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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である 夏目漱石 11

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 家《うち》へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。
 はてなと明け放した椽側から上《あが》って主人の傍《そば》へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。
 頭を奇麗に分けて、木綿《もめん》の紋付の羽織に小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて至極《しごく》真面目そうな書生体《しょせいてい》の男である。

 主人の手あぶりの角を見ると春慶塗《しゅんけいぬ》りの巻煙草《まきたばこ》入れと並んで越智東風君《おちとうふうくん》を紹介致候《そろ》水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。

 主客《しゅかく》の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。
 「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」
 と客は落ちついて云う。

 「何ですか、
  その西洋料理へ行って午飯《ひるめし》を食うのについて趣向があるというのですか」
 と主人は茶を続《つ》ぎ足して客の前へ押しやる。

 「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、
  いずれあの方《かた》の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」
 「いっしょに行きましたか、なるほど」

 「ところが驚いたのです」
 主人はそれ見たかと云わぬばかりに、膝《ひざ》の上に乗った吾輩の頭をぽかと叩《たた》く。
 少し痛い。

 「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。
  あの男はあれが癖でね」
 と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。

 「へへー。君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」
 「何を食いました」
 「まず献立《こんだて》を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」
 「誂《あつ》らえない前にですか」
 「ええ」

 「それから」
 「それから首を捻《ひね》ってボイの方を御覧になって、
  どうも変ったものもないようだなとおっしゃると、
  ボイは負けぬ気で鴨《かも》のロースか小牛のチャップなどは如何《いかが》ですと云うと、
  先生は、そんな月並《つきなみ》を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、
  ボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」

 「そうでしょう」
 「それから私の方を御向きになって、
  君仏蘭西《フランス》や英吉利《イギリス》へ行くと、
  随分天明調《てんめいちょう》や万葉調《まんようちょう》が食えるんだが、
  日本じゃどこへ行ったって版で圧《お》したようで、
  どうも西洋料理へ這入《はい》る気がしないと云うような大気炎《だいきえん》で、
  全体あの方《かた》は洋行なすった事があるのですかな」

 「何迷亭が洋行なんかするもんですか。
  そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。
  大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた洒落《しゃれ》なんでしょう」
 と主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。

 客はさまで感服した様子もない。
 「そうですか、私はまたいつの間《ま》に洋行なさったかと思って、
  つい真面目に拝聴していました。
  それに見て来たようになめくじのソップの御話や、
  蛙《かえる》のシチュの形容をなさるものですから」

 「そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」
 「どうもそうのようで」
 と花瓶《かびん》の水仙を眺める。
 少しく残念の気色《けしき》にも取られる。

 「じゃ趣向というのは、それなんですね」
 と主人が念を押す。
 「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」
 「ふーん」
 と主人は好奇的な感投詞を挟《はさ》む。

 「それから、とてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、
  まあトチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と、
  御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、
  それがいいでしょう、といってしまったので」

 「へー、とちめんぼうは妙ですな」
 「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」
 とあたかも主人に向って麁忽《そこつ》を詫《わ》びているように見える。

 「それからどうしました」
 と主人は無頓着に聞く。
 客の謝罪には一向同情を表しておらん。

 「それからボイにおいトチメンボーを二人前《ににんまえ》持って来いというと、
  ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、
  先生はますます真面目《まじめ》な貌《かお》で、
  メンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました」

 「なある。そのトチメンボーという料理は一体あるんですか」
 「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、
  その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、
  ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、
  私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました」

 「ボイはどうしました」
 「ボイがね、今考えると実に滑稽《こっけい》なんですがね、
  しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが、
  今日はトチメンボーは御生憎様《おあいにくさま》で、
  メンチボーなら御二人前《おふたりまえ》すぐに出来ますと云うと、
  先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た甲斐《かい》がない。

  どうかトチメンボーを都合《つごう》して食わせてもらう訳《わけ》には行くまいかと、
  ボイに二十銭銀貨をやられると、
  ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」

 「大変トチメンボーが食いたかったと見えますね」
 「しばらくしてボイが出て来て真《まこと》に御生憎で、
  御誂《おあつらえ》ならこしらえますが少々時間がかかります、
  と云うと迷亭先生は落ちついたもので、
  どうせ我々は正月でひまなんだから、
  少し待って食って行こうじゃないかと云いながら、
  ポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、
  私《わたく》しも仕方がないから、懐《ふところ》から日本新聞を出して読み出しました、
  するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」

 「いやに手数《てすう》が掛りますな」
 と主人は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を前《すす》める。
 「するとボイがまた出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で、
  亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと、
  気の毒そうに云うと、

  先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと、
  私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、
  私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾《いかん》ですな、
  遺憾極《きわま》るですなと調子を合せたのです」

 「ごもっともで」
 と主人が賛成する。
 何がごもっともだか吾輩にはわからん。

 「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、
  どうか願いますってんでしょう。
  先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。

  材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、
  それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、
  まことにお気の毒様と云いましたよ」

 「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」
 と主人はいつになく大きな声で笑う。
 膝《ひざ》が揺れて吾輩は落ちかかる。
 主人はそれにも頓着《とんじゃく》なく笑う。
 アンドレア・デル・サルトに罹《かか》ったのは自分一人でないと云う事を知ったので急に愉快になったものと見える。

 「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまく行ったろう、
  橡面坊《とちめんぼう》を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。
  敬服の至りですと云って御別れしたようなものの、
  実は午飯《ひるめし》の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ」
 「それは御迷惑でしたろう」
 と主人は始めて同情を表する。
 これには吾輩も異存はない。
 しばらく話しが途切れて吾輩の咽喉《のど》を鳴らす音が主客《しゅかく》の耳に入る。

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