってくじかれることのない心と意志に対する真の態度は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの鋭い言葉によれば、
『生ではなく死を求め、刃の先に自らを投げつけ、恐怖すべきものと永遠に一つになる』
という決心でした。」


 あるときヴィヴェーカーナンダは、廃墟と化した寺院の中にある、カーリー女神の像を見つけました。それはイスラム教徒によって破壊されたのでした。それを見たヴィヴェーカーナンダは、悲しみで心を満たし、一人つぶやきました。
「どうして人々は不屈の反抗もできずに、このような冒涜を許したのか。もし私がそのときここにいたならば、このようなことは決して許さなかったでしょう。私は母なる神を守るために、命を投げ出したでしょう。」
 そのとき、母なるカーリーの言葉が、ヴィヴェーカーナンダの耳に、はっきりと聞こえました。
「信仰心のない者がこの寺院に入ってきて、私の像を汚してもかまわない。あなたにとってそれがどれほどのことでしょう。あなたが私を守るのですか。それとも私があなたを守るのでしょうか。」
 
 この体験に言及して、ヴィヴェーカーナンダは弟子たちに言いました。
「私の愛国心はすべてなくなりました。あらゆるものがなくなりました。今はただ、マー! マー! があるのみです。私は大変な間違いをしていました……私は幼い子供にすぎません。」

 彼はさらに続けようとしましたが、言葉が出ませんでした。彼は話を続けられないと述べ、最後に意味ありげに、次のように付け加えました。
「精神的には、もはやこの世に束縛されていない。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(47)

 1898年12月9日、ベルルのラーマクリシュナ僧院の礼拝堂の中に、ラーマクリシュナの像が、ヴィヴェーカーナンダによって正式に安置されました。

 ヴィヴェーカーナンダはこの僧院の栄光ある未来について、こう語りました。
「ここは聖ラーマクリシュナの生涯に実証された一切の信条と信仰の偉大な調和が認められ、実践されるセンターとなるでしょう。そして、普遍的立場に立つ宗教のみが説かれるでしょう。普遍的な寛容性を有するこのセンターから、全世界を満たす善意、平和、そして調和の輝けるメッセージが送りだされるでしょう。」

 
 1899年一月には、ベンガル語の月刊誌「ウドボーダン」の出版が始まりました。
 また、ベルル僧院の組織を援助するために兄弟弟子のサーラダーナンダがアメリカから帰って来て、トゥリヤーナンダとともに、僧院で正規の授業を受け持ちました。
 また、ヴィヴェーカーナンダは自身の弟子たちをインドの各地に布教のために派遣し、兄弟弟子のシヴァーナンダは、布教のためにセイロン(スリランカ)へと向かいました。
 ヴィヴェーカーナンダは、こういった教団の様々な活動の着実な発展を見て喜びました。

 しかしカシミールから帰って以来、ヴィヴェーカーナンダの健康は、日に日に悪化していました。特に喘息が彼を苦しめていました。しかし救済の仕事に関する情熱は、数倍にも増していました。ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「アマルナートに行って以来、シヴァ神が私の脳髄の中に入っています。シヴァ神は去っていきません。」

 兄弟弟子たちの熱心な勧めで、ヴィヴェーカーナンダはしばしば治療のためにカルカッタに住みました。しかしそのような時でさえ、信者たちが教えを請うて朝から晩まで訪れたため、ヴィヴェーカーナンダがゆっくりと休息することはできませんでした。兄弟弟子たちが、時間を決めて訪問者と会うように勧めたとき、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「あの人たちは大変な苦労をしながら、家からずっと歩いてきたのです。私が少しばかり自分の健康を害しているからといって、あの人たちと二言、三言の言葉さえ交わしもせずに、ここに座っておられるでしょうか。」

 彼の言葉と態度は、かつての重病のときのラーマクリシュナとあまりにも似ていたので、プレーマーナンダは言いました。
「私たちには聖ラーマクリシュナとあなたとの区別がつきません。」


 ヴィヴェーカーナンダが全霊を傾けて取り組んでいた最大の関心事は、彼のメッセージの将来の伝達者である、修行者たちの訓練でした。ヴィヴェーカーナンダは彼らに瞑想と奉仕活動を奨励するとともに、自ら手本を示しました。彼らのためにヴィヴェーカーナンダ自ら料理をしたり、庭を耕したり、井戸を掘ったりしました。また、彼らに準備もせずに聴衆の前で話をさせることで、伝道者になるべく教育をするのでした。
 初心者には食事についての規定も厳しく定め、また朝早く起き、瞑想し、宗教上の義務を厳しく遂行する、規則正しい生活を奨励し、現世の人々との交わりを避けさせました。そしてとりわけ、どんな形でも、怠惰に流れないようにと絶えず彼らをさとしました。

 ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「私には休息はありません! 死ぬまで働き続けます! 行動を愛します! 人生は戦いだ。行動に生き、死のう!」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(48)


 ブラフマンに没入する個人的な解脱を欲していた弟子に対して、ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「なぜですか。サマーディにいつもぼうぜんと浸っていて何になるのですか。不二一元のインスピレーションのもとで、どうしてシヴァ神のように、ときには踊ったり、ときには超意識の中に深く沈んだりしないのですか。ごちそうをより多く楽しむのは誰ですか。――自分ひとりで全部食べる人か、それとも他人と分け合って食べる人ですか。たとえ瞑想によって真我を悟って解脱を得られたとしても、世間にはそれがなんの役に立つだろうか。私たちと共にある全世界を解脱に向かわせねばなりません。偉大なるマーヤーの領域で大火災を起こそう。そのときにのみ、あなたがたは永遠の真理を確立されるでしょう。
 おお、何を、大空のように無限な計り知れない至福と比較できるだろう! その状態においては、あなた方はわれを忘れて、息をするあらゆる生物の中に、宇宙のあらゆる原子の中にあなた方の自我を見ることで、言葉を失うでしょう。
 このことを悟るとき、あなた方はこの世に暮らして必ず偉大なる愛と憐れみをもって人に接します。これこそが、実践的ヴェーダーンタです。」

 またあるときは、同様に自分が救われることだけを望んでいた弟子に対して、こう言いました。
「もしあなた方が自分の救済のみを求めるならば、地獄に落ちるでしょう!
 至高なるものへの到達を欲するならば、他人の救済を求めなさい。個人的な解脱の願いを捨てなさい。これが最も偉大なる精神上の教えです。
 諸君、働きなさい。全身全霊を込めて働きなさい! 望まれているのはこのことです。仕事の結果に心を向けてはなりません。他人のために働いて、地獄に落ちようと、それがどうしたというのか。それは自分だけの救済を求めて天国に行くよりも、はるかに価値のあることです。
 聖ラーマクリシュナは、自分の生命をこの世の人にささげるために来ました。私もまた自分の生命を犠牲にします。あなた方一人一人が、同じようにすべきです。
 これらの仕事はほんの始まりにすぎません。私を信じなさい。流れ出る私の生き血から、全世界に大変革を起こす巨人のような英雄的な働き手たち、神の戦士たちが生まれるのです。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(49)

 ヴィヴェーカーナンダは、自らが種をまいた西洋布教の仕事を視察し、また激励するために、再び西洋に向かう計画を立て、その同伴者として、弟子のニヴェーディターと、兄弟弟子のトゥリヤーナンダを選びました。
 しかしトゥリヤーナンダは、人生のほとんどを瞑想修行に費やし、公の仕事を嫌っていたため、最初はこのヴィヴェーカーナンダの依頼を拒否しました。いくらヴィヴェーカーナンダが論理的に説得しようとしてもなかなか承諾しなかったため、最後はヴィヴェーカーナンダはトゥリヤーナンダの首に手をまわして、泣きながら言いました。
「なあ、君よ。師の使命を果たすために、私が生命を一寸刻みに消耗しつつあることを知らないのか。今、私は師の瀬戸際に立っているのです! あなたは私の大いなる重荷の一部を助けようともせずに見ていることができますか。」

 このヴィヴェーカーナンダの心からの言葉に、トゥリヤーナンダは深く感動し、ヴィヴェーカーナンダとともに西洋に行くことを承諾しました。そして聖典に精通しているトゥリヤーナンダは、ヴェーダーンタの聖典を西洋に持っていくべきかと尋ねると、ヴィヴェーカーナンダはこう答えました。
「ああ、彼らは学識と書物は十分持っていますよ! この前、彼らはクシャトリヤ(武士)を見ました。今度はブラーフマナ(僧)を彼らに見せたいのです。」

