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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  105

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  五十二


 「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。
  実は私も初めからそれを恐れていたのです。
  年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。

  しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、
  ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して、
  新しい生涯に入《はい》る端緒《いとくち》になるかも知れないとも思ったのです。

  ところがいよいよ夫として朝夕妻《さい》と顔を合せてみると、
  私の果敢《はか》ない希望は手厳しい現実のために脆《もろ》くも破壊されてしまいました。
  私は妻と顔を合せているうちに、卒然《そつぜん》Kに脅《おびや》かされるのです。

  つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。
  妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。
  すると女の胸にはすぐそれが映《うつ》ります。
  映るけれども、理由は解《わか》らないのです。

  私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、
  何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問《きつもん》を受けました。
  笑って済ませる時はそれで差支《さしつか》えないのですが、
  時によると、妻の癇《かん》も高《こう》じて来ます。

  しまいには
  「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、
  「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」
  とかいう怨言《えんげん》も聞かなくてはなりません。

  私はそのたびに苦しみました。
  私は一層《いっそ》思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。
  しかしいざという間際になると自分以外のある力が、
  不意に来て私を抑《おさ》え付けるのです。

  私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、
  話すべき筋だから話しておきます。
  その時分の私は妻に対して己《おの》れを飾る気はまるでなかったのです。

  もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、
  妻の前に懺悔《ざんげ》の言葉を並べたなら、
  妻は嬉《うれ》し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。

  それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。
  私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印《いん》するに忍びなかったから、
  打ち明けなかったのです。

  純白なものに一雫《ひとしずく》の印気《インキ》でも、
  容赦《ようしゃ》なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

  一年経《た》ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。
  私はこの不安を駆逐《くちく》するために書物に溺《おぼ》れようと力《つと》めました。
  私は猛烈な勢《いきおい》をもって勉強し始めたのです。
  そうしてその結果を世の中に公《おおやけ》にする日の来るのを待ちました。

  けれども無理に目的を拵《こしら》えて、
  無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘《うそ》ですから不愉快です。
  私はどうしても書物のなかに心を埋《うず》めていられなくなりました。
  私はまた腕組みをして世の中を眺《なが》めだしたのです。

  妻はそれを今日《こんにち》に困らないから、
  心に弛《たる》みが出るのだと観察していたようでした。
  妻の家にも親子二人ぐらいは坐《すわ》っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、
  私も職業を求めないで差支《さしつか》えのない境遇にいたのですから、
  そう思われるのももっともです。

  私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。
  しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。
  叔父《おじ》に欺《あざむ》かれた当時の私は、
  他《ひと》の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、
  他《ひと》を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
  世間はどうあろうともこの己《おれ》は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。

  それがKのために美事《みごと》に破壊されてしまって、
  自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
  他《ひと》に愛想《あいそ》を尽かした私は、
  自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

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