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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村 湖人  189

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 かれは、しかし、容易に立ちあがろうとはしなかった。

 そして、机の上にあったはがきに、かなりながいこと眼をこらしていたが、いきなりそれをとりあげると、両手でもみくちゃにし、屑《くず》かごの中に投げこんだ。

 そのあと、やっと思いきったように、立ちあがるには立ちあがったが、それでもすぐには室を出ようとせず、うつろな眼を戸口に注《そそ》いだまま、立ちすくんでいた。

 かれが空林庵の玄関《げんかん》をはいったのは、それからおおかた、十分ほどもたったあとのことだったのである。

 先生の書斎《しょさい》からは、にぎやかな話し声がきこえていた。

 かれは、しいて自分をおちつけながら、玄関をあがり、書斎のふすまをあけたが、その瞬間《しゅんかん》、みんなの顔がピントのあわない写真のようにかれの眼にうつった。

 「何かお仕事でしたの?」

 朝倉夫人がたずねた。

 「ええ、……ちょっと。」

 次郎は、突っ立ったまま、どもるようにこたえた。

 「めずらしいお客さまでしょう。」

 「ええ。」

 次郎は、しかし、道江のほうは見ないで恭一に向かってわざとらしく、

 「やあ。」

 と声をかけ、自分のすわる場所を眼でさがした。

 「どうぞ、あちらに。」

 朝倉夫人に指さされた座ぶとんは、恭一と道江との間にはさまれていた。

 入り口に近いほうに夫人と道江、床《とこ》の間《ま》に近いほうに先生と恭一とが席を占《し》めていたのである。

 かれがまだ尻《しり》をおちつけないうちに、

 「次郎さん、しばらく。」

 と、道江が座ぶとんを半分すべって、あいさつをした。

 「やあ、しばらく。」

 次郎も、すぐあいさつをかえしたが、道江の顔をまともには見ていなかった。

 かの女《じょ》の羽織《はおり》や帯の色が、美しい雲のように、うずを巻いて、眼のまえに浮動《ふどう》するのが感じられただけだった。

 「道江さんにお会いするのは、私も家内も今日がはじめてなんだよ。
  君のお父さんからのお手紙や何かで、お名前だけは、すこし前から存じていたんだがね。」

 朝倉先生が次郎に言った。

 次郎は、固くなって、

 「はあ。」

 とこたえたきりだった。

 しかし、心の中では、父が朝倉先生にあてた手紙に道江のことを書いたとすれば、それは恭一との婚約《こんやく》に関係したことにちがいない。

 それ以外のことで、道江のことなんか書く必要はすこしもないはずなのだから、と思った。

 「うちで、白鳥会の連中が先生の送別会をやった時には、道江さんもいたんじゃなかったかな。」

 恭一が道江にたずねた。

 「あの日は、あたし、お台所でお手伝いをしていましたの。」

 「お給仕には出なかった?」

 「ええ、おばさんに出るように言われたんですけれど、あたし、とうとうしりごみしちゃって。
  でも、あの時は、男の学生ばかり、三十人もならんでいらしったんですもの。」

 「すると、先生がたのお顔も今日がはじめてなんだな。」

 「そりゃあ、お顔だけは存じていましたわ。
  あのとき拝見したんですもの。」

 「のぞき見したの?
  どこから?」

 「はしご段のところからですわ。
  ほほほ。」

 みんなが笑った。

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