 ヴィヴェーカーナンダは、クシャトリヤという言葉で自らの気質を示し、ブラーフマナという言葉でトゥリヤーナンダの気質を示したのでした。


 1899年6月、ヴィヴェーカーナンダ一行を乗せた西洋行きの船が出港しました。この長い船旅の中でヴィヴェーカーナンダは、ニヴェーディターとトゥリヤーナンダに、多くの生き生きとした言葉を語りました。

「悪事さえも男らしく行ないなさい! もしあなたが必要なら悪人になりなさい。スケールの大きな悪人に!」

「私たちが取り除かねばならないのは、利己主義です。私は人生において過ちを犯したときはいつも、打算的になった自我のせいだと思っています。自我が入りこまなかったところでの私の判断は、目標に向かって真っすぐに進みました。」

「戦い、戦い続けなさい。いつもうち破られても。これが理想です! これこそが理想なのです!」

「私自身の理想は、セポイの反乱において、殺害されたあの偉大な聖者です。心臓を突き刺されたとき、沈黙を破って『汝もまた神です』と言った聖者です。」


 7月の末、一行はロンドンに到着し、ヴィヴェーカーナンダは多くの弟子や友人と再会しました。そして八月、今度はニューヨークに向けて出発しました。そしてニューヨークにおいて、ヴィヴェーカーナンダとトゥリヤーナンダは、兄弟弟子のアべーダーナンダと再会し、そして彼ら自身、数々の講演をしたり、クラスを受け持ったりしました。


 あるとき、パサデナのユニバーサリストの教会において、ヴィヴェーカーナンダは「伝道者・キリスト」と題された、のちに非常に有名になった講演を行ないました。このとき、ヴィヴェーカーナンダの近しい信者のマクラウド嬢は、ヴィヴェーカーナンダの周りに後光がさしているのを見ました。
 講演終了後、ヴィヴェーカーナンダは物思いにふけりながら、家路についていました。マクラウド嬢はその少し後ろを歩きながら、師は何を思索しているのだろう、と考えていました。
 すると突然ヴィヴェーカーナンダは、「わかった! わかった!」と叫びました。
「何がわかったのですか?」
とマクラウド嬢が尋ねると、ヴィヴェーカーナンダは答えました。
「マリガトーニー・スープの作り方です。風味用に月桂樹の葉を少し入れるのです。」
 こう言うとヴィヴェーカーナンダは大笑いしました。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(50)

 ヴィヴェーカーナンダは講演のためにアメリカ中を回った後、再びニューヨークに戻ると、トゥリヤーナンダに、新しい仕事を依頼しました。それは、信者から寄付された北部カリフォルニアの新しい土地に作る新しい道場の運営でした。その道場は、「シャーンティ・アシュラム」と名づけられました。

 トゥリヤーナンダとの別れに際して、ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「カリフォルアのアシュラムで、ヴェーダーンタの旗を掲げてください。その瞬間から、インドの思い出さえも消し去りなさい。とりあえず、そこで暮らしなさい。そうすれば、母なる神がいろいろ面倒を見てくれるでしょう。」


 さて、このように再びアメリカで忙しく動き回っていたヴィヴェーカーナンダでしたが、すべてがうまくいっていたというわけでもありませんでした。
 ヴィヴェーカーナンダが信頼を置いていたイギリス人の弟子であるスターディ氏は、ヴィヴェーカーナンダが西洋では苦行者の生活を送っておらず、贅沢に堕していると感じて、ヴィヴェーカーナンダのもとを去ってしまいました。
 また、かつてベルル僧院を建立するために多額の援助をしたミュラー嬢は、ヴィヴェーカーナンダが病気にかかっているのを知ると、信を失い、彼のもとを去りました。彼女の中では、神聖さと病気を同時に受け入れることができなかったのです。
 また、ヴィヴェーカーナンダがアメリカを訪れた理由の一つは、インドでの様々な活動のための資金を集めるためでもありましたが、ヴィヴェーカーナンダの講演には無数の人々が集まったにも関わらず、資金援助を申し出る人はごくわずかでした。
 また、アメリカ布教を担当していた兄弟弟子のアべーダーナンダはヴィヴェーカーナンダの幾人かの弟子たちと折り合いが悪く、またさまざまな理由で、何人もの信者たちがヴィヴェーカーナンダのもとを去っていきました。

 こういったことのすべてはヴィヴェーカーナンダの心を悲しませ、また彼はこの世での自分の使命が終わりに近いことを感じ取っていました。ヴィヴェーカーナンダはこの世での様々な仕事への興味を、急速に失っていきました。彼はオーレ・ブル夫人への手紙の中で、次のように書きました。

