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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である 夏目漱石 15

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 ところへ寒月《かんげつ》君が先日は失礼しましたと這入《はい》って来る。
 「いや失敬。
  今大変な名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治《たいじ》られたところで」
 と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。
 「はあ、そうですか」
 とこれも訳の分らぬ挨拶をする。
 主人だけは左《さ》のみ浮かれた気色《けしき》もない。

 「先日は君の紹介で越智東風《おちとうふう》と云う人が来たよ」
 「ああ上《あが》りましたか、
  あの越智東風《おちこち》と云う男は至って正直な男ですが、
  少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、
  是非紹介してくれというものですから……」

 「別に迷惑の事もないがね……」
 「こちらへ上《あが》っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」
 「いいえ、そんな話もなかったようだ」
 「そうですか、
  どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈《こうしゃく》をするのが癖でしてね」

 「どんな講釈をするんだい」
 と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。
 「あの東風《こち》と云うのを音《おん》で読まれると大変気にするので」
 「はてね」
 と迷亭先生は金唐皮《きんからかわ》の煙草入《たばこいれ》から煙草をつまみ出す。

 「私《わたく》しの名は越智東風《おちとうふう》ではありません、
  越智《おち》こちですと必ず断りますよ」
 「妙だね」
 と雲井《くもい》を腹の底まで呑《の》み込む。

 「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近と云う成語《せいご》になる、
  のみならずその姓名が韻《いん》を踏んでいると云うのが得意なんです。
  それだから東風《こち》を音《おん》で読むと、
  僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです」
 「こりゃなるほど変ってる」
 と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の孔《あな》まで吐き返す。
 途中で煙が戸迷《とまど》いをして咽喉《のど》の出口へ引きかかる。
 先生は煙管《きせる》を握ってごほんごほんと咽《むせ》び返る。

 「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」
 と主人は笑いながら云う。
 「うむそれそれ」
 と迷亭先生が煙管《きせる》で膝頭《ひざがしら》を叩《たた》く。
 吾輩は険呑《けんのん》になったから少し傍《そば》を離れる。

 「その朗読会さ。
  せんだってトチメンボーを御馳走した時にね。
  その話しが出たよ。
  何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、
  先生にも是非御臨席を願いたいって。
  それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、
  いえこの次はずっと新しい者を撰《えら》んで、
  金色夜叉《こんじきやしゃ》にしましたと云うから、
  君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮《おみや》ですといったのさ。
  東風《とうふう》の御宮は面白かろう。
 僕は是非出席して喝采《かっさい》しようと思ってるよ」

 「面白いでしょう」
 と寒月君が妙な笑い方をする。
 「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。
  迷亭などとは大違いだ」
 と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀《くじゃく》の舌とトチメンボーの復讐《かたき》を一度にとる。

 迷亭君は気にも留めない様子で
 「どうせ僕などは行徳《ぎょうとく》の俎《まないた》と云う格だからなあ」
 と笑う。
 「まずそんなところだろう」
 と主人が云う。

 実は行徳の俎と云う語を主人は解《かい》さないのであるが、さすが永年教師をして胡魔化《ごまか》しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。

 「行徳の俎というのは何の事ですか」
 と寒月が真率《しんそつ》に聞く。
 主人は床の方を見て
 「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿《さ》したのだが、よく持つじゃないか」
 と行徳の俎を無理にねじ伏せる。

 「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」
 と迷亭が煙管《きせる》を大神楽《だいかぐら》のごとく指の尖《さき》で廻わす。
 「どんな経験か、聞かし玉《たま》え」
 と主人は行徳の俎を遠く後《うしろ》に見捨てた気で、ほっと息をつく。

 迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと左《さ》のごとくである。
 「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。
  例の東風《とうふう》から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから、
  御在宿を願うと云う先《さ》き触《ぶ》れがあったので、
  朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。

  昼飯を食ってストーブの前で、
  バリー・ペーンの滑稽物《こっけいもの》を読んでいるところへ、
  静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。
  寒中は夜間外出をするなとか、
  冷水浴もいいがストーブを焚《た》いて室《へや》を煖《あたた》かにしてやらないと、
  風邪《かぜ》を引くとかいろいろの注意があるのさ。

  なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、
  呑気《のんき》な僕もその時だけは大《おおい》に感動した。
  それにつけても、こんなにのらくらしていては勿体《もったい》ない。
  何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。
  母の生きているうちに天下をして、
  明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。

  それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。
  露西亜《ロシア》と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦《しんく》をして、
  御国《みくに》のために働らいているのに、
  節季師走《せっきしわす》でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。

  僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね。
  そのあとへ以《もっ》て来て、僕の小学校時代の朋友《ほうゆう》で、
  今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。
  その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気《あじき》なくなって、
  人間もつまらないと云う気が起ったよ。

  一番仕舞《しまい》にね。
  私《わた》しも取る年に候えば初春の御雑煮を祝い候も今度限りかと、
  何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって、
  早く東風《とうふう》が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。

  そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。
  母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、
  いつでも十行内外で御免蒙《こうむ》る事に極《き》めてあるのさ。

  すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。
  東風が来たら待たせておけと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。
  いつになく富士見町の方へは足が向かないで、
  土手《どて》三番町《さんばんちょう》の方へ我れ知らず出てしまった。
  ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠《おほり》の向《むこ》うから吹き付ける。
  非常に寒い。
  神楽坂《かぐらざか》の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。

  大変淋《さみ》しい感じがする。
  暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳《か》け廻《めぐ》る。
  よく人が首を縊《くく》ると云うが、
  こんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。
  ちょいと首を上げて土手の上を見ると、
  いつの間《ま》にか例の松の真下《ました》に来ているのさ」

 「例の松た、何だい」
 と主人が断句《だんく》を投げ入れる。
 「首懸《くびかけ》の松さ」
 と迷亭は領《えり》を縮める。
 「首懸の松は鴻《こう》の台《だい》でしょう」
 寒月が波紋《はもん》をひろげる。

 「鴻《こう》の台《だい》のは鐘懸《かねかけ》の松で、
  土手三番町のは首懸《くびかけ》の松さ。
  なぜこう云う名が付いたかと云うと、
  昔《むか》しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊《くく》りたくなる。

  土手の上に松は何十本となくあるが、
  そら首縊《くびくく》りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。
  年に二三返《べん》はきっとぶら下がっている。
  どうしても他《ほか》の松では死ぬ気にならん。
  見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。
  ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。
  どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、
  誰か来ないかしらと、四辺《あたり》を見渡すと生憎《あいにく》誰も来ない。

  仕方がない、自分で下がろうか知らん。
  いやいや自分が下がっては命がない、危《あぶ》ないからよそう。
  しかし昔の希臘人《ギリシャじん》は、
  宴会の席で首縊《くびくく》りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。
  一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他《ほか》のものが台を蹴返す。
  首を入れた当人は台を引かれると同時に、
  縄をゆるめて飛び下りるという趣向《しゅこう》である。

  果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん。
  僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓《しわ》る。
  撓り按排《あんばい》が実に美的である。
  首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。
  是非やる事にしようと思ったが、
  もし東風《とうふう》が来て待っていると気の毒だと考え出した。
  それではまず東風《とうふう》に逢《あ》って約束通り話しをして、
  それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」

 「それで市《いち》が栄えたのかい」
 と主人が聞く。
 「面白いですな」
 と寒月がにやにやしながら云う。

 「うちへ帰って見ると東風は来ていない。
  しかし今日《こんにち》は無拠処《よんどころなき》差支《さしつか》えがあって出られぬ、
  いずれ永日《えいじつ》御面晤《ごめんご》を期すという端書《はがき》があったので、
  やっと安心して、これなら心置きなく首が縊《くく》れる嬉しいと思った。で
  早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」
 と云って主人と寒月の顔を見てすましている。

 「見るとどうしたんだい」
 と主人は少し焦《じ》れる。
 「いよいよ佳境に入りますね」
 と寒月は羽織の紐《ひも》をひねくる。

 「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。
  たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。
  考えると何でもその時は死神《しにがみ》に取り着かれたんだね。

  ゼームスなどに云わせると、
  副意識下の幽冥界《ゆうめいかい》と僕が存在している現実界が、
  一種の因果法によって互に感応《かんのう》したんだろう。
  実に不思議な事があるものじゃないか」
 迷亭はすまし返っている。

 主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅《くうやもち》を頬張《ほおば》って口をもごもご云わしている。

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