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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  25

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  二十一


 父は毎日、馬に乗って外へ出かけた。
 彼は赤栗毛》の、すばらしいイギリス馬を持っていた。
 すらりと細長い首をして、よく伸びた脚をして、疲れを知らぬ荒馬だった。
 その名を、「いなずま(エレクトリーク)」といって、父のほかには誰一人、乗りこなす人はなかった。

 ある日のこと、父は久方ぶりの上機嫌で、わたしの部屋へ入ってきた。
 彼はこれから馬で出かけるところで、ちゃんと拍車をつけていた。
 わたしは、一緒に連れて行って下さいとせがんだ。

 「まあそれより、馬とびでもして遊んだらいいだろう」と、父は答えた。
 「おまえの痩せ馬じゃ、とてもついて来られまいからな」

 「ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから」
 「ふむ、まあいいだろう」
 わたしたちは出発した。

 わたしの馬は、むく毛の若い黒馬で、脚も丈夫だし、悍も相当つよかった。
 もっとも、エレクトリークが早足いっぱいに走り出すと、わたしの馬は全速力を出さなければならなかったが、とにかくわたしは食い下がって行った。

 わたしは、父ほどの乗り手を見たことがない。
 その馬上の姿は実に美しく、無造作に楽々と乗りこなしているところは、鞍の下の馬までが感じ入って、乗り手を誇りとしているように見えた。

 わたしたちは、並木通りを片っぱしから乗り尽して、処女が原(おとめがはら)もしばらく乗り回し、垣根も幾つか跳び越して(初めは跳び越すのが怖《こわ》かったけれど、父が臆病者《おくびょうもの》を軽蔑するので、やがてわたしも怖がらなくなった)、モスクワ川を二度も渡った。

 それでわたしは、もうそろそろ帰るのだろうと思った。
 ましてや当の父が、わたしの馬の疲れたことに目をとめたからには、なおさらのことだった。

 ところが父は、いきなりわたしのそばから馬首を転じると、クリミア浅瀬からわきへそれて、河岸づたいにまっしぐらに飛ばし始めた。
 わたしは懸命にあとを追った。

 古丸太が山のように積み上げてある所までくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも下りるように命じた。
 そして、自分の馬の手綱をわたしにあずけると、しばらくその丸太積みのそばで待っているように言いつけて、自分は細い横町へ折れるなり、姿を消してしまった。

 わたしは、二頭の馬を引っぱって、エレクトリークを叱りつけながら、河岸を行ったり来たりし始めた。
 エレクトリークは歩きながら、ひっきりなしに頭を振りもぎったり、胴ぶるいをしたり、鼻を鳴らしたり、いなないたりした。

 わたしが立ち止まると、左右の蹄でかわるがわる土を掘ったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまに噛みついたりした。
 要するにまあ、甘やかされ放題の純血種らしく振舞ったわけである。

 父はなかなか戻って来なかった。
 川からは、いやに湿っぽい風が吹いてきた。
 ぬか雨が音もなく降り出して、さっきからわたしがさんざんそばをぶらついて、今ではもう飽き飽きしてしまった馬鹿げた灰色の丸太の山に、べた一面ちっぽけな黒ずんだ点々をつけた。

 わたしは心細くなってきたが、父はやっぱり戻って来ない。
 フィンランド人のお巡りさんが一人、上から下までやはり灰色の服を着け、壺みたいな格好の、おそろしく大きな古くさい筒形帽子をかぶり、ほこ形の警棒を小脇にして、(それにしても、なんだって巡査《じゅんさ》がモスクワ川の岸になんぞいるのだろう!)わたしに近づいてきた。

 そして、婆さんじみた皺だらけの顔をわたしに向けると、こう言った。
 「あんた馬なんか連れてこんな所で、何してるんですね、ええ、坊ちゃん?
  およこしなさい、持っていてあげるから」

 わたしは返事をしなかった。
 彼は煙草をねだった。
 この男からのがれたさに(それにまた、待ち遠しさに耐《た》えかねもして)、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。

 それから、その横町をはずれまで行って、角を曲ると、はたと立ち止った。
 そこの往来を、ものの四十歩ほど行った先の所に、木造の小さな家のあけはなされた窓に向って、背中をこちらへ向けながら、父が立っていたのである。

 父は胸を窓がまちにもたせていた。
 家の中には、カーテンに半ば隠れながら、黒っぽい服を着た女が坐って、父と話をしている。
 この女が、ジナイーダだった。

 わたしは立ちすくんでしまった。
 全くのところ、そんなことは思いもかけなかったのである。
 わたしのしかけた最初の動作は、逃げ出すことだった。

 『父は振返るかもしれない』と、わたしは考えた。
 『そしたら、もう万事休すだ』
 けれど、不思議な感情が、好奇心よりも強く、嫉妬などよりまだ強く、恐怖よりも強い感情が、わたしを引止めた。

 わたしは、じっと目をこらし始めた。
 一生けんめい聴き耳を立てた。
 父は、しきりに何やら言い張っているらしかった。

 ジナイーダは、いっかな承知しない。
 その彼女の顔を、今なおわたしは目の前に見る思いがする。
 悲しげな、真剣な、美しい顔で、そこには心からの献身と、嘆きと、愛と、一種異様な絶望との、なんとも言いようのない影がやどっていた。

 そうとでも言うほかには、わたしは言葉を考えつかない。
 彼女は、「ええ」とか「いいえ」とかいったたぐいの、短い言葉で受け答えしていて、眼を上げずに、ただほほ笑んでいた。

 従順な、しかも頑なな微笑である。
 この微笑を見ただけでもわたしは、ああ、もとのジナイーダだなと思った。

 父はひょいと肩をすくめて、帽子をかぶり直した。
 それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。

