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名作を読みませんかコミュのレ・ミゼラブル  ビクトル・ユーゴー 作   豊島与志雄 訳  41

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   第四編 委託は時に放棄となる


     一 母と母との出会い

 パリーの近くのモンフェルメイュという所に、今ではもう無くなったが、十九世紀の初めに一軒の飲食店らしいものがあった。
 テナルディエという夫婦者が出していたもので、ブーランジェーの小路にあった。

 戸口の上の方には、壁に平らに釘《くぎ》付けにされてる一枚の板が見られた。
 その板には、一人の男が他の一人の男を背負っているように見える絵が描《か》いてあった。

 背中の男は、大きな銀の星がついてる将官の太い金モールの肩章をつけていた。
 血を示す赤い斑点《はんてん》が幾つもつけられていた。
 画面の他の部分は、一面に煙であってたぶん戦争を示したものであろう。

 下の方に次の銘が読まれた。
 「ワーテルローの軍曹へ。」

 旅籠屋《はたごや》の入口に箱車や手車があるのは、いかにも普通のことである。
 一八一八年の春のある夕方、ワーテルローの軍曹の飲食店の前の通りをふさいでいた馬車は、なお詳しく言えばそのこわれた馬車は、いかにも大きくて、もし画家でも通りかかったらきっとその注意をひくであろうと思われるほどだった。

 それは森林地方で厚板や丸太を運ぶのに使われる荷馬車の前車《まえぐるま》であった。
 その前車は、大きな鉄の心棒と、それに嵌《は》め込んである重々しい梶棒《かじぼう》と、またその心棒をささえるばかに大きな二つの車輪とでできていた。

 その全体はいかにもでっぷりして、重々しく、またぶかっこうだった。ちょうど大きな大砲をのせる砲車のようだった。
 車輪や箍《たが》や轂《こしき》や心棒や梶棒などは厚く道路の泥をかぶって、大会堂を塗るにもふさわしい変な黄色がかった胡粉《ごふん》を被《き》せたがようだった。
 木の所は泥にかくれ、鉄の所は錆《さび》にかくれていた。

 心棒の下には、凶猛な巨人ゴライアスを縛るにいいと思われるような太い鎖が、綱を渡したようにつるされていた。
 その鎖は、それで結《ゆわ》えて運ぶ大きな木材よりもむしろ、それでつながれたかも知れない太古の巨獣マストドンやマンモスなどを思い浮かばせた。

 それは牢獄のような感じだった。
 それも巨人のそして超人間的な牢獄である。
 そして何かある怪物から解き放して置かれているかのようだった。
 ホメロスはそれをもってポリフェモスを縛し、シェークスピアはそれをもってカリバンを縛したことであろう。

 なぜそんな荷馬車の前車がそこの小路に置かれているかというと、第一には往来をふさぐためで、第二には錆《さ》びさせてしまうためだった。
 昔の社会には種々な制度があって、そんなふうに風雨にさらして通行の邪魔をするものがいくらもあった、そしてそれも他には何らの理由もないのである。

 さてその鎖のまん中は心棒の下に地面近くまでたれ下がっていた。
 そしてその撓《たる》んだ所にちょうどぶらんこの綱にでも乗ったようにして、その夕方、二人の小さな女の児が腰を掛けて嬉しそうに寄りそっていた。

 一人は二歳半ぐらいで、も一人のは一歳半ぐらいであって、小さい方の児は大きい方の児の腕に抱かれていた。
 うまくハンカチを結びつけて二人が鎖から落ちないようにしてあった。
 母親がその恐ろしい鎖を見て、「まあ、私の子供にちょうどいい遊び道具だ、」と言ってそうさしたのだった。

 二人の子供は、それでもきれいなそしていくらか念入りな服装《みなり》をさせられて、そして生き生きとしていた。
 ちょうど錆びくちた鉄の中に咲いた二つの薔薇《ばら》のようだった。
 その目は揚々《ようよう》と輝き、その瑞々《みずみず》しい頬には笑いが浮かんでいた。

 一人は栗《くり》色の髪で、一人は褐色《かっしょく》の髪をしていた。
 その無邪気な顔は驚喜すべきものだった。
 通り過ぐる人たちににおって来る傍《かたわら》の叢《くさむら》の花のかおりも、その子供たちから出てくるのかと思われた。

