ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  180

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 塵《ちり》を廊下に掃《は》き出すと、かれはバケツに水を汲《く》んで来て、寝間《ねま》と事務室とに雑巾《ぞうきん》がけをはじめた。
 窓をすっかりあけはなった。
 まるで火の気のない、二月の朝の空気は、風がないためにかえってきびしく感じられた。

 これまでたびたび同じ経験をつんできたかれにとっても、仕事は決してなまやさしいものではなかった。
 どうかすると、手がしびれるようにかじかんで、雑巾が思うようにしぼれず、また、拭《ふ》いたあとの床板が、つるつるに凍ることさえあるのだった。

 かれは、しかし、二つの室をすみからすみまで、たんねんに拭《ふ》きあげた。
 もう、そのころには、廊下を行き来する塾生たちの足音も頻繁《ひんぱん》になり、ほうぼうから、わざとらしいかけ声や、とん狂《きょう》な笑い声などもきこえていた。

 ゆうべの懇談会で分担《ぶんたん》をきめ、かれら自身の室はもとより、建物の内部を、講堂や、広間や、便所にいたるまで、全部清掃《せいそう》することに申し合わせていたので、かれらも、まがりなりにも責任だけは、果たさなければならなかったし、それに、きびしい寒さと、おたがいの眼とが、かれらを、外見だけでも、いかにも忙《いそが》しそうな活動に駆《か》りたてていたのである。

 次郎は、自分の責任である二つの室の掃除を終わると、すぐ便所掃除の手伝いに行った。
 これは、かれが助手として塾生活をはじめた当初からの、一つの誓《ちか》いみたようになっていたのである。

 かれが、便所に通ずる廊下の角をまがると、一段さがった入り口のたたきの上に立って、何かしきりと声高《こわだか》にがなりたてている一人の塾生がいた。
 見ると、飯島好造だった。

 「おはよう。
  ここは何室の受け持ちでしたかね。」
 次郎は近づいて行って声をかけた。

 「第五室です。
  僕《ぼく》たちで、最初にここを受け持つことにしたんです。」
 飯島は、いかにも得意らしくこたえた。

 ゆうべの懇談会で、日々の掃除の分担は管理部で割りあて、毎晩就寝前《しゅうしんまえ》に、翌日の分を各室に通告するということにきまったのだったが、その管理部の責任を、最初の一週間第五室が負うことになっている関係上、だれしもいやがる便所掃除を、まず手始めに自分たちで引きうけることにしたものであろう。

 それはそれで、むろんいいことにちがいない。
 しかしあたりまえ以上のいいことでもなさそうだ。
 次郎は、つい、そんな皮肉な気持ちになったのだった。

 しかし、つぎの瞬間《しゅんかん》に、かれの頭にひらめいたのは大河無門のことだった。
 かれは、すると、もう飯島の存在を忘れて、大河の姿を便所のあちらこちらにさがしていた。
 左右の窓の下に、小便つぼがそれぞれ七つほど並《なら》んでおり、そこを四人の塾生が二人ずつにわかれて、棒だわしで掃除していたが、その中には、大河の姿は見えなかった。

 つきあたりに、大便所がこれも七つほどならんでいる。
 そのうちの、右はじの一つだけが戸が開いており、その少し手前の、たたきの上に、水をはったバケツが一つ置いてあるのが見えた。

 戸の開いた便所の内側は、電燈の光を斜《なな》めにうけているので、よくは見えない。
 しかし、だれか中で掃除をしていることだけはたしかだった。
 六人の室員のうち、飯島は入り口に立っており、両がわの小便所に二人ずつ働いているのだから、あとの一人は大河にきまっている。

 次郎は、そう思って、すぐ声をかけようとした。
 しかし、なぜか思いとまった。
 そして、入り口の横の板壁《いたかべ》にかけてあった便所用の雑巾を一枚とり、それをたたきの上のバケツの水にひたして、しぼったあと、大河のはいっているのとは反対のはじの大便所の戸をあけ、中にはいった。

 飯島は、それまで、やはり入り口の階段に立って、何かと指図《さしず》がましい口をきいていた。
 しかし、次郎が雑巾をもって大便所の中にはいったのを見ると、さすがに気がひけたらしく、指図する言葉のはしばしがにぶりがちになり、何かしら気弱さを示していた。

 「こんな寒い時には、ぐいぐいはたらくに限るよ。
  室長なんかになるもんじゃないね。」
 じょうだんめかして、そんなこともいった。

 ゆうべ各室で就寝前に行なわれた互選《ごせん》の結果、かれは第五室の室長になっていたのである。
 次郎は吹《ふ》きだしたい気持ちだった。
 同時に、心の中で思った。
 飯島のような人間はとうてい救えない。
 それにくらべると、田川大作のほうはまだ見込《みこ》みがある。

 かれは、窓ガラス、窓わく、板壁、ふみ板と、上から下へ、つぎつぎに拭《ふ》きあげて行きながら、おりおりそとをのぞいて飯島の様子に注意していた。
 そのうちに、飯島は急に何か思い出したように叫《さけ》んだ。