「私はほんの子供にすぎません。どんな仕事を私はしなければならないのでしょうか。私は自分の力をあなたに譲りました。もうこれ以上、演壇から話をすることはできません。うれしいです。休息したいのです。私は疲れているのではなく、次の段階は超自然的なものとのふれあいとなり、言葉は必要ではなくなるからです。――ラーマクリシュナのように。言葉はあなたのもとへ行き、仲間たちはマーゴット(ニヴェーディター)のもとへ行ってしまいました。」


 また、ある友人への手紙には、次のように書いています。

「私の船は、もう二度と出港することのない静かな港に近づきつつあります。栄光あれ! 御母の上に栄光あれ! 今は望みも野心もありません。御母に栄光あれ! 私はラーマクリシュナのしもべです。私は単なる機械にすぎません。私はもうこれ以外は何一つ知りませんし、また知りたいとも思いません。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(51)

 また、別の友人への手紙には、次のように書きました。

「母なる神の意のままに、一人漂うのが私の人生でした。それを破ろうとした瞬間に、まさにその瞬間に私は傷つきました。母の意思がそうしたのです。
 私は平和で幸福です。以前にも増してはるかに出家修行者として幸福です。私の親類縁者に対する愛は、日ごとに薄らいでいきます。母に対する愛は増していきます。
 ドッキネッショルのバンヤンの木の下で、聖ラーマクリシュナと徹夜をした長い夜の思い出が、もう一度よみがえってきます。
 私は母なる神の子供です。母は仕事をし、遊びます。どのように計画を立てるべきだろうか。どんなことを計画するだろうか。事物ができては消えていきます。母が好むがままに。私が計画を立てているにもかかわらず、それにはお構いなしに。私たちは母の自動操作です。母は操り人形師なのです。」


 また、マリー・ハルボイスター嬢への手紙には、次のように書きました。

「このおもちゃ同然の世界は、ここにはなく、この遊びも続けられません。
 もし私たちが遊ぶ人たちを知ったならば、私たちは目隠しされて遊ばねばなりません。
 私たちの幾人かは悪人の役を受け持ちました。ある人は英雄の役を。――気にしなさんな。すべてが遊びです。
 舞台の上には、悪魔やライオンやトラや、その他いろいろなものがおりますが、皆、口輪をはめられています。飛びかかってはきますが、かみつきはしません。その世界は私たちの魂に触れることはできません。」


 また、最も忠実な信者の一人、マクラウド嬢への手紙には、次のように書きました。

「シヴァ神、おお、シヴァ神よ、私の船を向こう岸に運んでください!
 私はもはやドッキネッショルのバンヤンの木の下で、ラーマクリシュナの素晴らしい言葉をうっとりと聞き入っていた少年にすぎません。これが私の真の本性です。――仕事、活動、善をなすことなどは、すべてつけたしです。今、私は再び彼の声を、私の魂を震え上がらせたあの同じ昔の声を聞きます。
 絆が切れつつあります。愛も滅びつつあり、仕事も無味乾燥になりつつあります。生きる気力が去っていきます。今は、師の呼ぶ声のみが聞こえます。――行きます。愛する神よ、私は行きます。
 ええ、私は行きます。ニルヴァーナは私の前にあります。さざ波一つ立たない、息吹のひと声も聞こえないこの無限の平和の大海を、私はそれを時々感じます。
 私は生まれたことを喜んでいます。大変苦しんだことを喜んでいます。大失敗をしたことも喜んでいます。静寂に入ることを喜んでいます。
 世界は存在します。しかし、美しくも醜くもなく、何らの感情の高ぶりもない感覚の束としてあるのです。おお、その至福よ! すべてのものが善であり、美しい。というのは、私にとっては事物は、それらの相対的な均整をすべて失いつつあるからです。――私の肉体からまず最初に。オーム、その実在者よ。
 素敵なことが、ロンドンやパリにいるあなた方皆のもとにやってきますように。清新な喜び、心と体への清新な恩恵が。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(52)

