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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である  18

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  その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、
  私は是非摂津《せっつ》の三十三間堂が聞きたい。
  あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、
  私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜いでしょうと手詰の談判をする。

  御前がそんなに行きたいなら行っても宜《よ》ろしい。
  しかし一世一代と云うので大変な大入だから、
  到底《とうてい》突懸《つっか》けに行ったって這入《はい》れる気遣《きづか》いはない。

  元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在《あ》って、
  それと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、
  それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない。
  残念だが今日はやめようと云うと、

  細君は凄《すご》い眼付をして、
  私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、
  大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも、
  正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、
  いくらあなたが教師だからって、
  そう手数《てすう》のかかる見物をしないでもすみましょう。
  あなたはあんまりだと泣くような声を出す。

  それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。
  晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、
  行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、
  そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。

  なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、
  そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと、
  鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。
  それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、
  ええ駄目ですともと答える。
  すると君不思議な事にはその時から急に悪寒《おかん》がし出してね」

 「奥さんがですか」と寒月が聞く。
 「なに細君はぴんぴんしていらあね。
  僕がさ。
  何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮《いしゅく》する感じが起ると思うと、
  もう眼がぐらぐらして動けなくなった」

 「急病だね」と迷亭が註釈を加える。
 「ああ困った事になった。
  細君が年に一度の願だから是非叶《かな》えてやりたい。
  平生《いつも》叱りつけたり、口を聞かなかったり、
  身上《しんしょう》の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで、
  何一つ洒掃薪水《さいそうしんすい》の労に酬《むく》いた事はない。

  今日は幸い時間もある。
  嚢中《のうちゅう》には四五枚の堵物《とぶつ》もある。
  連れて行けば行かれる。
  細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。

  是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、
  靴脱《くつぬぎ》へ降りる事も出来ない。
  ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。
 
 早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、
  それから細君と相談をして甘木《あまき》医学士を迎いにやると、
  生憎《あいにく》昨夜《ゆうべ》が当番でまだ大学から帰らない。
  二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。

  困ったなあ、今杏仁水《きょうにんすい》でも飲めば、
  四時前にはきっと癒《なお》るに極《きま》っているんだが、
  運の悪い時には何事も思うように行かんもので、
  たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、
  がらりと外《はず》れそうになって来る。

  細君は恨《うら》めしい顔付をして、到底《とうてい》いらっしゃれませんかと聞く。
  行くよ必ず行くよ。
  四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。
  早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、
  と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。

  悪寒はますます劇《はげ》しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。
  もしや四時までに全快して約束を履行《りこう》する事が出来なかったら、
  気の狭い女の事だから何をするかも知れない。
  情《なさ》けない仕儀になって来た。

  どうしたら善かろう。
  万一の事を考えると今の内に有為転変《ういてんぺん》の理、
  生者必滅《しょうじゃひつめつ》の道を説き聞かして、
  もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、
  夫《おっと》の妻《つま》に対する義務ではあるまいかと考え出した。

  僕は速《すみや》かに細君を書斎へ呼んだよ。
  呼んで御前は女だけれども、
  many a slip 'twixt the cup and the lip と云う西洋の諺くらいは心得ているだろうと聞くと、
  そんな横文字なんか誰が知るもんですか、
  あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖に、
  わざと英語を使って人にからかうのだから、
  宜《よろ》しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そ
  んなに英語が御好きなら、
  なぜ耶蘇学校《ヤソがっこう》の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。

  あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕《けんまく》なんで、
  僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。
  君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。
  全く妻《さい》を愛する至情から出たので、
  それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。

  それにさっきからの悪寒《おかん》と眩暈《めまい》で、
  少し脳が乱れていたところへもって来て、
  早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急《せ》き込んだものだから、
  つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。

  考えるとこれは僕が悪《わ》るい。
  全く手落ちであった。
  この失敗で悪寒はますます強くなる。
  眼はいよいよぐらぐらする。

  妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌《もろはだ》を脱いで御化粧をして、
  箪笥《たんす》から着物を出して着換える。
  もういつでも出掛けられますと云う風情《ふぜい》で待ち構えている。

  僕は気が気でない。
  早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。
  四時にはもう一時間しかない。
  「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。

  自分の妻《さい》を褒《ほ》めるのはおかしいようであるが、
  僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。
  もろ肌を脱いで石鹸で磨《みが》き上げた皮膚がぴかついて、
  黒縮緬《くろちりめん》の羽織と反映している。

  その顔が石鹸と摂津大掾《せっつだいじょう》を聞こうと云う希望との二つで、
  有形無形の両方面から輝やいて見える。
  どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。

  それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。
  うまい注文通りに行った。
  が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺《なが》めて、
  手を握って、胸を敲《たた》いて背を撫《な》でて、
  目縁《まぶち》を引っ繰り返して、頭蓋骨《ずがいこつ》をさすって、
  しばらく考え込んでいる。

  「どうも少し険呑《けんのん》のような気がしまして」と僕が云うと、
  先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。
  「あのちょっとくらい外出致しても差支《さしつか》えはございますまいね」と細君が聞く。
  「さよう」と先生はまた考え込む。

  「御気分さえ御悪くなければ……」
  「気分は悪いですよ」と僕がいう。
  「じゃともかくも頓服《とんぷく》と水薬《すいやく》を上げますから」
  「へえどうか、何だかちと、危《あぶ》ないようになりそうですな」
  「いや決して御心配になるほどの事じゃございません。
   神経を御起しになるといけませんよ」
  と先生が帰る。

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