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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  269

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 クリストフは長い間そのままでいた。

 夜となった。

 彼は苦しみもしなかったし、考えもしなかった。

 なんらのはっきりした形象もなかった。

 ある朧《おぼ》ろな音楽に理解しようともせずに聞き入ってる、疲れきった人に似ていた。

 夜が更《ふ》けたころ、彼は気力つきて立ち上がった。

 寝床の中に飛び込んで、重い眠りにはいった。

 交響曲《シンフォニー》はなお響いていた。

 そして今、彼は彼女を見た、いとしき彼女を……。

 彼女は彼のほうへ両手を差し出し、微笑《ほほえ》みながら言っていた。

 「もうあなたは火界を通り越しました。」

 すると彼の心は和らいだ。

 平安が星のきらめく空間に満ちていて、諸天体の音楽がその揺るがない深い大きな波をそこに広げていた……。

 彼が眼を覚ましたときにも(夜が明けていたが)、その異様な幸福は、聞こえた言葉の深い輝きとともになお残っていた。

 彼は寝床から出た。

 黙然たる神聖なる感激が彼を支持してくれた。


 汝よく考えみよ、
 ベアトリーチェと汝との間にはこの炎の壁あるを。


 しかるに今やベアトリーチェと彼との間の障壁は越えられた。

 すでに長い以前から、彼の魂の大半は壁の彼方《かなた》に行っていた。

 人は生きるに従って、創造するに従って、愛しそして愛する人々を失うに従って、ますます死から脱するものである。

 落ちかかってくる新たな打撃ごとに、鍛え出す新たな作品ごとに、自己から脱出して、自分の創《つく》った作品の中に、今は世に亡い愛する魂の中に、逃げ込んでゆくものである。

 ついには、ローマはもはやローマの中にはないようになる。

 自己のよき部分は自己以外のところにあるようになる。

 クリストフはただ一人のグラチアによって、まだ壁の此方《こちら》に引き止められていた。

 そしてこんどはグラチアも……。

 今や扉は苦悩の世界にたいして閉ざされてしまった。

 彼は内的昂揚《こうよう》の時期を過ごした。

 彼はもうなんらの鎖の重荷をも感じなかった。

 もう何事をも期待しなかった。

 もう何物にも従属しなかった。

 自由の身であった。戦いは終わってしまった。

 勇壮なる争闘の神――万軍の主たる神――が君臨している圏内から外に出で、戦争地域から外に出でて、彼は自分の足下に、燃ゆる荊の炬火《きょか》が暗夜のうちに消えてゆくのをながめた。

 ああすでにその炬火もいかに遠くなってることぞ!

 彼はその光に道を輝《て》らされてたときには、もうほとんど絶頂に達したものだと思っていた。

 それから後いかほど歩いてきたことだろう!

 それでも頂は少しも近くなったようには見えなかった。

 永久に歩きつづけても頂には達せられないかもしれない(彼は今やそのことを知っていた。)

 けれども、光明の圏内にはいり込むときには、愛する人々をあとに残してゆかないときには、その人々といっしょに道を進む以上は永久もさほど長いものではない。

 彼は扉《とびら》を閉め切ってしまった。

 だれもそれをたたいて訪れる者はなかった。

 ジョルジュは同情の力を一度にすっかり費やしてしまった。

 家に帰ると安心して、翌日はもうそのことを考えなかった。

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