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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  148

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    一五 明暗交錯


 翌日、学校では、もう朝から、朝倉先生が駅で憲兵に取調べられたことや、次郎が駅からの帰りに曾根少佐に呼びつけられたことなどが、生徒間の噂の種になっていた。
 そしてその原因が、白鳥会員だけで催《もよお》された朝倉先生の「秘密な」送別会にあったということは、一部の生徒の次郎に対する淡い反感の種になっているらしかった。

 「白鳥会で朝倉先生を独占しようなんて考えるのが、第一まちがっているよ。」
 「本田は、はじめっからそんな考えでやっていたにちがいないんだ。
  血書を書いたことだって、新賀のほかには誰も知ったものはいなかったんだろう。」
 「要するに今のさわぎは白鳥会のために起ったようなものさ。」
 「白鳥会のためならまだいいが、本田個人のためだったんじゃないかな。」
 「そんなことを考えると、何だかばかばかしくなって来るね。」
 「しかし、もうすんだことだ。
  それに、あと始末は本田がひとりでつけるだろう。」
 「はっはっはっ。」
 そんな会話も取り交わされていた。

 午ごろになって、職員室の掲示用の黒板に、つぎの文句が記されていた。
 「本日放課後、第一会議室において緊急職員会議開催につき、
  事務職員以外は洩《も》れなく参集せられたし。」
 それを最初に見つけた一生徒は、鬼の首でもとったように、すぐそのことを生徒仲間につたえた。

 すると生徒たちはまた新しい話題で興奮しはじめた。
 朝倉先生を見送って、ともかくも事件が一段落ついたあとの最初の職員会議であり、それに、第一会議室が、いつも秘密を必要とする会議に使われるのを生徒たちはよく知っていたので、それが何を意味するかは、彼らにもすぐ想像がついたのである。

 「いよいよ処罰会議だぜ。
  今度は相当きびしいかも知れんよ。」
 「何しろ、曾根少佐が頑張っているからね。」
 「しかし、曾根少佐は問題をあまり大きくしたくない考えだっていうじゃないか。」
 「まさか。
  あいつにそんなやさしい考えなんかあるもんか。」
 「やさしい考えからじゃないよ。
  それがあいつの手なんだよ。」

 「手だっていうと?」
 「自分が配属将校でいる間は、思想問題は大丈夫だっていうところを見せたいんだってさ。」
 「ふうん。
  そんなことを考えているんか。
  じゃ処罰は案外軽いかな。」
 「僕は軽いと思う。
  退学なんかあまりないんじゃないかな。
  第一、あんまりひどいことをやると、僕たちもだまっておれんからね。
  そうなると、また学校が困るだろう。」

 「曾根少佐も、それを心配しているんだよ、きっと。」
 「自分の名誉のためにか。」
 「ふっふっふっ。」
 「しかし、一同訓戒程度ですんだら、蟇の効用もたいしたもんだね。」
 「そんなわけには行かんよ。
  白鳥会の秘密送別会のことは、憲兵隊が問題にしているというし、
  曾根少佐だって、もうどうにも出来んだろう。」

 「少くとも、本田だけは危いね。
  血書のこともあるし。」
 「あいつ、少し図《づ》にのりすぎていたんだ。
  仕方がないよ。」
 「そのくせ、ストライキだけにはいやに反対していたんだが、
  あれはやっぱり朝倉先生に対する忠勤《ちゅうきん》のつもりだったかね。」
 「さあ、どうだか。
  それも一種の手だったかも知れんぜ。」

 「そうだと本田もあてはずれだね。
  曾根少佐は今でも、
  本田をストライキの煽動者《せんどうしゃ》だと見ているっていうじゃないか。」
 「そうらしい。
  本田は陰険で表と裏がいつもちがっている、と言っているそうだ。」
 「今になって、本田も、思いきってストライキをやらなかったのを後悔しているだろう。」

 こんな噂は、しかし、必ずしも、次郎に反感をもった生徒たちの間だけの噂だとばかりはいえなかった。
 彼らの大多数はもうほとんど事件に対する熱からさめてしまって、今さら処罰されるのがばかばかしいという気になっていた。
 で、処罰の範囲《はんい》が最小限度に食いとめられ、自分たちはその圏《けん》外に立ちたいという、無意識的な希望的観測から、自然、次郎というのっぴきならないらしい「犯罪者」と、その犯罪者を最もにくんでいるらしい曾根少佐とに、噂の焦点を集中していたのである。

 そうした種類のさまざまな噂が、あちらこちらで飛んでいる間に、どこからともなく、誰もそれまで予感もしなかった、全く新しい一つの噂がまいこんで来た。
 それは、次郎は女の問題で退学処分になるらしい、という噂であった。
 しかも、この噂は、非常な速度で全校にひろがった。
 そして、次郎に対する反感からの噂やら、希望的観測からの噂やらの中をころげまわっているうちに、しまいには、ちょうど雪達磨《ゆきだるま》がふとるように、十分重量のある噂になってしまったのである。

