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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  178

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 朝倉先生は、手にもっていた塾生名簿を畳《たたみ》のうえになげだして、腕をくんだ。
 そして、かなりながいこと、眼をつぶってだまりこんでいたが、やがて眼をひらくと、ちょっと飯島のほうを見たあと、みんなの顔を見まわして言った。

 「強制されると、どんな不合理なことにでも盲従《もうじゅう》する。
  おたがいの相談に任されると、なまけられるだけなまける工夫をする。
  もしそういうことが人間にとってあたりまえのことだとして許されるとすると、
  いったい人間の自主性とか良心とかいうものは、どういう意味をもつことになるんだ。
  いや、いつになったら、人間はおたがいに信頼《しんらい》のできる共同生活を、
  営《いとな》むことができるようになるんだ。」

 先生の言葉の調子は、はげしいというよりは、むしろ悲痛だった。
 「私は、君らを、良心をもった自主的な人間としてここに迎《むか》えた。
  だから、かりに君ら自身が、君らを機械のように取りあつかってくれとか、
  犬猫《いぬねこ》のようにならしてくれとか、私に要求したとしても、
  私には絶対にそれができない。

  私は、あくまで、君らが人間であることを信じ、
  君らに人間としての行動を期待するよりほかはないのだ。
  むろん私も、人間の世の中に、強制の必要が全然ないとは思っていない。
  弱い人間にとっては、やはりそれが必要なこともあるだろう。

  時には、それが弱い人間を救う唯一《ゆいいつ》の方法である場合さえあるのだ。
  それは私にもよくわかっている。
  しかし、私は、君らがこの塾堂の生活にもたえないほど弱い人間であるとは思っていないし、
  また思いたくもない。

  だから、私は、君らが何かの強制力にたよるまえに、まず君ら自身の良心にたより、
  人間として、君らの最善をつくしてもらいたいと思っているんだ。
  君らが、ほんとうにその気になりさえすれば、少なくとも、この塾堂の生活ぐらいは、
  何の強制もなしに運営していけるだろうと、私は信じている。

  君ら自身も、人間であるからには、そのぐらいの自信は持っていてもいいだろう。
  いや、持っていなければならないはずなのだ。
  もし君らに、それだけの自信、人間としてのそれだけの誇《ほこ》りも持てないとすると、
  私としては、もう何も言うことはない。

  明日からの行事計画をたてることも、まったく必要のないことだ。
  どうだ、飯島君、やはり強制がなくてはだめかね。」
 「わかりました。」
 飯島は、いくぶんあわて気味にこたえた。
 それだけに、いかにも無造作《むぞうさ》な、たよりない答えだった。

 「田川君は、どうだね。」
 田川は、それまで、眉根《まゆね》をよせ、小首をかしげて、いやに深刻そうに畳《たたみ》の一点を見つめていたが、だしぬけに自分の名をよばれて、飯島とはちがった意味で、あわてたらしかった。

 しかし、かれはすぐにはこたえなかった。
 こたえるかわりに、何度も小首を左右にかしげ直し、するどい眼で畳をにらみまわした。
 それから、朝倉先生のほうをまともに見て、そのしゃがれた声をとぎらしがちにこたえた。
 「ぼく……もっと……考えてみます。」

 「もっと考える?
  ふむ。
  腑《ふ》に落ちなければ、腑に落ちるまで考えるよりないだろう。
  自分で考えないで、人の言うことをうのみにする生活なんて、まるで意味がないからね。」
 朝倉先生は、そう言って微笑した。

 そして、それ以上口で説きふせることを断念した。
 いずれはこれからの生活体験が、徐々《じょじょ》にかれらを納得させるだろう、というのが先生のいつもの信念だったのである。

 「田川君のほかにも、まだよく納得がいかないでいる人がたくさんあるだろうと思うが、
  そうした根本問題については、これから何度でもむしかえして話しあう機会があるだろう。
  そこで、それはいちおう未解決のままにして、
  ともかくも具体的な問題にはいることにしょう。
  じゃあ、時間もおそくなったし、私のほうから案を出すことにするよ。」