 それから、
 「あなたは思い切らなくちゃだめです。
  そんな無理な《ヴー・ドヴェー・ヴー・セパレー・ド・セット》……」という父の声がした。

 ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさし伸べた。
 その途端に、わたしの見ている前で、あり得べからざることが起った。

 父がいきなり、今まで長上着の裾の埃をはらっていた鞭を、さっと振上げたかと思うと、肘までむきだしになっていたあの白い腕を、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。

 わたしは思わず叫び声を立てようとして、あやうく自分を押えた。
 ジナイーダは、ぴくりと体を震わしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくり唇へ当てがって、一筋真っ赤になった鞭のあとに接吻した。

 父は、鞭をわきへほうりだして、あわてて玄関の段々を駆けあがると、家の中へとび込んだ。
 ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、顔をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。

 驚きのあまり気が遠くなって、おそろしい疑惑に胸を締めつけられながら、わたしはもと来た方へ駆け出して、横町を走り抜ける拍子に、すんでのことでエレクトリークの手綱を離すところだったが、とにかく河岸へとって返した。

 あたまがこんぐらかって、全然まとまりがつかなかった。
 わたしは、冷静で自制力の強い父が、時々発作的な狂暴さを見せることは知っていたが、それにしても今しがた見た光景は、なんとしても合点がゆかなかった。

 とはいえ、わたしは同時にまた、このさき自分がどれほど生きるにせよ、ジナイーダのあの身の動き、あの眼差し、あの微笑を忘れることは、終生とてもできまい。
 今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの眼に映ったあの姿は、永遠にわたしの記憶に焼きつけられたのだ、とも感じた。

 わたしは、ぼんやり川に見入りながら、涙のながれているのに気づかずにいた。
 『あのひとが、ぶたれるのだ』と、わたしは思った。
 『ぶたれるのだ……
  ぴしり……ぴしり……』

 「おい、どうしたね。
  馬をおよこし!」と、後ろで父の声がした。

 わたしは、うわの空で手綱をわたした。
 父はひらりと、エレクトリークにまたがったが、凍えきった馬はいきなり後脚で突っ立って、一丈あまりも前へはねた。

 だが父は、じきに馬をしずまらせた。
 ぐいと拍車を両の脇腹へ入れて、握りこぶしで首に一撃を加えたのである。

 「ちえっ、鞭がない」と、父はつぶやいた。
 わたしは、ついさっきの風を切る唸りと、その鞭がぴしりと鳴った音を思い出して、おもわず震え上がった。

 「どこへやったんですか?」と、しばらくしてからわたしは訊いた。
 父は答えずに、ずんずん前へ飛ばした。
 わたしは追いついた。
 どうしても父の顔が見たかったのだ。

 「わたしのいない間、退屈だったろうな、お前?」と父は、へんにもぐもぐした声で言った。
 「ええ、少しね。でも、一体どこへ鞭を落したんです?」と、わたしはまた訊いた。

 「落したのじゃない」と、父は言い放った。
 「捨てたのさ」
 彼は急に考え込んで、うなだれた。

 わたしはその時初めて、そして多分これを最後に、父のきびしい顔だちがどれほどの優しさと同情の思いを、表わすことができるかを見たのである。

 父はまた馬を飛ばし出した。もうわたしは追いつけなかった。
 わたしは十五分ほど遅れて、家に帰りついた。

 『これが恋なのだ』とわたしは、その夜がふけてから、デスクの前に坐って、またもやひとりごちた。
 そのデスクの上には、すでにノートや参考書がそろそろ並び出していた。

 『これが情熱というものなのだ!
  ちょっと考えると、たとえ誰の手であろうと、
  よしんばどんな可愛らしい手であろうと、
  それでぴしりとやられたら、とても我慢はなるまい、
  憤慨せずにはいられまい!

  ところが、一旦恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。
  それを俺は、
  それを俺は、
  今の今まで思い違えて……』

 この一月の間に、わたしは大層年をとってしまった。
 そして自分の恋も、それに伴ういろんな興奮や悩みも、いま新たに出現した未知の何ものかの前へ出すと、我ながらひどく小っぽけな、子供じみた、みすぼらしいものに見えた。

 とはいえ、その未知の何ものかの正体は、わたしにはほとんど推察することができなかった。
 それはただ、自分が一生けんめい薄闇の中で見きわめようと空しい努力をしている、見知らぬ、美しい、しかも物凄い顔のように、わたしをおびえさせるだけであった。

 ちょうどその夜、わたしは奇妙な恐ろしい夢をみた。
 わたしは、天井の低い暗い部屋へ入って行くところだった。
 と、父が鞭を手に仁王立ちになって、足を踏み鳴らしていた。

 隅の方には、ジナイーダが身を縮めていたが、その腕にではなしに、その額に、紅い一筋がついている。
 そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿怒にわななきながら、父を脅かすのだった。

 ふた月すると、わたしは大学に入った。
 それから半年後に、父は脳溢血のため、ペテルブルグで亡くなった。
 母やわたしを連れて、そこへ引移ったばかりのところだった。

 死ぬ二、三日前に、父はモスクワから一通の手紙を受取ったが、それを見て父は非常に興奮した。
 彼は母のところへ行って、何やら頼み込んだ。

 そして聞くところによると、泣き出しさえしたそうである。
 あの、わたしの父がである!

 発作の起る日の朝のこと、父はわたしに宛てて、フランス語の手紙を書き始めていた。
 『わが息子よ』と、父は書いていた。
 『女の愛を恐れよ。
  かの幸を、かの毒を恐れよ』

 母は、父が亡くなったのち、かなりまとまった金額をモスクワへ送った。

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