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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  237

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 彼はある本屋の店先で、一冊の詩集を何気なく読んでみた。
 著者はまだ彼が知らない名前だった。
 彼はある言葉に心を打たれてひきつけられた。

 まだ切ってない紙の間を読みつづけてゆくにつれて、聞き覚えのある声が、親しい顔だちが、そこに浮かんでくるような気がした。
 彼は自分の感じてることがなんであるかはっきりわからなかったし、またその書物と別れる気にもなれないで、それを買い求めた。

 家に帰ってまた読み始めた。
 やはり気をひかれた。
 その詩の一徹な息吹《いぶ》きは、もろもろの広大な古来の魂――われわれが葉となり果実となってるもろもろの巨大な樹木――もろもろの祖国を、幻覚者がみるような正確さで描き出していた。

 母なる女神の超人間的な顔貌《がんぼう》が――現今の生者より以前にも存在し、以後にも存在し、ピザンティン式のマドンナに似て、麓《ふもと》には人間の蟻どもが祈ってる山岳のように高く君臨してるものの顔貌が――そのページから現われ出ていた。

 原始時代から鎗《やり》を交えて戦ってるそれらの偉大な女神らのホメロス式な決闘を、著者はほめたたえていた。
 それは実に永遠にわたるイーリアスであった。
 トロイのそれに比ぶれば、アルプス連山とギリシャの小丘との対比に等しかった。

 驕慢《きょうまん》と戦闘行為とのそういう叙事詩は、クリストフの魂のようなヨーロッパ的魂には縁遠かった。
 それでも、フランス魂の幻像――楯《たて》をもってる窈窕《ようちょう》たる処女、闇《やみ》の中に輝く青い眼のアテネ、労働の女神、類《たぐ》いまれなる芸術家、または、喧騒《けんそう》してる蛮人らを煌々《こうこう》たる鎗でなぎ倒す至上の理性など――のうちに明滅する、かつて愛したことのある見|馴《な》れた一つの眼つきを、一つの微笑を、クリストフは見てとった。

 けれどその幻像をとらえようとすると、それはすぐに消え失《う》せてしまった。
 そして彼はいらだってそのあとをいたずらに追っかけながら、ふとあるページをめくってみると、オリヴィエが死ぬる数日前に話してくれた物語を見出した。

 彼は心転倒した。
 その書物の出版所に駆けつけて詩人の住所を尋ねた。
 出版所では慣例によってそれを教えてくれなかった。

 彼は腹をたてたがどうにもできなかった。
 最後に年鑑によって手掛りを得ようと思いついた。
 果たしてそれが見つかったので、すぐに詩人の家へやっていった。
 彼は何かしたくなるとどうしても待つことができないのだった。

 バティニョール町のある最上階だった。
 幾つもの扉《とびら》が共通の廊下についていた。
 クリストフは教わった扉をたたいた。
 すると隣の扉が開かれた。

 濃い栗毛《くりげ》の髪を額に乱し、曇った色艶《つや》をし、眼の鋭い顔のやつれた、少しもきれいでない若い女が、なんの用かと彼に尋ねた。
 疑念をいだいてるらしい様子だった。
 彼は訪問の目的を述べ、名前を尋ねられたのでそれを明かした。

 彼女は自分の室から出て来て、身につけてる鍵《かぎ》で隣の扉を開いた。
 しかしすぐには彼をはいらせなかった。
 廊下で待ってるようにと言って、自分一人中にはいりながら彼の鼻先に扉を閉《し》めた。

 ついに彼はその用心のいい住居の中に通された。
 食事室になってる半ばがらんとした室を通った。
 破損した家具が少し並べてあるきりだった。
 窓掛もない窓ぎわに、十羽余りの小鳥が籠《かご》の中で鳴いていた。

 そのつぎの室の中に、一人の男が擦《す》れ切れた長椅子《いす》の上に横たわっていた。
 そしてクリストフを迎えるために身を起こした。
 魂の輝きを浮かべてる憔悴《しょうすい》したその顔、熱い炎が燃えてるビロードのような美しいその眼、怜悧《れいり》そうな長いその手、無格好なその身体、嗄《しわが》れた鋭いその声……クリストフは即座に見てとった……エマニュエルを!

