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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  160

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 次郎にしてみると、先生が荒田老のことにふれまいとすればするほど、かえって大きな不安を感じ、第十回の開塾式が近づくにつれ、その顔を思い出すことが多くなって来たわけなのである。

 かれの眼の底から荒田老の顔が消えると、それに代わって浮《う》かんで来るもう一つの顔があった。
 それは道江《みちえ》の顔であった。

 兄の恭一《きょういち》は、現在東大文学部の三年に籍《せき》をおいている。
 道江は、女学校卒業後、しきりに女子大入学を希望していたが、何かの都合でそれが実現できなかったらしい。
 次郎にとっては、むろんそれは不幸なことではなかった。

 かれは、上京後、日がたつにつれ、いくらかずつ過去の記憶《きおく》からのがれることができ、三年以上もたったこのごろでは、恭一にあっても、はじめのころほどかれと道江とを結びつけて考えることもなく、時には、まるで道江のことなど忘れてしまって、愉快にかれと語りあうことができるまでになっていたのである。

 ところが、つい二週間ほどまえ、ちょうど第十回の塾生募集をしめ切ったその日に、道江本人から、かれあてに、全く思いがけない手紙が来た。
 それには、かれが上京以来三年以上もの間、一度も彼女《かのじょ》に手紙を出さなかったことに対して、冗談《じょうだん》まじりに軽い不平がのべてあり、そのあとに、つぎのような文句が書いてあった。

 「近いうちに、父が用事で上京することになりましたので、私もその機会に、
  見物かたがたつれて行ってもらうことにしました。
  宿や何かのことは、何もかも恭一さんにおねがいしてありますから、ご安心ください。
  まだ日取りは、はっきりしません。
  ついたらすぐお知らせします。
  お迎《むか》えは恭一さんに出ていただきますから、これもご安心ください。
  いずれお会いした上で、手紙で言い足りない不平を思いきりならべるつもりでいます。」

 次郎は、この文句を通じて、道江のかれに対して抱《いだ》いている感情が普通《ふつう》の友だち以上のものでないことを、はっきり宣告され、同時に彼女と恭一との関係が、過去三年の間にどんな進展を見せているかを暗々裡《あんあんり》に通告されたような気がして、それを読み終わった瞬間《しゅんかん》、頭がかっとなった。

 しかし、すぐそのあとにかれの心をおそったものは、めいるようなさびしさであり、虚無的《きょむてき》な自嘲《じちょう》であった。
 そして、それ以来、これまでほとんど忘れていたようになっていた道江の顔が、しばしば彼の眼底に出没《しゅつぼつ》するようになり、時としては、荒田老の怪寄な顔を押しのけることさえあったのである。

 広間の窓わくによりかかって眼をつぶったかれは、しかし、二つの顔が代わる代わるその眼底に出没するのに心をまかせていたわけでは、むろんなかった。
 開塾式を明日にひかえた今、何といっても、かれにとっての最大の関心事は、塾堂生活のことであり、朝倉先生夫妻の助手としてのかれの任務を手落ちなく遂行《すいこう》することであった。

 だから、かれは、これまでにもいくたびとなく反省して来た過去の塾堂生活の体験を、あらためて反省しなおして、新しい工夫《くふう》をこらすことに専念したかったのである。
 だが、そうであればあるほど、荒田老の怪奇な顔がかれの顔にのしかかり、道江のあざ笑うような顔がかれの胸をかきみだすのであった。

 「ふうっ。」
 と、かれは大きな息をして眼をひらいた。そして、さっきとじこんだ塾生名簿の一つをとりあげ、無意識にそれをめくっていった。
 塾生がはいって来るまえに、その名前と経歴とをすっかり覚えこんでおこうとする、いつものかれの習慣が、そうさせたのである。

 しかし、かれの眼にうつったのは、塾生の名前や経歴ではなくて、やはり荒田老の顔であり、道江の顔であった。
 かれは名簿をなげすて、もう一度ふかい息をして、床の間のほうに眼を転じたが、そこには、「平常心」と大書《たいしょ》した掛軸《かけじく》が、全く別の世界のもののように、しずかに明るくたれていた。

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