 その噂というのは、こうであった。
 学校は、朝倉先生の問題を表面に出して生徒を処罰することはやらないらしい。
 それを表面に出すと、処罰者は一人や二人ではすまないし、また、それには、生徒の一人一人についてもっとくわしく取調べなければならない。
 そんなことをしているうちに、さわぎを再発させるようなことがあっては面倒である。

 それに、第一、留任運動のために歎願書を出したというだけでは、何としても処罰の理由にはならない。
 それを思想問題に結びつけることは、朝倉先生が去ったあとでは、もう大してその必要もないし、また、それは曾根少佐が好まないところだ。
 しかし、そうかといって、血書を書いたり、秘密に送別会をやったりして、朝倉先生のためにあれほど仂いた次郎を、そのままにして置くわけにはいかない。

 曾根少佐も、次郎だけは何とかして学校から放逐したい、と考えている。
 そこで曾取少佐と西山教頭とが相談して、非常にずるいことを考え出した。
 それは女の問題を理由にして次郎を処罰することだ。
 校長も、ほかの教師も、二人の言いなりになるのだから、今日の会議で、多分そうきまるだろう。
 と、いうのである。

 この噂が、それほど筋のとおったものになるのには、むろんそれ相当の理由があった。
 それは馬田一派の活躍であった。
 彼ら、とりわけ馬田自身は、次郎を事件の犠牲者にして英雄に仕立てあげるよりも、女の問題で彼に汚名をきせることに、より多くの興味をもっていたし、また、このごろ曾根少佐の家に出入することによって、信ずべき情報の提供者として有利な地位を占めていたのである。
 次郎は、この日も、あたりまえに学校に出ていた。

 しかし、そうした噂は、いつも彼の耳から遠いところで語られていた。
 また、彼自身それに近づいて行こうともしなかった。
 彼はへ休み時間になると、ひとりで校庭をぶらつきながら、いかにも感慨深そうに、あちらこちらを見まわしているだけだった。

 誰よりもこの噂で気をくさらしたのは、新賀と梅本だった。
 二人は最初のうちそれを一笑に附《ふ》していたが、生徒たちのどのかたまりででも同じようなことが語られているのを聞くと、とうとうたまりかねて、次郎を人けのない倉庫のうらに誘いこみ、半《なか》ば詰問するように、女の問題について彼自身の説明を求めた。

 次郎はさびしく微笑して、しばらく二人の顔を見つめると、かなり烈しい調子で言った。
 「僕はどうせ退学さ。
  それはもうきまっている。
  昨日の曾根少佐との問題があるからね。
  僕自身でも、もうこの学校には未練がないんだから、甘んじて処分はうけるよ。

  しかし、不都合の行為あり退学を命ず、というような掲示が出た時に、
  それを女の問題だと思われたんじゃ、僕も残念だよ。
  だから、これだけは、はっきり君らに事情を話して置きたい。
  実は、これまで誰にも話すまいと思っていたんだが、そんな宣伝をする奴は、
  馬田にちがいないと思うから、馬田のためにも言って置く必要があるんだ。」

 そう言って彼は、彼がこれまで道江のために馬田に対してとった態度をかくさず説明した。
 彼は、しかし、説明しているうちに、心の奥に何か知ら暗い影がさすような気がして、自分ながら自分の言葉の調子がみだれるのをどうすることも出来なかった。

 彼はその影をはらいのけるように、最後に調子を強めて言った。
 「僕には何もやましいことはない。
  僕は僕の信じることをやったまでだ。
  それがいけないというんなら、もう仕方がないさ。
  しかし、君らだけには信じてもらいたいね。」

 梅本も新賀も、むしろ驚いたように次郎の顔を見つめていた。
 すると、次郎は、また淋しく微笑して、
 「とにかく僕ひとりが犠牲《ぎせい》になれば、何もかもそれで片づくんだ。
  そう思うと、女の問題だろうと何だろうと構《かま》わんという気もするね。
  ただ僕が心配しているのは、送別会のことで、
  君ら二人に迷惑がかかりはしないかということだ。
  あれは僕があくまでも全責任を負うよ。
  実際責任は僕にあるんだからね。
  そのつもりで、学校が何と言おうと、君らは頑張ってくれたまえ。」
 二人はそれに対しては何とも答えなかった。

 梅本は、すぐ、くってかかるように言った。
 「君ひとりが犠牲になったからって、何も片づきはせんよ。
  僕は、もし学校に残ることが出来れば、
  さっそく馬田の征伐をはじめたいと思っているんだ。」
 すると新賀が、
 「そうだ。
  そしてそのつぎは西山と曾根だ。
  僕はそのためになら、僕の海軍志望を棒にふってもいい。」

 次郎は一瞬、躍《おど》りあがりたいほどの興奮を覚えた。
 しかし、つぎの瞬間には、彼はその興奮をおさえようとして、心の底でもがいていた。
 彼はしばらくして言った。
 「そんなこと、ばかばかしいよ。
  こんなちっぽけな中学校のことなんか、もう、どうだっていいんだ。
  僕たちには、もっと大きな仕事が待っているんだから。」
 彼は、しかし、言ってしまって何かうつろな気がした。
 それがまだ彼の心の奥底からの声になっていなかったことは、彼自身が一番よく知っていたのである。

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