 一歳半の方の子供は、かわいらしい腹部を露《あら》わに見せていたが、その不作法さもかえって幼児の潔《きよ》らかさであった。

 その幸福と輝きとのうちに浸ってる二人の優しい頭の上やまわりには、荒々しい曲線と角度とがもつれ合い錆で黒くなってほとんど恐ろしいばかりの巨大な前車が、洞穴《ほらあな》の入り口のように横たわっていた。

 そこから数歩離れて、宿屋の敷居《しきい》の所にうずくまってあまり人好きのせぬ顔立ちではあるがその時はちょいとよく見えていた母親が、鎖につけた長いひもで二人の子供を揺すりながら、母性に特有な動物的で同時に天使的な表情を浮かべて、何か危険なことが起こりはすまいかと気使って見守っていた。

 鎖の揺れるたびごとに、その気味悪い鉄輪は、怒りの叫び声にも似た鋭い音を立てた。
 が、子供たちは大喜びで、夕日までがその喜びに交じって輝いていた。
 巨人の鎖を天使のぶらんこにしたその偶然の思いつきほど人の心をひくものはなかった。
 二人の子供を揺すりながら、母親は当時名高い恋歌を調子はずれの声で低く歌っていた。


余儀なし、と勇士は言いぬ……


 歌を歌いまた子供たちを見守っていたために、彼女には往来で起こってることが聞こえも見えもしなかった。
 けれども、彼女がその恋歌の初めの一連を初めた時には、だれかが彼女のそばにきていた。
 そして突然彼女は自分の耳のすぐそばに人の声をきいた。
 「まあかわいいお児さんたちでございますね。」


美しく優しきイモジーヌへ。


 と母親はなお歌い続けながらその声に答えて、それからふり向いてみた。

 一人の女がすぐ数歩前の所にいた。その女もまた一人の子供を腕に抱いていた。
 女はなおその外に、重そうに見えるかなり大きな手鞄《てかばん》を持っていた。

 その女の子供は、おそらくこの世で見らるる最も聖《きよ》い姿をしたものの一つであった。
 二歳《ふたつ》か三歳《みっつ》の女の児だった。
 服装《みなり》のきれいなことも前の二人の子供に劣らなかった。

 上等のリンネルの帽子をかぶり、着物にはリボンをつけ、帽子にはヴァランシエーヌ製のレースをつけていた。
 裳《も》の襞《ひだ》が高くまくられているので、ふとった丈夫そうな白い腿《もも》が見えていた。

 美しい薔薇《ばら》色の顔をして健康そうだった。
 頬は林檎《りんご》のようでくいつきたいほどだった。
 その目については、ごく大きくてりっぱな睫毛《まつげ》を持ってるらしいというほかはわからなかった。
 子供は眠っていたのである。

 子供はその年齢特有な絶対の信頼をこめた眠りにはいっていた。
 母親の腕は柔和である。
 子供はそのなかに深く眠るものである。

 母親の方は見たところ貧しそうで悲しげだった。
 またもとの百姓女に返ろうとでもしているような女工らしい服装をしていた。
 まだ年は若かった。

 あるいはきれいな女であったかも知れないが、その服装ではそうは見えなかった。
 ほつれて下がっている一ふさの金髪から見ると、髪はいかにも濃さそうに思えるけれど、あごに結びつけたきたない固い小さな尼さんのような帽子のために、すっかり隠されていた。

 美しい歯があれば笑うたびに見えるのだが、その女は少しも笑わなかった。
 目は既に久しい以前から涙のかわく間もなかったように見えていた。
 顔は青ざめていた。疲れきって病気ででもあるようなふうをしていた。

 腕の中に眠っている女の児を、子供を育てたことのある母親に独特な一種の顔付きでのぞき込んでいた。
 廃兵の持ってるような大きな青いハンカチをえりにたたみつけて、肩が重苦しそうに蔽《おお》われていた。

 手は日に焼けて茶褐色の斑点《はんてん》が浮き出していて、食指は固くなって針を持った傷がついていた。
 褐色の荒い手織りのマントを着、麻の長衣をつけ、粗末な靴をはいていた。

 それがファンティーヌであった。

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