 先生は、そう言って、次郎に目くばせした。
 次郎は待ちかまえていたように、自分のそばに置いていた紙袋《かみぶくろ》から、ガリ版の印刷物をとり出して、みんなに配布した。
 それには、組織や、講義科目や、諸行事の時間割など、必要な諸計画が一通りならべられていたが、そのどの部分を見ても常識からとびはなれたようなことは一つもなかった。

 塾堂と名のつくところでは、そのころほとんどつきもののようになっていた「みそぎ」とか、「沈黙《ちんもく》の労働」とか、およそそういった、いわゆる「鍛練《たんれん》」的な行事が全く見当たらないのは、むしろみんなには、ふしぎに思われたくらいであった。

 五時半起床というのが、二月の武蔵野《むさしの》では、ちょっとつらそうにも思えたが、それも青年たちにとっては、決しておどろくほどのことではなかった。
 むしろかれらをおどろかしたのは、生活にうるおいを与《あた》えるような行事が、かなりの程度に、織《お》りこまれていることであった。

 とにかく、見る人が見れば、日常生活を深め高める目的で、すべてが計画されているということが明らかであった。
 相談は安易《あんい》にすぎるほど、すらすらとはこび、ほとんど無修正だった。
 特異《とくい》な行事を期待していた塾生たちにとっては、多少物足りなく感じられたらしかったが、そのために、これという強硬《きょうこう》な主張も出なかった。

 最も多く発言したのは飯島だった。
 しかし、それも、自分の存在を印象づける目的以上の発言ではなく、たいていは原案賛成の意見をのべ、同時に進行係をつとめるといったふうであった。

 田川は、はじめから終わりまで、一言も口をきかなかった。
 ただ、組織に関することで、室編成のほかに、生活内容の面から、いろいろの部が設けてあり、全員が期間中に、一度はどの部の仕事も体験するという仕組みになっていたので、その運営の方法や、人員の割り当てなどについて、いろいろの質問が出、その説明に大部分の時間がついやされたのであった。

 就寝《しゅうしん》は九時半、消燈《しょうとう》十時ときまったが、懇談会を終わったときには、すでに九時半をすぎていた。
 解散するまえに、朝倉先生が言った。
 「これで、ともかくも、ここの生活設計がおたがいのものとしてできあがった。
  おたがいのものとしてできあがった以上、それがうまくいかなければ、おたがいの責任だ。
  むろんこの設計は、明日からのすべり出しに、いちおうのよりどころを与えたまでで、
  これが最上のものであるとは保証できない。

  だから、だんだんやっていくうちに、不都合な点があれば、いつでも修正しようし、また、
  新しい案が出て、それがいいものであれば、どしどしとり入れて行くことにしたい。
  そういうことをやるのも、やはりおたがいの責任だ。
  あらためて言うが、友愛と創造、この二つを精神的基調として、
  これからのおたがいの生活を、すみからすみまで磨《みが》きあげ、いきいきとした、
  清らかな、そして楽しいものに育てあげていきたいと思う。」

 そのあと、就寝前の行事として、最初の静坐《せいざ》がはじまった。
 塾生たちは、各室ごとに、きちんと縦《たて》にならび、朝倉先生の指導にしたがってその姿勢をとった。
 次郎は足音をたてないように、みんなの間をあるきまわり、いちじるしく姿勢のわるいのを見つけると、それをなおしてやった。

 まっさきにかれの目についたのは、田川だった。
 田川はいやに胸を張り、軍隊流の不動の姿勢でしゃちこばっていた。
 そして、次郎が肩《かた》から力をぬかせようと、どんなに骨をおっても、なかなかそうはならなかった。

 これに反して、飯島は最初から、ごく器用に正しい姿勢をとっていた。
 もしかれが、おりおりうす目をあけて朝倉先生の顔をのぞくようなことさえしなかったら、かれの静坐は、塾生の中でも、最もすぐれた部類に属していたのかもしれなかったのである。

 静坐は十分足らずで終わった。
 次郎は、いつになくつかれていたが、床《とこ》についてからも、なかなか寝《ね》つかれなかった。

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