 あの……罪はないが原因となった不具の少年労働者。
 そしてエマニュエルのほうでもクリストフを見てとって、にわかに立ち上がった。

 二人はしばし言葉もなかった。
 二人ともそのときオリヴィエを眼の前に浮かべた……。
 握手をすべきかどうか決しかねた。

 エマニュエルはあとに退《さが》るような身振りをしたのだった。
 十年たった後にも、ひそかな怨恨《えんこん》が、クリストフにたいする昔の嫉妬《しっと》の念が、本能の薄暗い奥から飛び出してきたのである。
 そして彼は疑い深い敵意ある様子でじっとしていた。

 しかし、クリストフの感動を見てとったとき、二人とも考えている「オリヴィエ」という名前を、クリストフの唇《くちびる》の上に読みとったとき、彼はもう抵抗することができなかった。
 自分のほうへ差し出されてる両腕の中に身を投じた。

 エマニュエルは尋ねた。
 「あなたがパリーに来ていられることは知っていました。
  けれどあなたは、どうして私を見つけ出されたのですか。」

 クリストフは言った。
 「君の最近の著書を読んだところが、その中から、彼の声を聞きとったよ。」

 「そうでしょう?」とエマニュエルは言った。
 「あの人だとおわかりになったんですね。現在の私はみなあの人のおかげです。」
 (彼はその名前を口に出すのを避けていた。)

 やがて彼は陰鬱《いんうつ》になって言葉をつづけた。
 「あの人は私よりあなたのほうを多く愛していました。」

 クリストフは微笑《ほほえ》んだ。
 「ほんとうに愛する者は、より多くとかより少なくとかいうことを知るものではない。
  自分の愛する人たちすべてに自分の全部を与えるものだ。」

 エマニュエルはクリストフをながめた。
 その意固地な眼の悲壮な真摯《しんし》さは、深い和らぎの色に突然輝かされた。
 彼はクリストフの手を取って、長椅子の上に自分のそばに彼をすわらせた。

 二人はたがいの身の上を語り合った。
 エマニュエルは十四歳から二十五歳までの間に、いろんな職業をやった。
 活版屋、経師《きょうじ》屋、小行商人、本屋の小僧、代言人の書記、ある政治家の秘書、新聞記者。

 そしてどの職業にいても、彼は何かの方法を講じて熱烈に勉強した。
 時には、小男の彼の精力に感心した善良な人々の支持を得たが、またさらにしばしば、彼の困窮と才能とを利用せんとする人々の手にかかった。
 そして多くの苦しい経験を積み、虚弱な健康の残りを失っただけで、さほど悲観もしないで通りぬけてきた。

 古代言語にたいする特別な能力(古典崇拝の伝統が沁《し》み込んでる民族においては、それは人が思うほど異常なものではないが)のために彼は、ギリシャ研究家である一老牧師の同情と支持とを得た。

 彼はその研究をあまり進めるだけの隙《ひま》を得なかったが、それは彼のために精神の訓練となり文体の習得となった。
 民衆の泥《どろ》の中から出て来た彼の教育は、すべてその時々に独習されたものであり、非常な欠陥を示してはいたが、それでも彼は、中流の青年が十年間の大学教育によっても得られないほどの、言辞上の表現の才と思想による形式の駆使とを、得てきたのだった。

 彼はそれをオリヴィエのおかげだとしていた。
 他にも彼をもっと有効に助けてくれた者は幾人かいた。
 しかし彼の魂の闇夜の中に永遠の燈火を点じた火花は、オリヴィエから来たのだった。
 他の人々はただその燈火に油を注いでくれたばかりだった。

 彼は言った。
 「私はあの人がこの世を去るときになってようやく、あの人を理解し始めました。
  けれどもあの人が私に言ってきかしたことは、みな私の中にはいっていました。
  あの人の光は、かつて私から離れたことがありません。」

 彼は自分の作品のことを話した。
 オリヴィエから譲り受けたと自称してる仕事のことを話した。
 すなわち、フランス人の精力の覚醒《かくせい》、オリヴィエがあらかじめ告げていた勇壮な理想主義の火種、などのことを話した。

 争闘の上を翔《かけ》って来るべき勝利を告ぐる高らかな声に、みずからなろうと欲していた。
 復活した己《おの》が民族の叙事詩を歌っていた。
 その不思議な民族は、征服者たるローマの古着と法則とを己が思想に着せかけて、妙な慢《ほこ》りを感じながらも、古いケルトの香気を幾世紀間も強く保存してきたのであった。

 そしてエマニュエルの詩は、まさしくその民族の所産であった。
 あのゴール人特有の大胆さ、狂気じみた理性と皮肉と勇壮との精神、ローマ元老院議員らの髯《ひげ》をむしりにゆき、デルポイの寺院を略奪し、笑いながら天に向かって投鎗《なげやり》を投ずる、あの高慢と馬鹿元気との混合、などがまったくそのまま彼の詩の中に見えていた。

 しかしパリーの靴《くつ》屋の小僧である彼は、鬘《かつら》をつけていた先人らがなしたように、また後人らがかならずなすだろうように、二千年前に死んだギリシャの英雄らや神々の身体のうちに、自分の熱情を化身せしむることが必要だった。

 それは実に、自分の絶対要求と合致するこの民族の不思議な本能である。
 自分の思想を過去の時代の痕跡《こんせき》の上にすえながら、その思想をあらゆる時代に課そうとしてるがようである。
 そういう古典的形式の束縛はかえって、エマニュエルの熱情にいっそう激しい勢いを与えていた。

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