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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  103

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  五十


 「私は奥さんに気の毒でしたけれども、
  また立って今閉めたばかりの唐紙《からかみ》を開けました。
  その時Kの洋燈《ランプ》に油が尽きたと見えて、
  室《へや》の中はほとんど真暗《まっくら》でした。

  私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。
  奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗《のぞ》き込みました。
  しかしはいろうとはしません。
  そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと私にいいました。

  それから後《あと》の奥さんの態度は、
  さすがに軍人の未亡人《びぼうじん》だけあって要領を得ていました。
  私は医者の所へも行きました。
  また警察へも行きました。
  しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです。
  奥さんはそうした手続《てつづき》の済むまで、誰もKの部屋へは入《い》れませんでした。

  Kは小さなナイフで頸動脈《けいどうみゃく》を切って、
  一息《ひといき》に死んでしまったのです。
  外《ほか》に創《きず》らしいものは何にもありませんでした。
  私が夢のような薄暗い灯《ひ》で見た唐紙の血潮は、
  彼の頸筋《くびすじ》から一度に迸《ほとばし》ったものと知れました。

  私は日中《にっちゅう》の光で明らかにその迹《あと》を再び眺《なが》めました。
  そうして人間の血の勢《いきお》いというものの劇《はげ》しいのに驚きました。

  奥さんと私はできるだけの手際《てぎわ》と工夫を用いて、Kの室《へや》を掃除しました。
  彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団《ふとん》に吸収されてしまったので、
  畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。

  二人は彼の死骸《しがい》を私の室に入れて、
  不断の通り寝ている体《てい》に横にしました。
  私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。

  私が帰った時は、Kの枕元《まくらもと》にもう線香が立てられていました。
  室へはいるとすぐ仏臭《ほとけくさ》い烟《けむり》で鼻を撲《う》たれた私は、
  その烟の中に坐《すわ》っている女二人を認めました。

  私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来《さくやらい》この時が始めてでした。
  お嬢さんは泣いていました。
  奥さんも眼を赤くしていました。

  事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、
  その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。
  私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛《くつ》ろいだか知れません。
  苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、
  一滴《いってき》の潤《うるおい》を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

  私は黙って二人の傍《そば》に坐っていました。
  奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。
  私は線香を上げてまた黙って坐っていました。

  お嬢さんは私には何ともいいません。
  たまに奥さんと一口《ひとくち》二口《ふたくち》言葉を換《か》わす事がありましたが、
  それは当座の用事についてのみでした。

  お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。
  私はそれでも昨夜《ゆうべ》の物凄《ものすご》い有様を見せずに済んでまだよかったと、
  心のうちで思いました。

  若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角《せっかく》の美しさが、
  そのために破壊されてしまいそうで私は怖《こわ》かったのです。
  私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、
  私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。

  私には綺麗《きれい》な花を罪もないのに、
  妄《みだ》りに鞭《むち》うつと同じような不快がそのうちに籠《こも》っていたのです。

  国元からKの父と兄が出て来た時、
  私はKの遺骨をどこへ埋《う》めるかについて自分の意見を述べました。
  私は彼の生前に雑司ヶ谷《ぞうしがや》近辺をよくいっしょに散歩した事があります。
  Kにはそこが大変気に入っていたのです。

  それで私は笑談《じょうだん》半分《はんぶん》に、
  そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。
  私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬《ほうむ》ったところで、
  どのくらいの功徳《くどく》になるものかとは思いました。

  けれども私は私の生きている限り、
  Kの墓の前に跪《ひざまず》いて月々私の懺悔《ざんげ》を新たにしたかったのです。
  今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、
  Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。

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