 「あっ、そうだ。
  僕はここだけにへばりついていては、いけなかったんだ。」
 そして、次郎のほうをちょっとぬすむように見ながら、
 「第五室は、管理部として全体の責任を負っているんだからね。
  僕、一まわりして、様子を見て来るよ。」
 飯島は、そう言うと、いかにもあわてたように、あたふたと廊下に足音をたてて去った。

 朝倉先生は、かつて次郎に、
 「現在の日本の指導層の大多数は、正面からは全く反対のできないようなことを理由にして、
  自分たちの立場を正当化したがるきらいがあるが、そうしたずるさは、
  ひとり指導層だけに限られたことではないようだ。

  たいていの日本人は、何かというと、表面堂々とした理由で自分の行動を弁護したり、
  飾《かざ》ったりする。
  しかも、それで他人をごまかすだけでなく、自分自身の良心をごまかしている。
  それをずるいなどとはちっとも考えない。
  これはおそろしいことだ。

  友愛塾の一つの大きな使命は、共同生活の実践《じっせん》を通じて、
  青年たちをそうしたずるさから救い、真理に対してもっと誠実な人間にしてやることだ。」
 というような意味のことを、いったことがあったが、次郎は、便所の中から、飯島のうしろ姿を見おくりながら、その言葉を思いおこし、今さらのように、大きな困難にぶっつかったような気がしたのだった。

 飯島の足音がきこえなくなると、小便所の掃除をしていた四人が、かわるがわる言った。
 「すいぶん、ちゃっかりしているなあ。」
 「何しろ紳士《しんし》だからね。」
 「郡の団長なんかやってると、あんなふうになるもんかね。」
 「そりゃあ、あべこべだよ。
  あんな人だから、郡の団長なんかになりたがるんだ。」

 「つぎは、そろそろ県会議員というところかね。」
 「ふ、ふ、ふ。」
 「そういうと、ゆうべの室長選挙も何だか変だったぜ。」
 「はじめから、自分が室長だときめてかかっているんだから、かなわないよ。」
 「心臓だね、じっさい。」
 「その心臓に負けて、
  いやいやながら全員一致《いっち》の推薦《すいせん》をやったというわけか。」

 「妙《みょう》なもんだね、選挙なんて。」
 「選挙なんてそんなものらしいよ。
  どこでもたいていは心臓の強いのが勝っているんだ。」
 「はっはっはっ。」

 次郎は、そんな対話の中にも、友愛塾に課された大きな問題があると思った。
 そして、かれらの話がどう発展していくかを興味をもって待っていた。
 かれらは、しかし、笑ったあと、急に口をつぐんでしまった。
 次郎が大便所の中にいることをだれかが思い出して、みんなのおしゃべりを制止する合い図をしたものらしい。

 次郎と大河とは、間もなく、それぞれに最初の大便所の掃除を終わって、となりの大便所に移っていた。
 まだだれも手をかけない大便所が、あいだに三つほどはさまっている。
 次郎は、さっきから、大河に話しかけてみたい気持ちは十分だった。
 しかし、遠くからのかけ合い話は、この場合、何となくぴったりしなかったし、また、雑巾をゆすぎに出たついでに、そっとのぞいて見た大河の様子が、いかにも沈黙《ちんもく》の行者《ぎょうじゃ》といった感銘《かんめい》をかれに与《あた》えていたので、口をきるのがよけいにためらわれるのだった。

 そのうちに、小便所の掃除が終わったらしく、それにかかっていた四人のうちの三人が、とん狂な笑い声をたてながら、大便所の掃除をはじめ、あとの一人が、たたきに水を流しはじめた。
 で、次郎は、二つ目の大便所の掃除をおわると、すぐそこを去って講堂のほうに行った。
 大河とは、ついに言葉をかわさないままだったのである。

 講堂では、掃除はもうあらかた終わって、机や椅子《いす》の整頓《せいとん》にとりかかるところだった。
 そこは、第一室と第二室の共同の受け持ちだったらしく、田川大作や青山敬太郎などの顔も見えていた。

 田川は、例のしゃがれた、激《はげ》しい号令口調《くちょう》で、ほかの塾生たちをせきたてながら、自分でも椅子や机を運んで敏捷《びんしょう》にたちはたらいていた。
 これに反して、青山の態度はきわめて冷静だった。
 かれは、田川の声には無頓着《むとんちゃく》なように、並《なら》べられていく机の列をじっとにらんでは、そのみだれを正していた。

 二人とも、それぞれに室長に選ばれていたのである。
 次郎が入り口に立って様子をながめていると、
 「もうここはだいたいすんだようですよ。」
 と、みんなにきこえるような声で言いながら、教壇《きょうだん》をおりてかれのほうに近づいて来た塾生があった。

 飯島である。
 次郎は思わず苦笑した。
 何かむかむかするものが、胸の底からこみあげて来るような気持ちだった。

 しかし、かれはしいて自分をおちつけ、
 「そうですね。」
 と、なま返事をして眼をそらした。
 そして、そのまま、すぐそこを去り、塾長室のほうに行った。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。