 アメリカでの仕事を終えた後、ヴィヴェーカーナンダは再びヨーロッパにわたり、さまざまな仕事をなした後、インドへの帰途につきました。

 第一回目の欧米旅行は、ヴィヴェーカーナンダに大きな希望をもたらしました。しかし二度目の欧米旅行によって、ヴィヴェーカーナンダは大きな幻滅と失望を感じました。
 ヴィヴェーカーナンダは近しい弟子に、こう語りました。
「アメリカは、東洋と西洋が調和する手段にはなりえないだろう。」
「ヨーロッパは、大規模な軍隊のキャンプである。」

 1900年12月9日の夜、ヴィヴェーカーナンダはベルル僧院に帰ってきました。ヴィヴェーカーナンダはインドに帰国したことを誰にも知らせておらず、僧院の門には夜なので鍵がかけられていました。そのとき、夕食の時間を告げる鐘の音がなりました。ヴィヴェーカーナンダは、仲間たちとの食事の輪に加わりたいと思い、僧院の門をよじ登り、中に入りました。突如、門をよじ登ってあらわれたヴィヴェーカーナンダを見ると、法友たちの大歓声が沸き起こりました。

 ヴィヴェーカーナンダは、愛するイギリス人弟子のセヴィアーや、最初の欧米旅行の時に資金を負担してくれたケトリーのマハーラージャなどが亡くなったのを知らされました。悲しみをこらえつつ、ヴィヴェーカーナンダはしばらくの間また、インド中を様々な仕事で走り回りました。日に日に悪化する健康状態を心配して、法友や弟子たちは、ヴィヴェーカーナンダに休息を促しました。ヴィヴェーカーナンダは彼らを安心させるため、しばらくの間、僧院でのんびりとした休息の日々を送りました。
 動物好きのヴィヴェーカーナンダは、僧院で動物たちに囲まれて暮らしました。犬、ヤギ、シカ、サギ、牛、ヒツジ、アヒル、ガチョウなどと一緒に、ヴィヴェーカーナンダは子供のように遊び戯れました。
 
 肉体は日に日に弱まっていったにもかかわらず、ヴィヴェーカーナンダの心は輝いていました。ある日、彼はこう言いました。
「たった一つ、喜んでよいことがあります。それは、人生が永遠でないということです。」


 1902年2月、ベルル僧院において、ラーマクリシュナ生誕祭がベルル僧院で催されました。三万人以上の人々がその祭典に参加しましたが、ヴィヴェーカーナンダは熱があり、両足が腫れていたため、部屋に引きこもり、窓から帰依者たちの歌や音楽を見ていました。
 そのとき、付き添いの弟子に、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「真我を悟った人は、偉大な力の宝庫になります。その人が中心となって、精神力が発散し、ある範囲内で働きます。この範囲内に入る人々は、彼の理想に鼓舞され、圧倒されます。このようにして、宗教的努力をあまりせずして、彼らは悟った人の精神的体験から恩恵を受けるのです。これが恩寵と呼ばれています。
 聖ラーマクリシュナを知った人は祝福されています。あなた方もすべて、彼のヴィジョンを得るでしょう。あなた方がここに来た時には既に彼のそばにいるのです。聖ラーマクリシュナとして彼がこの地上に降りてきたことを理解できた人はだれ一人としていませんでした。彼の側近の帰依者たちでさえ、その本当の話の手がかりすら分かってはいません。ほんの数人の人々がそれを薄々感じているにすぎません。そのうちに、すべての人が理解するでしょう。」


 ベルル僧院のやり方は、保守的なヒンドゥー教徒たちから見ると革新的な面が多々あり、それをよく思わない人々が、彼らの醜聞を作り上げ、批判を繰り返しました。これを耳にしたとき、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「それでいいのです。自然の法則なのです。それがあらゆる宗教の創始者たちのたどる道ですよ。迫害なしに、すぐれた思想は社会の心の中に入ることはできません。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(53)

 1901年、日本から二人の訪問者が、ヴィヴェーカーナンダを訪ねてきました。それは芸術家の岡倉天心と、僧侶の織田得能でした。彼らは日本で計画されていた世界宗教会議への出席を、ヴィヴェーカーナンダに要請に来たのでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、ことのほか岡倉には好意を抱き、
「私たちは地球の端からやってきて、再び出会った二人の兄弟です。」
と言いました。しかし日本への訪問は断りました。それは健康上の理由に加えて、その当時の日本人が仏教を間違えてとらえていると理解しており、ヴィヴェーカーナンダがヴェーダーンタの不二一元論思想を唱えても、それが日本人に正しく理解されるか疑問だったためといわれています。

