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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  166

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   四 入塾式の日


 式は予定どおり、十時きっかりにはじまった。
 来賓席《らいひんせき》の一番上席には、平木中佐が着席することになった。
 中佐は最初、その席を荒田老にゆずろうとした。

 しかし荒田老は、
 「今日は、あんたが主賓《しゅひん》じゃ。」
 と、叱《しか》るように言って、すぐそのうしろの席にどっしりと腰《こし》をおろし、それからは中佐が何と言おうと、木像のようにだまりこんで、身じろぎもしなかった。

 中佐はかなり面くらったらしく、すこし顔をあからめ、何度も荒田老に小腰《こごし》をかがめたあと、いかにもやむを得ないといった顔をして席についたが、それからも、しばらくは腰が落ちつかないふうだった。

 しかし、式がいよいよはじまるころには、もう少しもてれた様子がなく、塾生《じゅくせい》たちをねめまわすその態度は、むしろ傲然《ごうぜん》としていた。
 来賓席の反対のがわには、田沼《たぬま》理事長、朝倉塾長、朝倉夫人の三人が席をならべていた。

 次郎はそのうしろに位置して、式の進行係をつとめていたが、かれの視線は、ともすると平木中佐の横顔にひきつけられがちだった。
 かれの眼《め》にうつった中佐の顔には、多くの隊付き将校に見られるような素朴《そぼく》さが少しもなかった。

 その青白い皮膚《ひふ》の色と、つめたい、鋭《するど》い眼の光とは、むしろ神経質な知識人を思わせ、また一方では、勝ち気で、ねばっこい、残忍《ざんにん》な実務家を思わせた。
 次郎は、中佐の横顔を何度かのぞいているうちに、子供のころ、話の本で見たことのある、ギリシア神話のメデューサの顔を連想していた。

 中佐の眼は、理事長と塾長とが式辞をのべている間、塾生のひとりびとりの表情を、注意ぶかく見まもっているかのようであった。

 式辞の趣旨《しゅし》は、二人とも、いつもとほとんど変りがなかった。
 ただ理事長は、つぎのような意味のことを、特に強張した。
 「国民の任務には、恒久的《こうきゅうてき》任務と時局的任務とがある。
  このうち、時局的任務は、時局そのものが、あらゆる機会に、あらゆる機関を通じて、
  声高く国民にそれを説いてくれるので、
  なに人《びと》もそれに無関心であることができない。

  ところが、恒久的任務のほうは、時局が緊迫《きんぱく》すればするほど、
  とかく忘れられがちであり、現に今日のような時代では、
  何が真に恒久的任務であるかさえわかっていない国民が非常に多い。

  諸君は、友愛塾における生活中、時局的任務に関する研究にも、
  むろん大いに力を注いでもらわなければならないが、
  しかし、いっそうかんじんなのは、恒久的任務の研究であり、
  その研究の結果を共同生活に具体化することである。

  それが不十分では、時局的任務に対する熱意も、
  根なし草のように方向の定まらないものになってしまうであろうし、時としては、
  かえって国家を危険におとし入れるおそれさえあるのである。」

 また、朝倉塾長は、
 「これまで、日本人は、上下の関係を強固にするための修練はかなりの程度に積んで来た。
  しかし、横の関係を緊密《きんみつ》にするための修練は、まだきわめて不十分である。
  私は、もし日本という国の最大の弱点は何かと問われるならば、
  この修練が国民の間に不足していることだ、と答えるほかはない。

  というのは、どんなに強い上下の関係も、横の関係がしっかりしていないところでは、
  決してほんとうには生かされないからである。
  そこで、私は、これからの諸君との共同生活を、主として横の関係において、
  育てあげることに努力したいと思う。

  むしろ最初は、まったく上下の関係のない状態から出発し、横の関係の生長が、
  おのずからみごとな上下の関係を生み出すところまで進みたいと思っている。」
 といったような意味のことから話しだし、いつもなら、午後の懇談会《こんだんかい》で話すようなことまで、じっくりと、かんでふくめるように話をすすめていったのであった。

 次郎は、きいていてうれしかった。
 田沼先生も、朝倉先生も、ちゃんと打つべき手は打っていられる。
 これでは、中佐も打ち込む隙《すき》が見つからないだろう。
 そんなふうにかれは思ったのである。

 朝倉先生が壇《だん》をおりると、つぎは来賓の祝辞だった。
 次郎はさすがに胸がどきついた。
 かれは、昔《むかし》の武士が一騎打《いっきう》ちの敵にでも呼びかけるような気持ちになり、一度息をのんでから、さけぶようにいった。

 「来賓祝辞――陸軍省の平木中佐殿《どの》。」
 平木中佐は声に応じてすっくと立ちあがった。
 そしてまずうしろの荒田老の方に向きなおって敬礼した。
 荒田老は、しかし、眼がよく見えないせいか、黒眼鏡の方向を一点に釘《くぎ》づけにしたまま、びくとも動かなかった。

 一瞬《いっしゅん》、場内の空気が、くすぐられたようにゆらめいた。
 といっても、だれも声をたてて笑ったわけではなかった。
 笑うにはあまりにまじめずぎる光景だったし、しかも、その当事者が二人とも、場内での最も重要な人物らしく見えていただけに、微笑《びしょう》をもらすことさえ、さしひかえなければならなかったのである。

 しかしまた同じ理由で、おかしみはかえって十分であった。
 したがって、それをこらえるしぐさで、場内の空気がゆらめいたのに無理はなかったのである。
 とりわけ次郎にとっては、それがかれの最も緊張《きんちょう》していた瞬間《しゅんかん》のできごとであったために、そのおかしみが倍加されていた。
 かれは唇《くちびる》をかみ、両手をにぎりしめて、こみあげて来る笑いをおしかくしながら、中佐の表情を見まもった。

 中佐は、その口もとをわずかにゆがめて苦笑した。
 それは場内で見られたただ一つの笑いだった。
 その笑いのあと、かれはほかの来賓たちのほうは見向きもしないで、靴《くつ》と拍車《はくしゃ》と佩剣《はいけん》との、このうえもない非音楽的な音を床板《ゆかいた》にたてながら、壇《だん》にのぼった。

 次郎の気持ちの中には、もうその時には、どんなかすかな笑いも残されてはいなかった。
 かれは、中佐の青白い横顔と、塾生たちのかしこまった顔とを等分に見くらべながら、息づまるような気持ちで中佐の言葉を待った。

 中佐は、しかし、あんがいなほど物やわらかな調子で口をきった。
 そして、まず、田沼理事長と朝倉塾長の青年教育に対する努力を、ありふれた形容詞をまじえて賞讃《しょうさん》した。
 それは決して、真実味のこもったものではなく、いちおうの礼儀《れいぎ》にすぎないものであることは明らかであったが、次郎はそれでも、この調子なら、そうむき出しに塾の精神をけなしつけることもあるまい、という気がして、いくぶん緊張をゆるめていた。

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