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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  256

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 ジャックリーヌは息子《むすこ》が自分の手から逃げ出すのを、あきらめることができなかった。
 ほんとうに愛を捨ててしまったといくら考えても、愛の幻なしには済ますことができなかった。

 彼女のあらゆる感情とあらゆる行ないは、みなその色に染められていた。
 世の多くの母親は、結婚において――また結婚以外において――費消しきれなかったひそかな情熱を、息子の上に投げかくるものである。

 そしてあとになって、息子が母親なしにいかにやすやすと済ましてゆけるかを見るとき、息子が母親を必要としていないことを突然了解するとき、彼女らは恋人の裏切りや愛の幻滅に会ったときと同種類の危機にさしかかるのである。

 それはジャックリーヌにとっては新たな破滅だった。
 ジョルジュはそのことを少しも気づかなかった。
 若い者たちは周囲に展開されてる心の悲劇を夢にも知らない。

 彼らには立ち止まって見るだけの隙《ひま》がない。
 彼らは利己的な本能に駆られて、傍目《わきめ》も振らずに直進したがる。

 ジャックリーヌはその新たな苦悶《くもん》を一人で嘗《な》めた。
 それから脱したのは苦悶が鈍ってきたときにであった。
 しかも苦悶は愛とともに鈍ってきた。

 彼女はやはり息子を愛していたが、自分を無益なものだと知って自分自身にも息子にも無関心になってる、悟りすました遠い情愛をもって愛してるのだった。
 ジョルジュのほうでは気にも止めなかったが、彼女はかくて沈鬱《ちんうつ》な惨めな年を送った。

 それから、彼女の不運な心は愛なしでは死にも生きもできなかったので、愛の対象を一つこしらえ出さずにはいられなかった。
 彼女は不思議な情熱にとらえられた。

 中年になってもなお生の美しい果実が摘み取られないときに、しばしば女の魂を訪れる情熱であり、ことにもっとも高尚なもっとも近づきがたい魂を訪れるかの観がある情熱である。
 すなわち彼女はある婦人と知り合いになって、初めて出会ったときからすでに、その婦人の不可思議な魅力にひきつけられてしまった。

 それは彼女とほぼ同じ年配の尼僧だった。
 慈善事業に従事していた。
 背が高く強壮でやや肥満していて、褐色《かっしょく》の髪、きっぱりした美しい顔だち、鋭い眼、いつも微笑《ほほえ》んでる大きな薄い口、意志の強そうな頤《あご》。際《きわ》立って才知にすぐれ、少しも感傷的ではなかった。

 田舎《いなか》女みたいな狡猾《こうかつ》さをもち、的確な事務的能力をそなえ、その能力に添ってる南方人的な想像力は、物事を大袈裟《おおげさ》に見るのを好んでいたが、しかし必要な場合には、正確な尺度で見ることも同時にできるのだった。

 高遠な神秘主義と老公証人めいた策略とが、小気味よく混じり合ってる性質だった。
 彼女は人を支配する習癖をもっていて、それをいかにも自然らしく働かしていた。

 ジャックリーヌはすぐに心服してしまった。
 彼女はその慈善事業に熱中した。
 少なくとも熱中してるつもりだった。

 アンジェール尼は熱中さすべき相手を見分けることができた。
 同じような熱中を起こさせることに慣れていた。
 そしてその熱中には気づかないようなふうをしながら事業のためと神の光栄のためにそれを冷やかに利用することを知っていた。

 ジャックリーヌは自分の金と意志と心とをささげた。
 彼女は慈悲深かった。
 彼女は愛によって信仰した。

 人々はやがて彼女が惑わされてることに気づいた。
 気がつかないのは彼女一人だった。
 ジョルジュの後見人は気をもんだ。

 あまりに鷹揚《おうよう》で軽率で金銭のことなんか気にかけないジョルジュでさえ、母親が利用されてることに気づいた。
 そして不快を感じた。
 彼は彼女との過去の親密を回復しようとしたが、もう時期おくれだった。

 二人の間には幕が張られてることを見てとった。
 彼はそれをこの惑わしの影響の罪だとして、ジャックリーヌにたいしてよりもむしろ、彼が陰謀家と呼んでる尼僧にたいして、一種の憤激を感じ、それを少しも隠さなかった。

 当然自分のものだと信じている母の心の中に、他人が地位を奪いに来ることを許し得なかった。
 地位を奪われるのは自分がそれを打ち捨てたからだとは考えなかった。

 地位を回復しようとはつとめもしないで、母の気を害するような拙劣な態度をとった。
 どちらも短気で熱烈な母と子との間には、激しい言葉がかわされた。
 分裂はなおひどくなった。

 アンジェール尼はジャックリーヌを手中に収めてしまった。
 ジョルジュは遠のいて勝手気ままな振る舞いをした。
 積極的な奔放な生活を送った。

 賭《か》け事をやって莫大《ばくだい》な金を失った。
 一つには面白いので、また一つには母の無鉄砲さに報いるために、自分の無鉄砲な行ないを高々と吹聴《ふいちょう》した。

 彼はストゥヴァン・ドレストラード家の人々を知っていた。
 コレットはこの美少年に注意を向けて、けっして働きやめない自分の魅力を試《ため》さずにはいなかった。

 彼女はジョルジュの乱行をよく知っていて、それを面白がっていた。
 しかし軽佻《けいちょう》さの下に隠れてる良識と実際の温情との素質によって、彼女はこの無茶な若者が冒してる危険を見てとった。

 そして彼をその危険から救うのは自分にはできないことだとよく知っていたので、クリストフに事情を知らした。
 クリストフはすぐにパリーへもどってきた。

 若いジャンナンにたいして多少の感化力をもってるのは、ただクリストフばかりであった。
 それも限られたきわめて間歇《かんけつ》的な感化力だったが、説明しがたいだけにいっそう著しいものだった。

 クリストフはジョルジュやその仲間の者らが猛烈に反抗してる旧時代に属していた。
 彼らがその芸術や思想にたいして疑惑的な敵意を惹起《じゃっき》させられる苦悩の時代の、もっとも重立った代表者の一人で彼はあった。

 世界――ローマとフランス――を救うべき確実な方法を人のよい青年らに教えようとしてる、小予言者と老魔法使との新福音や護符から、彼は隔絶していた。

 あらゆる宗教を脱し、あらゆる党派を脱し、あらゆる祖国を脱してる、流行おくれの――もしくはまだふたたび流行していない――自由な信念を、彼は忠実に守っていた。
 また最後に、彼は国民的問題から離脱していたとは言え、他国人はすべて本国人にとっては野蛮人と思われてた当時にあっては、彼はやはりパリーにおいて一個の他国人であった。

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