 岡倉天心は、ヴィヴェーカーナンダを日本に連れてくることはできませんでしたが、代わりに、ブッダの悟りの地であるブッダガヤーに、ヴィヴェーカーナンダと一緒に行きたいと懇願しました。病気が小康状態を迎えたこともあり、ヴィヴェーカーナンダはその希望を受け入れ、1902年の1月から2月にわたり、ヴィヴェーカーナンダと岡倉天心は、ブッダガヤーやベナレスを旅しました。それはヴィヴェーカーナンダにとっての最後の旅となりました。
 ヴィヴェーカーナンダは、彼自身の39歳の誕生日の朝、ブッダガヤーに到着しました。

 かつてヴィヴェーカーナンダは、まだラーマクリシュナが存命中にブッダガヤーやベナレスを訪れ、ベナレスを離れる時に、このように言いました。
「私が雷電のように社会の上に落ちるその日まで、決してこの場所を再び訪れないでしょう。」

 ヴィヴェーカーナンダはその言葉通り、インドや欧米に真理の雷電を響きわたらせ、その生涯の終りを目前にして、再びベナレスの地を踏んだのでした。

 ブッダガヤーとベナレスの旅からベルル僧院に帰った後、ベンガルの湿った空気の中で、喘息や糖尿病などのヴィヴェーカーナンダの持病は悪化の兆候を見せました。特に糖尿病による水腫はひどく、足は腫れあがり、眠るときも目を閉じることができなくなりました。
 肉体はひどい状態にありましたが、ヴィヴェーカーナンダの精神は変わらず生気を保っていました。このころ、彼はよく最新版の大英百科辞典を読んでいるのが見られました。わずかな間に、ヴィヴェーカーナンダはその分厚い時点の十巻ほどを涼しげに読破すると、弟子のひとりに、その十巻の中のどんなことでもいいから質問するようにと言いました。弟子が質問をすると、ヴィヴェーカーナンダはその質問に対して専門的な知識を披露したばかりか、その辞典のここかしこからの引用まで示しました。
 驚く弟子に対して、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「不思議なことは何もない。思想と行動における完全な純潔を遵守した人は、心の記憶力を発揮でき、たった一度、それも数年前に聞いたり読んだりしたことでさえ、正確に再現できるのだ。」
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(54)

 ある日、ヴィヴェーカーナンダは、ベルル僧院の庭のマンゴーの木の下に作られた、簡易寝台の上に座っていました。彼の周りで出家僧たちは忙しげに日常の義務を果たしていました。一人の出家僧が大きなほうきで庭を掃いていました。プレーマーナンダは、沐浴を終え、ちょうど礼拝堂への階段を上っているところでした。
 そのとき突然、ヴィヴェーカーナンダの目が輝きました。感動に震えながら、彼は言いました。
「あなたはブラフマンをどこに探しに行くのですか。ブラフマンはすべてのもののなかに内在しています。ここに、ここに、目に見えるブラフマンがおわします! 目に見えるブラフマンをなおざりにして、他のものに心を注ぐとは、恥を知りなさい! 手の中にある果物と同じように実感できるものとして、あなたの前に、ここに目に見えるブラフマンがいます! あなたには見えないのですか。ここに、ここに、ここにブラフマンがいます!」

 このヴィヴェーカーナンダの言葉は、電気ショックのように、その時その付近にいた人々を突き刺しました。15分間ほど、彼ら全員がまるで石になったかのように、その場にたたずんでいました。掃除人の手のほうきは止まりました。プレーマーナンダは恍惚状態になりました。そこにいた誰もが、言いようもない心の安らぎを経験しました。


 日に日に悪くなっていくヴィヴェーカーナンダの健康状態を心配して、兄弟弟子たちは、ヴィヴェーカーナンダが訪問者たちに教えを説くのをやめさせようとしました。しかしヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「ねえ! この肉体が何が良いのですか? 人々を助けに行こう。われわれの師はその臨終まで教えを説かれたではないか。そして私も同じことをしてはいけないのですか。肉体が滅び去ってもかまいません。真理を求めるまじめな求道者に会って話をするとき、どんなに私が幸福であるかあなたたちには想像もつきません。同胞たちの真我を目覚めさせる仕事のためなら、私は何度でも喜んで死にましょう!」


