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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  270  

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 コレットはローマへ出発した。

 エマニュエルは何にも知らなかった。

 そしていつものとおり疑心深くて、クリストフから訪問の返しを受けないので、不満に思って沈黙を守った。

 そしてクリストフは、あたかも妊娠の女が大事な荷を負うように、今や自分の魂の中に負うている彼女を相手に、だれにも邪魔されることなく、幾日も無言の対話にふけった。

 いかなる言葉にも移せない痛切な対話だった。

 音楽をもってしても表現しがたいものだった。

 心がいっぱいになってあふれるほどになると、クリストフはじっと眼をふさいで、その心の歌に耳を傾けた。

 あるいは幾時間もピアノの前にすわって、自分の指先が語るに任した。

 この期間だけの間に彼は、他の時期全体におけるよりもいっそう多くの即興曲をこしらえた。

 しかし彼は自分の考えを書き止めなかった。

 書き止めたとて何になろう?

 数週間たった後に、彼はまた外に出かけて、他人と会い始めた。

 しかしジョルジュを除いては、彼の親しい人々のうちでも一人として、どういうことが起こったかを気づいた者はなかった。

 そしてそのときまで、即興の鬼はなおしばらく残っていた。

 それはもっとも意外なときにクリストフを訪れた。

 ある晩クリストフはコレットの家で、ピアノについて一時間近くも演奏した。

 客間に他人がいっぱいいることも忘れて、まったく夢中になっていた。

 人々は笑う気になれなかった。

 その恐ろしい即興曲に圧せられ揺るがせられた。

 意味を理解しない人々までが胸迫る思いをした。

 コレットの眼には涙が湧《わ》いてきた……。

 クリストフはひき終えると、不意に振り向いた。

 人々の感動を見て、肩をそびやかした――そして笑った。

 苦悶《くもん》もまた一つの力となる――統御される一つの力となる――という点まで彼は達していた。

 彼はもはや苦悶に所有されずに、かえって苦悶を所有していた。

 それはあばれ回って籠《かご》の格子《こうし》を揺することはあっても、彼はそれを籠から外に出さなかった。

 そのころから、彼のもっとも痛烈なまたもっとも幸福な作品が生まれ出し始めた。

 たとえば福音書の一場面。

 ジョルジュはそれを見てとった。


 「婦《おんな》よなにゆえに哭《な》くや。」
 「わが主を取りし者ありていずこに置きしかを知らざればなり。」
 彼女かく言いて振り返りみ、イエスの立てるを見たり。
 されどもイエスなることを知らざりけり。


 または、一連の悲劇的な歌曲《リード》。それはスペインの俗謡の文句に作曲したもので、その中には黒い炎とも言うべき恋と喪との陰気な歌があった。


 わたしゃなりたい
 お前が埋まるその墓に、
 末の末まで
 お前を両手に抱かんため。


 または、静穏の島およびスキピオの夢と題された二つの交響曲《シンフォニー》。

 この交響曲の中では、ジャン・クリストフ・クラフトの他のいかなる作品におけるよりもいっそうよく、当時の音楽上のあらゆる美しい力の結合が実現されていた。

 薄暗い襞《ひだ》のある懇篤な学者的なドイツの思想、熱情的なイタリーの旋律《メロディー》、細やかな節奏《リズム》と柔らかい和声《ハーモニー》とに富んでるフランスの敏才、などが結合されていた。

 「大なる喪の悲しみのおりに絶望から生ずるその感激」は、一、二か月つづいた。

 それから後クリストフは、強健な心と確実な足取りとでふたたび人生に立ち帰った。

 悲観思想の残りの霧と堅忍な魂の灰色と、神秘な明暗の幻覚とは、死の風に吹き払われてしまった。

 消えてゆく雲の上に虹《にじ》が輝き出していた。

 涙に洗われたようないっそう滑らかな空の眼差《まなざし》が、雲を通して微笑《ほほえ》んでいた。

 それは山上の静かな夕ベであった。

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