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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  96

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  四十三


 「その頃《ころ》は、
  覚醒《かくせい》とか新しい生活とかいう文字《もんじ》のまだない時分でした。

  しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、
  一意《いちい》に新しい方角へ走り出さなかったのは、
  現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。

  彼には投げ出す事のできないほど尊《たっと》い過去があったからです。
  彼はそのために今日《こんにち》まで生きて来たといってもいいくらいなのです。
  だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、
  決してその愛の生温《なまぬる》い事を証拠立てる訳にはゆきません。

  いくら熾烈《しれつ》な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。
  前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、
  Kはどうしてもちょっと踏み留《とど》まって、
  自分の過去を振り返らなければならなかったのです。
  そうすると過去が指し示す路《みち》を今まで通り歩かなければならなくなるのです。

  その上彼には現代人のもたない強情《ごうじょう》と我慢がありました。
  私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。

  上野《うえの》から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜《よ》でした。
  私はKが室《へや》へ引き上げたあとを追い懸けて、
  彼の机の傍《そば》に坐《すわ》り込みました。
  そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。

  彼は迷惑そうでした。
  私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、
  私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。
  私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳《かざ》した後《あと》、自分の室に帰りました。

  外《ほか》の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、
  その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。

  私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。
  しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。
  見ると、間の襖《ふすま》が二尺《しゃく》ばかり開《あ》いて、
  そこにKの黒い影が立っています。
  そうして彼の室には宵《よい》の通りまだ燈火《あかり》が点《つ》いているのです。

  急に世界の変った私は、少しの間《あいだ》口を利《き》く事もできずに、
  ぼうっとして、その光景を眺《なが》めていました。

  その時Kはもう寝たのかと聞きました。
  Kはいつでも遅くまで起きている男でした。
  私は黒い影法師《かげぼうし》のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。

  Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、
  便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。

  Kは洋燈《ランプ》の灯《ひ》を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、
  全く私には分りませんでした。
  けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。

  Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。
  私の室はすぐ元の暗闇《くらやみ》に帰りました。
  私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。
  私はそれぎり何も知りません。

  しかし翌朝《よくあさ》になって、昨夕《ゆうべ》の事を考えてみると、
  何だか不思議でした。
  私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。

  それで飯《めし》を食う時、Kに聞きました。
  Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。
  なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然《はっきり》した返事もしません。
  調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。
  私は何だか変に感じました。

  その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、
  二人はやがていっしょに宅《うち》を出ました。
  今朝《けさ》から昨夕の事が気に掛《かか》っている私は、
  途中でまたKを追窮《ついきゅう》しました。
  けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。

  私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。
  Kはそうではないと強い調子でいい切りました。
  昨日《きのう》上野で、
  「その話はもう止《や》めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。

  Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。
  ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。
  すると今までまるで気にならなかったその二字が、
  妙な力で私の頭を抑《おさ》え始めたのです。

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