 ヴィヴェーカーナンダはその死の直前まで、肉体の苦痛を顧みず、僧院の日常生活の隅々まで細かく指導の目を光らせました。彼は修行僧たちに清潔さを要求し、皆が部屋に風を通し、きちんと手入れしているかどうかベッドを調べてまわりました。一週間の時間表を作り、それが几帳面に守られているかをチェックしました。聖典のクラスは毎日開かれ、可能であればヴィヴェーカーナンダ自身が教えました。
 死の三か月前、ヴィヴェーカーナンダは、朝四時に、部屋から部屋へと僧侶たちを起こしに鈴を鳴らすという取り決めを作りました。彼らは三十分以内に、瞑想のために礼拝堂に集まらなければなりませんでした。しかしいつも、ヴィヴェーカーナンダが一番早くそこに来ていました。彼は毎朝三時に起き、礼拝堂に座り、そのまま二時間以上瞑想をするのでした。ヴィヴェーカーナンダが瞑想の座を立つ前に、他の誰かが座を立つことは許されませんでした。
 ブラフマーナンダは言いました。
「ナレーン(ヴィヴェーカーナンダ)と一緒に座り瞑想をすると、人はただちにブラフマンに没入してしまう! ところが一人で座っているときには、それを感じません。」

 あるときヴィヴェーカーナンダは、病気のために数日間、朝の瞑想を休みました。数日後、朝の礼拝堂にヴィヴェーカーナンダが顔を出すと、そこにはたった二人の者しか瞑想していないのを見て、ヴィヴェーカーナンダは怒り、欠席者たちに、僧院で食事をすることを禁じました。たまたまその日だけ瞑想を休んだ最愛の兄弟弟子に対しても、ヴィヴェーカーナンダはその厳しい処置をゆるめませんでした。

 ある日は、兄弟弟子のシヴァーナンダが、瞑想の時間になってもベッドで眠っているのを見て、ヴィヴェーカーナンダは彼にやさしく言いました。
「ねえ、あなたには瞑想など必要ないということは分かっています。あなたは聖ラーマクリシュナの恩恵によって、最高の目標にすでに達しておられますから。しかし、若い者たちに手本を示すために、彼らと一緒に毎日瞑想すべきです。」

 その日以来シヴァーナンダは、病気であろうと何であろうと、いつも若い仲間たちと共に礼拝堂で早朝の瞑想を続けたのでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(55)

 死の数か月前、ヴィヴェーカーナンダはインドや世界の各地に散らばっていた弟子たちに非常に会いたがり、ほんの少しでもいいからベルル僧院に来るようにと手紙を書きました。世界の各地から、多くの弟子たちがヴィヴェーカーナンダのもとに集まってきました。地球の反対側からやってきた弟子たちもいました。ヴィヴェーカーナンダは病気でしたが、まだ39歳の若さだったため、死が間近に迫っているなどとは、そのときは誰も考えていませんでした。そのため彼らは、ヴィヴェーカーナンダとの再会を喜んだあと、気軽にまた別れを告げ、帰って行ったのでした。

 1902年5月、ヴィヴェーカーナンダは最愛の弟子のひとりであるマクラウド嬢に、最後の手紙を書きました。
「私は幾分良くなっていますが、もちろん、期待からはほど遠い状態です。静寂という大いなる考えが浮かんできました。私は永遠に隠退しようとしています。これ以上、仕事はごめんです。できるならば、昔の托鉢時代に戻りたいものです。ジョーよ、すべての祝福があなたに恵まれますように。私にとってあなたは良き天使でした。」


 ある日、兄弟弟子の一人が、全く偶然に、何気なく、ヴィヴェーカーナンダに尋ねました。
「あなたはもう、自分が誰であるかをご存知ですか?」
 ヴィヴェーカーナンダは答えました。
「はい、知っています。」
 この回答を聞いて、そこに居合わせた人々はみな、恐れました。というのもかつてラーマクリシュナは、ヴィヴェーカーナンダが自分が誰であるかを知ったならば、もはや彼はそれ以上生きようとはしないだろうと予言していたからです。
 みなは沈黙し、それ以上ヴィヴェーカーナンダに質問することはありませんでした。


