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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  243

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 クリストフは自分の気弱さを徹笑《ほほえ》みながら、彼をピアノにつかして、音楽の説明をしてやった。
 いろいろ問いをかけてみた。
 和声《ハーモニー》のちょっとした問題を解かしてみた。

 ジョルジュは大して知ってはいなかった。
 しかしその音楽的本能は多くの無知を補った。
 クリストフが期待してる和音を名前は知らないでも見つけ出した。
 そして誤りまでが、その無器用さのうちにも、趣味を求むる心と妙に鋭い感受性とを示していた。

 彼はクリストフの注意を議論せずには受けいれなかった。
 そして彼のほうからもち出す怜悧《れいり》な質問は、芸術を口先だけで唱える信仰の文句として受けいれないで、自分自身のために芸術に生きようとする、一つの真摯《しんし》な精神を示していた。

 二人は音楽のことばかりを話しはしなかった。
 和声《ハーモニー》に関してジョルジュは、絵画や風景や人の魂のことなどをもち出した。
 彼を制御するのは困難だった。
 たえず道のまん中へ引きもどさなければならなかった。

 そしてクリストフのほうにも、常にその勇気があるわけではなかった。
 機知と生気とに満ちてる少年の愉快な饒舌《じょうぜつ》を聞くのが、彼には面白かった。
 この少年とオリヴィエとはいかに性質が異なっていたことだろう!

 オリヴィエのほうでは生命は、黙々として流るる内部の河であった。
 ジョルジュのほうでは、生命はすべて外部にあって、日の下で遊び疲れる気まぐれな小川であった。
 それにしても、どちらもその眼と同じように美しい清い水だった。

 クリストフは微笑《ほほえ》ましい心持で、ジョルジュのうちに見出した、ある種の本能的な反感を、自分がよく知ってるあの嗜好《しこう》と嫌厭《けんえん》とを、そしてまた、無邪気な一徹さを、愛するものに傾倒してしまう心の寛大さを。

 ただジョルジュはあまりに多くのことを愛していたので、同じ一つのものを長く愛するだけの隙《ひま》がなかった。
 彼は翌日もまたやって来たし、それから引きつづいて毎日やってきた。
 彼はクリストフにたいする若気の美しい情熱に駆られ、熱狂的に稽古《けいこ》を励んだ。

 それから、熱狂は弱ってき、やって来ることも間遠《まどお》になった。
 だんだん来なくなった。
 つぎにはまったく来なくなった。
 そして幾週間も姿を見せなかった。

 彼は軽率で、忘れっぽくて、無邪気な利己主義者で、しんから人なつこかった。
 やさしい心と活発な知力とをそなえていて、それを日に日に少しずつ使い果たしていた。
 彼を見ると愉快だったから、だれでも彼に万事を許してやった。
 彼は幸福だった。

 クリストフは彼を批判すまいとした。
 そして不平を言わなかった。
 彼はジャックリーヌに手紙を書いて、子供をよこしてくれたことを感謝しておいた。

 ジャックリーヌは感動を押えつけた短い返事をくれた。
 ジョルジュに同情を寄せて世の中に導いてくれと、彼に願った。
 彼に会うことについては一言も述べなかった。

 憚《はばか》られる思い出と矜持《きょうじ》とのために、彼に会おうと決心することができなかった。
 そしてクリストフのほうでは、彼女から招かれないかぎりはやって行けないと思った。

 かくて彼らはたがいに離れたままでいて、ときどき音楽会で遠くから認め合ったり、少年のときおりの訪問で結ばれたりするきりだった。

 冬は過ぎ去った。
 グラチアはもうまれにしか手紙をくれなかった。
 彼女はクリストフにたいして忠実な友情をなおいだいていた。

 しかしきわめて感傷的でなくて現実に執着する真のイタリー婦人だったから、多くの人に会わずにはいられなかった。
 それは彼らのことを思うためではないとしても、少なくとも彼らと話をする楽しみを得んがためであった。

 またときどき眼の記憶を新たにしなければ、心の記憶は消えがちだった。
 それで彼女の手紙はしだいに短くなり疎遠になった。
 クリストフが彼女を信じてると同様に、彼女もなおクリストフを信じてはいた。

 しかしその信頼は熱よりもむしろ光を多く広げるものであった。
 クリストフはその新たな違算を大して苦しみはしなかった。
 音楽的活動は彼を満たすに十分だった。

 ある年齢に達すると、強健な芸術家は自分の生活のうちによりも多く自分の芸術のうちに生きる。
 生活は夢となり、芸術は現実となる。
 パリーと接触して、クリストフの創作力は眼覚《めざ》めたのだった。

 この勤勉な都会たるパリーの光景ほど、人に強い刺激を与えるものはない。
 もっとも冷静な者もその熱に感染する。
 健全な孤独のうちに多年休息してきたクリストフは、費やすべき多量の力をもって来ていた。

 フランス精神の勇敢な好奇心が音楽技術の世界にたえずなしつづけている、種々の新しい獲物に彼は富ませられて、こんどは自分でも発見の道に突進していった。
 そして彼らよりもいっそう猛烈で野蛮だったから、彼らのだれよりもさらに遠くへ進んでいった。

 しかしその新たな冒険においては、もはや何一つ本能の偶然に委《ゆだ》ねられたものはなかった。
 彼はもう明確の要求に支配されていた。
 彼の天才は生涯《しょうがい》中、ある交流的律動《リズム》に従ってきたのだった。

 一つの極端から他の極端へと代わる代わる移っていって、両者の間のすべてを包括することが、彼の掟《おきて》であった。
 前期において彼は、「秩序の覆面を通して輝く渾沌の眼に熱中した後、その眼をなおよく見んために覆面《ヴェール》を引き裂こうとした刹那《せつな》、このたびはその蠱惑《こわく》から脱せんとつとめ、主宰的精神の魔法の網を、スフィンクスの顔にふたたび投げかけようとしていた。

 ローマの帝王的息吹《いぶ》きが彼の上を吹き過ぎたのだった。
 彼が多少感染してる当時のパリー芸術と同様に、彼は秩序を追い求めていた。
 しかしワルシャワにおける秩序をではなかった。

 自分の睡眠を護《まも》ることに残りの精力を使い果たす、あの疲れた反動保守家らとは異なっていた。
 それら人のよい連中は、サン・サーンスやブラームスに立ちもどるのである――慰安を求めて。
 あらゆる芸術のブラームスに、主題の堡塁《ほうるい》に、無味乾燥な新古典主義に。

 彼らは熱情に欠けてると言ってはいけない。
 諸君とても、すぐに疲憊《ひはい》してしまうではないか。
 否、予が説くのは諸君の秩序をではない。予の秩序は諸君のそれと同様のものではない。

 予の秩序は、自由なる熱情と意志との調和のうちにある秩序である。
 クリストフは自分の芸術のうちに、生のもろもろの力の正しい平衡を維持しようとくふうしていた。

 鳴り響く深淵《しんえん》からほとばしり出させた、あの新しい和音、あの音楽の魔物、それを彼は用いて、明快な交響曲《シンフォニー》を、丸屋根のあるイタリー大寺院のような広い明るい建築を、うち建てようとしていた。

 そういう精神の働きと戦いとが、冬じゅうつづいた。
 時とすると夕方、彼は一日の仕事を終えて、日々の総和を顧みながら、それが長い間であったかあるいは短い間であったかみずからわからなかったし、自分がまだ若いのかあるいはごく年老いたのかみずからわからなかった。

 とは言え、その冬は早く過ぎ去った。

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