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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  92

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  三十九


 「Kの生返事《なまへんじ》は翌日《よくじつ》になっても、その翌日になっても、
  彼の態度によく現われていました。
  彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色《けしき》を決して見せませんでした。

  もっとも機会もなかったのです。
  奥さんとお嬢さんが揃《そろ》って一日宅《うち》を空《あ》けでもしなければ、
  二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。

  私《わたくし》はそれをよく心得ていました。
  心得ていながら、変にいらいらし出すのです。
  その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗《あん》に用意をしていた私が、
  折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。

  同時に私は黙って家《うち》のものの様子を観察して見ました。
  しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振《そぶり》にも、
  別に平生《へいぜい》と変った点はありませんでした。

  Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、
  彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心《かんじん》の本人にも、
  またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥《たし》かでした。

  そう考えた時私は少し安心しました。
  それで無理に機会を拵《こしら》えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、
  自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、
  例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。

  こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、
  潮《しお》の満干《みちひ》と同じように、色々の高低《たかびく》があったのです。

  私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。
  奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、
  二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑《うたが》ってもみました。

  そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、
  明瞭《めいりょう》に偽《いつわ》りなく、
  盤上《ばんじょう》の数字を指し得《う》るものだろうかと考えました。

  要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句《あげく》、
  漸《ようや》くここに落ち付いたものと思って下さい。
  更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、
  この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。

  その内《うち》学校がまた始まりました。
  私たちは時間の同じ日には連れ立って宅《うち》を出ます。
  都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。

  外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。
  けれども腹の中では、各自《てんでん》に各自《てんでん》の事を、
  勝手に考えていたに違いありません。

  ある日私は突然往来でKに肉薄しました。
  私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、
  または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。
  私のこれから取るべき態度は、
  この問いに対する彼の答え次第で極《き》めなければならないと、私は思ったのです。

  すると彼は外《ほか》の人にはまだ誰《だれ》にも打ち明けていないと明言しました。
  私は事情が自分の推察通りだったので、内心嬉《うれ》しがりました。

  私はKの私より横着なのをよく知っていました。
  彼の度胸にも敵《かな》わないという自覚があったのです。
  けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。

  学資の事で養家《ようか》を三年も欺《あざむ》いていた彼ですけれども、
  彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。
  私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。
  だからいくら疑い深い私でも、
  明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。

  私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。
  それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、
  実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。

  しかるに彼はそこになると、何にも答えません。
  黙って下を向いて歩き出します。
  私は彼に隠《かく》し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。

  彼は何も私に隠す必要はないと判然《はっきり》断言しました。
  しかし私の知ろうとする点には、一言《いちごん》の返事も与えないのです。
  私も往来だからわざわざ立ち留まって底《そこ》まで突き留める訳にいきません。
  ついそれなりにしてしまいました。

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