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名作を読みませんかコミュの吾輩は猫である 夏目漱石 6

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 両人《ふたり》が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾《かまぼこ》の残りを頂戴《ちょうだい》した。
 吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。
 まず桃川如燕《ももかわじょえん》以後の猫か、グレーの金魚を偸《ぬす》んだ猫くらいの資格は充分あると思う。

 車屋の黒などは固《もと》より眼中にない。
 蒲鉾の一切《ひときれ》くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。
 それにこの人目を忍んで間食《かんしょく》をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。

 うちの御三《おさん》などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。
 御三ばかりじゃない現に上品な仕付《しつけ》を受けつつあると細君から吹聴《ふいちょう》せられている小児《こども》ですらこの傾向がある。

 四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対《むか》い合うて食卓に着いた。
 彼等は毎朝主人の食う麺麭《パン》の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺《さとうつぼ》が卓《たく》の上に置かれて匙《さじ》さえ添えてあった。

 いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から一匙《ひとさじ》の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。
 すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。

 少《しば》らく両人《りょうにん》は睨《にら》み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。
 小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。
 すると姉がまた一杯すくった。
 妹も負けずに一杯を附加した。

 姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。
 見ている間《ま》に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人《ふたり》の皿には山盛の砂糖が堆《うずたか》くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼《まなこ》を擦《こす》りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。

 こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優《まさ》っているかも知れぬが、智慧《ちえ》はかえって猫より劣っているようだ。
 そんなに山盛にしないうちに早く甞《な》めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃《おはち》の上から黙って見物していた。

 寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行《ある》いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就《つ》いたのは九時頃であった。
 例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮《ぞうに》を食っている。
 代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切《むきれ》か七切《ななきれ》食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸《はし》を置いた。

 他人がそんな我儘《わがまま》をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦《こ》げ爛《ただ》れた餅の死骸を見て平気ですましている。
 妻君が袋戸《ふくろど》の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は
 「それは利《き》かないから飲まん」という。

 「でもあなた澱粉質《でんぷんしつ》のものには大変功能があるそうですから、
  召し上ったらいいでしょう」
 と飲ませたがる。
 「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」
 と頑固《がんこ》に出る。

 「あなたはほんとに厭《あ》きっぽい」と細君が独言《ひとりごと》のようにいう。
 「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」
 「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって、
  毎日毎日上ったじゃありませんか」

 「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」
 と対句《ついく》のような返事をする。
 「そんなに飲んだり止《や》めたりしちゃ、
  いくら功能のある薬でも利く気遣《きづか》いはありません。
  もう少し辛防《しんぼう》がよくなくっちゃあ、
  胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」
 とお盆を持って控えた御三《おさん》を顧みる。

 「それは本当のところでございます。
  もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善《よ》い薬か悪い薬かわかりますまい」
 と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。

 「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」
 「どうせ女ですわ」
 と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹《つめばら》を切らせようとする。
 主人は何にも云わず立って書斎へ這入《はい》る。
 細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。

 こんなときに後《あと》からくっ付いて行って膝《ひざ》の上へ乗ると、大変な目に逢《あ》わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上《あが》って障子の隙《すき》から覗《のぞ》いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披《ひら》いて見ておった。

 もしそれが平常《いつも》の通りわかるならちょっとえらいところがある。
 五六分するとその本を叩《たた》き付けるように机の上へ抛《ほう》り出す。
 大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下《しも》のような事を書きつけた。

 寒月と、根津、上野、池《いけ》の端《はた》、神田辺《へん》を散歩。
 池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着《はるぎ》をきて羽根をついていた。
 衣装《いしょう》は美しいが顔はすこぶるまずい。
 何となくうちの猫に似ていた。

 何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。
 吾輩だって喜多床《きたどこ》へ行って顔さえ剃《す》って貰《もら》やあ、そんなに人間と異《ちが》ったところはありゃしない。
 人間はこう自惚《うぬぼ》れているから困る。

 宝丹《ほうたん》の角《かど》を曲るとまた一人芸者が来た。
 これは背《せい》のすらりとした撫肩《なでがた》の恰好《かっこう》よく出来上った女で、
 着ている薄紫の衣服《きもの》も素直に着こなされて上品に見えた。

 白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕《ゆうべ》は――つい忙がしかったもんだから」と云った。
 ただしその声は旅鴉《たびがらす》のごとく皺枯《しゃが》れておったので、せっかくの風采《ふうさい》も大《おおい》に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手《ふところで》のまま御成道《おなりみち》へ出た。
 寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。

 人間の心理ほど解《げ》し難いものはない。
 この主人の今の心は怒《おこ》っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道《いちどう》の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。

 世の中を冷笑しているのか、世の中へ交《まじ》りたいのだか、くだらぬ事に肝癪《かんしゃく》を起しているのか、物外《ぶつがい》に超然《ちょうぜん》としているのだかさっぱり見当《けんとう》が付かぬ。

 猫などはそこへ行くと単純なものだ。
 食いたければ食い、寝たければ寝る、怒《おこ》るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。
 第一日記などという無用のものは決してつけない。
 つける必要がないからである。

 主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属《ねこぞく》に至ると行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、行屎送尿《こうしそうにょう》ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数《てかず》をして、己《おの》れの真面目《しんめんもく》を保存するには及ばぬと思う。
 日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。

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