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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  161

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   三 大河無門・平木中佐


 昼近くになっても、次郎は広間を出なかった。
 陽《ひ》を背にして窓によりかかったままぼんやり塾生名簿《じゅくせいめいぼ》を見たり、眼《め》をつぶったり、床《とこ》の間《ま》の掛軸をながめたりして、落ちつかない気持ちを始末しかねていたのである。

 「あら、次郎さん、朝からずっとこちらにいらしたの?」
 和服の上に割烹着《かっぽうぎ》をひっかけた朝倉夫人が廊下の窓から顔をのぞかせ、不審《ふしん》そうにそう言ったが、
 「ご飯はこちらでいただきましょうね。
  そのほうがあたたかくってよさそうだわ。
  じゃあ、すぐはこびますから、先生をお呼びして来てちょうだい。」
 と、すぐ顔をひっこめた。

 次郎は返事をするひまがなかった。
 というよりも、変にあわてていた。
 かれはいきなり立ちあがって、部屋の片隅《かたすみ》につみ重ねてあった細長い食卓《しょくたく》の一つを、陽あたりのいい窓ぎわにおくと、走るようにして空林庵《くうりんあん》に朝倉先生をむかえに行った。

 二人が広間にはいって来た時には、朝倉夫人は、もう食卓のそばにすわっていた。
 「今日はどんぶりのご飯でがまんしていただきますわ。
  でも、中身はいつもよりごちそうのつもりですの。」
 「そうか。」
 と、朝倉先生は、どんぶりのふたをとりながら、
 「よう、鰻《うなぎ》どんぶりじゃないか。
  えらく奮発《ふんぱつ》したね。」

 「三人だけでご飯をいただくの、当分はこれでおしまいでしょう。
  ですから――」
 「なあんだ、そんな意味か。
  そうだとすると、せっかくのごちそうだが、少々気がつまるね。」

 「どうしてですの。」
 「女にとっては、やはり小さな家庭の空気だけが、ほんとうの魅力《みりょく》らしい。
  そうではないかな。」
 「あら、あたし、つい女の地金《じがね》を出してしまいましたかしら。
  自分では、もうそれほどではないと思っていますけれど。」

 「ふ、ふ、ふ。
  私もそれほど深い意味でいったわけでもないんだ。」
 朝倉先生はそう言って笑ったが、すぐ真顔《まがお》になり、床の間の「平常心」の軸にちょっと眼をやった。

 そして、箸《はし》を動かしながら、しばらく何か考えるようなふうだったが、
 「むずかしいもんだね。
  今度でもう十回目だが、私自身でも、いざ新しく塾生を迎《むか》えるとなると、
  やはりちょっと悲壮《ひそう》な気持ちになるよ。」

 次郎は先生の横顔に眼をすえた。
 すると、
 先生はまた、じょうだんめかして、
 「やはり、うなどんぐらいの壮行会には値《あたい》するかね。
  はっはっはっ。」
 それで夫人も笑いだした。

 しかし次郎は笑わなかった。
 先生はちらっと次郎の顔を見たあと、
 「しかし、うなどんぐらいでごまかせる悲壮感でも、ないよりはまだましかもしれない。
  元来愛の実践《じっせん》は甘《あま》いものではないんだからね。
  愛が深ければ深いほど、そして愛の対象が大きければ大きいほど、その実践には、
  きびしい犠牲《ぎせい》を覚悟《かくご》しなけりゃならん。

  十字架《じゅうじか》がそれを証明しているんだ。
  だから、悲壮感は決して恥《はじ》ではない。
  むしろ悲壮感のない生活が恥なんだ。」

 「すると、平常心というのは、どういうことになるんです。」
 次郎がなじるようにたずねた。
 「悲壮感をのりこえた心の状態だろう。」
 「のりこえたら、悲壮感はなくなるんじゃないですか。」

 「そうかね。」
 と、先生は微笑《びしょう》して、
 「金持ちが金をのりこえる。
  必ずしも貧乏《びんぼう》になることではないだろう。」
 「ほんとうにのりこえたら、貧乏になるのがあたりまえじゃないですか。」

 「じゃあ、知識の場合はどうだ。
  学者が知識をのりこえる。
  それは無知になることかね。」
 次郎は小首をかしげた。

 朝倉先生は、箸をやすめ、夫人に注《つ》いでもらった茶を一口のんでから、
 「水泳の達人《たつじん》は、自由に水の中を泳ぎまわる。
  水はその人にとって決して邪魔《じゃま》ではない。それどころか……」

 「わかりました。」
 次郎はきっぱり答えた。
 しかし、それがいつもそうした場合に二人に見せる晴れやかな表情はどこにも見られなかった。
 かれはむしろ苦しそうだった。
 おこっているのではないかとさえ思われた。

 「今日は、次郎さんはどうかなすっているんじゃない?」
 朝倉夫人が、不安な気持ちを笑顔《えがお》につつんでたずねた。
 次郎がむっつりしていると、今度は朝倉先生が、
 「やはり悲壮感かな。
  それにしても、いつもとはちがいすぎるようだね。
  そろそろ塾生も集まるころだが、何か気になることがあるんだったら、
  その前にきいておこうじゃないか。」

 次郎はちょっと眼をふせた。
 が、すぐ思いきったように、
 「荒田さんは、このごろどうしていられるんですか。」
 かれの心には、むろんこの場合にも道江《みちえ》のことがひっかかっていた。
 むしろそのほうが荒田老以上に彼《かれ》をなやましていたともいえるのだった。
 しかしそれは口に出していえることではなかったのである。

 朝倉先生は、ちょっと眼を光らせて次郎の顔を見つめたが、すぐ笑顔になり、
 「なあんだ。
  荒田さんのことがそんなに気になっていたのか。
  なるほど、あれっきり、こちらには見えないようだね。
  しかし、大したこともないだろう。

  何かあったところで、うなどんで壮行会《そうこうかい》をしてもらったんだから、
  だいじょうぶだよ。
  はっはっはっ。」
 朝倉先生は、いつになくわざとらしい高笑いをして箸をおいた。
 そして、茶をのみおわると、ふいと立ちあがり、そのまま空林庵のほうに行ってしまった。

 次郎は、むろん、にこりともしなかったし、朝倉夫人も今度は笑わなかった。
 二人はかなりながいこと眼を見あったあと、やっと食卓のあと始末にかかったが、どちらからも、ほとんど口をきかなかった。

 食卓がかたづくと、次郎はすぐ玄関《げんかん》に行って、受付の用意をはじめた。
 用意といっても、小卓を二つほどならべ、その一つに、塾生に渡《わた》す印刷物を整理しておくだけであった。

 朝倉夫人も、間もなく和服を洋服に着かえて玄関にやって来た。
 洋服は黒のワン・ピースだったが、それを着た夫人のすがたはすらりとして気品があり、年も四つ五つ若く見えた。
 夫人は、受付をする次郎のそばに立って、塾生に印刷物を渡す役割を引きうけることになっていたのである。

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