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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  264

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 「その古い言葉は誤っている。
  われわれを通り越すような一時代の人間を造り上げながら、
  われわれはわれわれ自身のために働いたのだ。われわれは彼らの宝を積み上げてやり、  四方から風の吹き込む締まりの悪い破れ家の中でそれを護《まも》ってやった。

  死をはいらせないようにと自分の身で扉《とびら》をささえねばならなかった。
  そして子供たちの進むべき勝利の道をわれわれの腕で開いてやった。
  そのわれわれの労苦は未来を救い上げた。

  われわれは約束の土地の入り口まで方舟を導いてきた。
  方舟《はこぶね》はその土地へ、
  彼らとともにそしてわれわれの力によってはいってゆくだろう。」

 「でも彼らは、神聖なる火や、わが民族の神々や、
  今は大人《おとな》となってるがその当時子供だった彼らを、
  背に負いながら沙漠《さばく》を横切ってきたわれわれのことを、
  思い出してくれるでしょうか?

  われわれは艱苦《かんく》と忘恩とを受けてきたではありませんか。」

 「それを君は遺憾に思ってるのか。」

 「いいえ。
  われわれの時代のように、
  自分の産み出した時代の犠牲となる力強い一時代の悲壮な偉大さは、
  それを感ずる者をして恍惚《こうこつ》たらしむるほどです。
  現今の人々は、忍従の崇高な喜びをもはや味わうことはできないでしょう。」

 「われわれはもっとも幸福だったのだ。
  われわれはネボの山によじ登ったのだ。
  山の麓《ふもと》にはわれわれのはいり込まない地方が広がっている。

  しかしわれわれはそこにはいり込む人々よりも、
  いっそうよくその景色を享楽している。
  平野の中に降りてゆくと、その平野の広大さと遠い地平線とは見えなくなるものだ。」

 クリストフはジョルジュとエマニュエルとに平和な感化を及ぼしていたが、その力は、グラチアの愛の中から汲《く》み取っていた。

 その愛のために彼は、すべて若々しい者に結びついてる心地がし、生のあらゆる新しい形式にたいして、けっして鈍らない同情をいだかせられた。

 大地をよみがえらしてる力がどんなものであろうとも、彼は常にその力とともにいて、それが自分と反対のものであるときでさえそうだった。

 少数の特権者の利己心に悲鳴をあげさしてるそれらの民主主義が、近く主権を占めることにたいしても、彼は恐れの念をいだきはしなかった。

 年老いた芸術の念珠《ねんじゅ》に必死とすがりつきはしなかった。

 架空な幻像から、科学と行動との実現された夢想から、前のものよりもいっそう力強い芸術がほとばしり出るのを、確信をもって待ち受けていた。

 たとい旧世界の美が自分とともに滅びようとも、世界の新しい曙《あけぼの》のほうを祝福したかった。

 グラチアは自分の愛がクリストフのためになることを知っていた。自分の力を意識して自分以上の高い所へ上っていた。彼女は手紙によってある程度まで友を支配していた。

 それでも芸術上の指導までしようという滑稽《こっけい》な考えはいだかなかった。

 彼女はきわめて怜悧《れいり》であって、自分の限度を心得ていた。

 しかし彼女の正しい純なる声は、彼が自分の魂の調子を合わせる音叉《おんさ》だった。

 彼はその声が自分の思想を反響するのが前もって聞こえる気がして、もうそれだけで、反響されるに足る正しい純潔なことをしか考えなかった。

 りっぱな楽器の音は音楽家にとっては、自分の夢想がすぐに具現される一つの美しい身体に等しいものである。

 たがいに愛する二つの精神の融解の不可思議さよ。

 たがいに相手の有するよきものを奪い合う。

 しかしそれも自分の愛でそれを豊富にして返さんがためにである。

 グラチアはクリストフに自分が彼を愛してることを憚《はばか》らず言っていた。

 遠く離れてるために彼女は前よりいっそう自由に話をするようになっていた。

 それはまた、けっして自分は彼のものとなることがないだろうという確信のためでもあった。

 宗教的な熱情を伝えるその愛は、彼にとっては平安の源泉であった。

 その平安を、グラチアは自分がもってる以上に与えていた。

 彼女の健康は破られ、彼女の精神的平衡はひどく害された。

 息子《むすこ》の容態もよくはなかった。

 彼女は二年来たえず危惧《きぐ》のうちに暮らしてきた。

 そしてその危惧は、リオネロから残忍な才能で弄《もてあそ》ばれるだけにいっそう募っていった。

 リオネロは自分を愛してくれる人々をいつも不安がらせる術においては、みごとな腕前を習得していた。

 同情を起こさせたりするために、彼の隙《ひま》な頭脳はいろんな手段を考え出した。

 それが一種の病癖となってしまった。

 そして悲しむべきことには、彼が病気を装ってるうちに、病気は実際に進んでいた。

 そして死が門口に姿を現わした。

 なんたる劇的皮肉ぞ!

 グラチアは幾年となく息子の仮病に悩まされてきたので、実際彼が病気になってももうそれを信じなかった。

 人の心には限度がある。

 彼女は嘘《うそ》にたいして自分の同情の力を使い果たしていた。

 リオネロがほんとうのことを言っても彼女はそれを芝居だと見なした。

 そしてほんとうのことが明らかになったあとでは、彼女の残りの生涯は悔恨の念に毒されてしまった。

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