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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  187

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 白鳥会時代の心の修練も、友愛塾の助手としての現在の信念も、こうした場合の態度を決定するには、何のたしにもならなかった。

 かれがこれまで信奉《しんぽう》もし、実践《じっせん》にもつとめて来た、友愛・正義・自主・自律・創造、といったような、社会生活の基本的徳目《とくもく》は、今のかれには、全く力のない、空疎《くうそ》な言葉の羅列《られつ》でしかなかった。

 そしてそこに気がつくと、かれはいよいようろたえた。

 道江という一女性が、間もなく、自分の目のまえに現われるという小さなできことの予想、大きな人間社会の運行《うんこう》の中では、まったくどうでもいいような、そうした小さなできごとの予想《よそう》が、どうしてこれほどまでに自分をまごつかせ、自分の不断の心の修練を無力にするのか。どうして、現在友愛塾におおいかぶさっている深刻な問題以上に、自分の心をなやますのか。

 女性とは、恋愛《れんあい》とは、いったい何だろう。

 それは、これまで自分が考えて来た人間生活の秩序とは、全く次元のちがった秩序に属するものだろうか。

 そんなはずはない!

 かれは心の中で強く否定した。

 しかし、否定した心そのものが、やはり、ふだんの秩序を失った心でしかなかったのである。

 事務室の柱時計《はしらどけい》がゆっくり、十時をうった。

 次郎はかぞえるともなくその音をかぞえていたが、かぞえおわると、やにわに立ちあがった。

 二人が午前中に来るとすれば、もうそろそろ来るころだ。

 めいった顔は見せたくない。

 いっそ門のそとまで出て愉快に自分のほうから迎《むか》えてやろう。

 あとはあたって砕《くだ》けるまでのことだ。

 かれは冒険《ぼうけん》とも自棄《じき》ともつかない気持ちで、自分自身をはげましたのだった。

 すると、ちょうどその時、事務室に人の足音がして、仕切りの引き戸を軽くノックする音がきこえた。

 「どなた?」

 次郎が、いぶかりながら戸をあけると、そこには大河無門が立っていた。

 「おや、外出しなかったんですか。」

 次郎は大河の顔を見ると、救われたような、こわいような、変な気になりながら、つとめて平静をよそおってたずねた。

 「ええ、べつに出る用もなかったので……」

 「でも、道案内によく引っぱり出されなかったことですね。」

 「やんやと頼《たの》まれましたが、断わることにしました。」

 「うらまれやしませんか。」

 「ふ、ふ、ふ。」

 大河はとぼけたような顔をして、笑った。

 「どの方面の希望者が多かったんです。」

 「たいていは二重橋を見て、それから銀座に行きたがっていたようでした。」

 「相変わらずですね。」

 「いつもそうなんですか。」

 「ええ、最初の日曜は、きまってそんなふうです。」

 「二重橋のつぎが、銀座というのは、しかし、おもしろいじゃありませんか。」

 「ええ、ちょっと皮肉ですね。
  しかし、今の日本の青年としては、おそらくそれが正直なところでしょう。」

 二人はいつの間にか、火鉢《ひばち》を中にしてすわりこんでいた。

 大河はまじめな顔をして、

 「それは、しかし、青年ばかりではないでしょう。
  本職の軍人だって、正直なところは、たいていそんなものですよ。
  銀座みたいなところの魅力《みりょく》は、超時代的《ちょうじだいてき》というか、
  本能的というか、とにかく人間の本質にこびりついたものでしょうから、
  非常時局のかけ声ぐらいでは、どうにもならないでしょう。」

 「そんなことを考えると、時代の力なんていっても、たいしたものではありませんね。」

 「ええ、本質的なものに対しては、結局無力かもしれません。
  せいぜいできることは、お体裁《ていさい》を作るために形をかえて、
  それを満足させることでしょう。
  しかし、だからといって、時代の力は軽蔑《けいべつ》はできませんよ。
  うそを本気でやらせる力もあるんですから。」

 「うそを本気で?
  それはどういうことです。」

 「早い話が、今の時代がそうじゃないですかね。
  このごろ時局だ時局だと叫《さけ》んでいる人たちはむろんのこと、
  それにおどらされている人たちも、自分では本気のつもりなんですよ。
  本気でなくちゃあ、あんな気ちがいじみたまねはまさかできないでしょう。

  ところで、その本気が、冷静に物事を考え、
  自分の心をどん底までたたいて見た上での本気かというと、決してそうではありません。
  たいていは時局のかけ声に刺激《しげき》されて、自分でも気づかないうちに、
  本心にないことを本気で言ったり、したりしているだけなんです。
  そうは思いませんか。」

 「なるほど、そう言われるとそうですね。
  ここの塾生たちの中にも、入塾当初には、そんなのがざらにいますよ。」

 「その意味で、銀座に行くのは、正直でいいじゃありませんか。
  少なくとも、うそを本気でやるよりはいいことでしょう。」

 「かといって、正直だとほめてやるほどのこともなさそうですね。」

 二人は声をたてて笑った。

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