 死の2日前、7月2日の水曜日、ヴィヴェーカーナンダは断食をしていました。その日の朝、ニヴェーディターが、彼女が指導する学校の問題についての質問をしにヴィヴェーカーナンダを訪ねてきました。しかしヴィヴェーカーナンダはその質問には興味を示さず、他の僧に任せると、ニヴェーディターの反対を押し切って、彼女の朝食の準備を始めました。
 ヴィヴェーカーナンダはニヴェーディターのために、ジャックフルーツの実の煮つけ、ポテト、ご飯、冷たい牛乳などを給仕しました。ニヴェーディターは師と楽しく雑談をしながら、それらを味わいました。
 食事の終りに、ポットの水で手を洗うとき、ヴィヴェーカーナンダ自身が、弟子であるニヴェーディターの手に水を注ぎ、タオルでそれをふいてあげました。
 ニヴェーディターはその行為に対し、強く抗議しました。
「それは弟子である私の方こそが、あなたにすることです。スワミジー! あなたがなさることではありません!」
 それに対してヴィヴェーカーナンダは、まじめな顔をして答えました。
「イエス様も、弟子たちの足を洗いました!」
「それは!――」
 ニヴェーディターは、次の一言を言えずに、言葉に詰まりました。おそらくニヴェーティターの頭にも浮かんでいたであろうその言葉を、ヴィヴェーカーナンダ自身が言いました。
「しかしそれは、最期のときでした!」
 それ以上、ニヴェーディターは何も言えませんでした。ヴィヴェーカーナンダもまた、何も言いませんでした。
聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(終)

 7月4日の朝、ヴィヴェーカーナンダは非常に早く起きると、礼拝堂に鍵をかけ、ただ一人で三時間ほど瞑想しました。瞑想から立ち上がると、聖堂の階段を降りながら、カーリー女神の美しい歌を歌いました。

 私の母、カーリーは本当に黒いでしょうか。
 女神は黒く見えるけど、裸の女神は心の蓮華に灯をともします。
 人は女神が黒いという。
 しかし私の心は、女神がそうだとは信じません。
 女神はときには白く、赤く、ときには青く、また黄色に見えます。
 私は母がどんな方か、ほとんど知りません。
 終生、考えましたが、ときにはプルシャ、ときにはプラクリティ、
 そしてときには空なるものに思われます。
 これらすべてを瞑想すると、哀れなカマラーカーンタの智慧も困惑します。

 そしてヴィヴェーカーナンダは、囁くように言いました。
「もしもう一人のヴィヴェーカーナンダがいたならば、このヴィヴェーカーナンダが何をなしたかを理解したであろう! 
 そして時が来れば、多くのヴィヴェーカーナンダが生まれてくるであろう!」


 またその日の午後、ヴィヴェーカーナンダは僧院の仲間たちと、さまざまなことを語り合いました。そして彼はこう言いました。
「インドが神を求め続けるならば、インドは不滅である。
 しかしインドが政治や社会闘争に走るならば、滅びるであろう。」

 夜七時、礼拝の時間を告げる鐘が鳴りました。ヴィヴェーカーナンダは自分の部屋に行き、付き添いの弟子に、自分が呼ぶまで誰も入ってこないようにと指示しました。ヴィヴェーカーナンダはは数珠を繰りながら一時間ほど瞑想すると、弟子を呼び、窓を全部開け、団扇であおいでくれるように頼みました。
 ヴィヴェーカーナンダは数珠を手にしたまま、静かにベッドに横になりました。一時間後、ヴィヴェーカーナンダの両手が少し震え、そして一度、非常に深く呼吸をしました。1、2分後、再び非常に深い呼吸をしました。彼の眼は眉間に寄り、神聖な表情を浮かべたまま、マハーサマーディ、永遠の静寂に入っていきました。
 そのとき、ヴィヴェーカーナンダの目と口には、血が滲んでいました。これは伝統的なヨーガの考えによると、ヨーガ行者の魂が、頭頂の出口から抜け出て、高い世界へ行ったことの証とされていました。

 それは1902年7月4日の夜9時10分のことでした。ヴィヴェーカーナンダはかつて、「私は40歳までは生きられないだろう」と言っていましたが、その予言通り、彼は39歳と5カ月24日にして、この世を去ったのでした。


 次の日、あらゆる地方から信者たちが集まって来て、遺体の火葬が行なわれました。ニヴェーディターは悲しみをこらえきれず、多くの人々がいるにも関わらず、子供のように泣きながら、地面を転げまわりました。
 そのとき突然吹いた風が、焼かれているヴィヴェーカーナンダの遺体に巻かれていた黄色い布の一片を空に飛ばし、それがニヴェーディターの膝の上に落ちました。彼女はそれを師の祝福と考え、大事に懐に収めました。

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