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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  179

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   六 板木の音


 コーン、コーン、――コーン、コーン。
 凍《こお》りついたような冷たい空気をやぶって、板木が鳴りだした。
 そとはまだ、真っ暗である。

 白木綿《しろもめん》の、古ぼけたカーテンのすき間から、硝子戸《ガラスど》ごしに、大きな星がまたたいているのが、はっきり次郎の眼に映った。
 かれは、あたたかい夜具をはねのけ、勢いよく起きあがって、電燈《でんとう》のスウィッチをひねった。

 その瞬間《しゅんかん》、枕時計《まくらどけい》がジンジンと鳴りだした。
 きっかり起床《きしょう》時刻の五時半である。
 いそいで、寝巻《ねまき》をジャンパーに着かえ、夜具を押し入れにしまいこむと、ぞんぶんに窓をあけた。

 風はなかったが、そとの空気が、針先《はりさき》をそろえたように、顔いっぱいにつきささった。
 かれは、そのつめたい空気の針をなぎ払《はら》うように、ばたばたと部屋中にはたきをかけはじめた。

 開塾《かいじゅく》中は、次郎は、朝倉先生夫妻だけを空林庵《くうりんあん》に残して、本館の事務室につづく畳敷《たたみじ》きの小さな部屋に、ひとりで寝起きすることにしているのである。

 次郎がはたきをかけおわり、箒《ほうき》をにぎるころになっても、ほかの部屋は、まだどこもひっそりと静まりかえっていて、板木の音だけが、いつまでも鳴りつづけていた。
 かれは、むろん、そのことに気がついていた。

 しかし、べつに気をくさらしてはいなかった。
 毎回開塾の当初はそうだったし、時刻どおりに板木が鳴ることさえ珍《めずら》しかったので、今朝の板木当番の正確さだけでも上できだぐらいに思っていたのである。

 かれは、掃除《そうじ》をしながら、根気よく鳴りつづけている板木の音に、ふと好奇心《こうきしん》をそそられた。
 それは、鳴りはじめた時刻がきわめて正確だったからばかりでなく、その音の調子に何かしら落ちつきがあり、しかも、いつまでたってもそれが乱れなかったからであった。

 最初の朝の板木の音が、こんなだったことは、それまでにまったくないことだ。
 だれだろう、今朝の当番は?
 そう思ったとき、自然に、かれの眼にうかんで来た二つの顔があった。

 それは、大河無門の顔と、青山敬太郎のそれだった。
 ゆうべの懇談会の様子から判断して、こんな落ちついた板木の打ちかたのできるのは、おそらくこの二人のほかにはないだろう。
 そして、第一週の管理部の責任をひきうけたのは第五室だったのだ。

 そこまで考えると、かれはもう、今朝の板木が大河の手で打たれていることはまちがいないことだと思った。
 かれは、自分の部屋の掃除をすますと、そっと事務室との間の引き戸をあけた。

 いつもなら、そのあとすぐ事務室の掃除にとりかかる順序だったが、しばらく敷居《しきい》のところに突っ立って耳をすました。
 それから、足音をしのばせるようにして入り口に近づき、ドアを細目にあけて、板木のほうに眼をやった。

 板木は、事務室前の廊下《ろうか》と中廊下との角に、斜《なな》め向きにかかっていたのである。
 板木を打っていたのは、はたして大河無門だった。
 シャツにズボンだけしか身につけていず、足袋《たび》もはいていなかった。

 しかし、べつに寒そうなふうでもなく、両足をふんばり、頭から一尺ほどの高さの板木を、近眼鏡の奥《おく》から見つめて、いかにも念入りに、ゆっくりと槌《つち》をふるっていた。

 次郎は、思いきりドアをあけ、
 「おはようございます。」
 とあいさつして、大河に近づいた。

 大河は、その時、ちょうど槌をふりあげたところだったが、それを打ちおろしたあと、ちらと次郎のほうを見て、あいさつをかえした。
 そして、そのまま、すこしも調子をかえないで、また槌をふるいつづけた。

 「もういいでしょう。
  ずいぶんながいこと打ったんじゃありませんか。」
 次郎が、寒そうに肩《かた》をすくめながら、言うと、
 「ええ、でも、まだだれも起きた様子がないんです。」
 と、大河は槌をふるいながら、こたえた。

 「しかしもう眼はさましていますよ。」
 「そうでしょうか。」
 「きっとさましていますよ。
  どの室にも、眼をさましているものが、もう何人かはあるはずです。」

 大河は、それでも同じ調子で打ちつづけながら、
 「いつもこんなに起きないんですか。」
 「ええ、はじめのうちは、いつもこんなふうですよ。
  五分や七分はたいていおくれます。」

 「すると、起こしてまわるほうが早いですかね。」
 「そうかもしれません。
  しかし、それはやらないほうがいいでしょう。
  板木《ばんぎ》で起きる約束《やくそく》をしたんですから。」

 「じゃあ、やはり打ちつづけるよりほかありませんね。」
 「打ちやめると、それでかえって起きることもありますがね。」
 「なるほど。
  ふん。
  そういうものですかね。
  あるいはそうかもしれない。」

 大河は、ひとりごとのように、そう言いながら、やはり打ちやめなかった。
 そして、相変わらず板木に眼をすえ、
 「ぼくたち、学生時代の学寮《がくりょう》生活を自治だなんていって、
  いばっていたものですが、本気にやろうとすると、実際むずかしいものですね。」

 「ええ、結局は一人一人の問題じゃないでしょうか。」
 「ぼくもそうだと思います。
  命令者に依頼《いらい》する代わりに、多数の力に依頼するんでは、
  自治とは言えませんからね。」

 次郎は大河の横顔を見つめて、ちょっとの間だまりこんでいたが、ふと、何か思いついたように、
 「ちょっとぼくに打たしてみてください。」
 大河は板木を打ちやめ、けげんそうに次郎のほうをふり向いて槌をわたした。

 次郎は、すぐ大河に代わって板木を打ちだしたが、その打ちかたは、一つ一つの音が余韻《よいん》をひくいとまのないほど急調子で、いかにも業《ごう》をにやしているような乱暴さだった。

 大河は、あきれたように、その手ぶりを見つめて立っていた。
 次郎は、しかし、それには気づかす、おなじ乱暴な調子で、つづけざまに三四十も打つと、急にぴたりと手をやすめた。

 そして、半ば笑いながら、言った。
 「板木を打つのは、もうこれでおしまいにしましょう。
  これで起きなけれぼ、ほっとくほうがいいんです。」
 ところで、かれの言葉が終わるか終わらないうちに、二三の室から、急にさわがしい人声や物音が、廊下をつたってきこえだした。

 「起きだしたようです。
  もうだいじょうぶですよ。」
 次郎は、そう言って、槌を柱にかけ、事務室のほうにかえりかけた。

 すると、その時まで眉根《まゆね》をよせるようにしてかれの顔を見つめていた大河が、急に、真赤な歯ぐきを見せ、にっと笑った。
 そして、
 「なんだか、ひどく叱《しか》りとばされて、やっと起きた、といったぐあいですね。」

 「はっはっはっ。」
 次郎は愉快《ゆかい》そうに笑って、事務室にはいり、すぐ掃除《そうじ》をはじめたが、その時になって、大河のにっと笑った顔と、そのあとで言った言葉とが、変に心にひっかかりだした。

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