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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  23

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  十九


 例の失敗におわった夜中の遠征から、一週間の間にわたしの経験したことを、詳しく話してみろと言われたら、わたしは頗る閉口するに違いない。

 それは、まるで熱病にでもかかったような異様な時期で、えたいの知れぬ混沌を成しており、この上もなく矛盾した感情や、想念や、疑惑や、希望や、喜びや、悩みが、つむじ風のように渦まいていた。

 わたしは、自分の心の中を覗いて見るのが怖かった。
 (ただし、十六歳の少年にも、自分の心の中が覗きこめるものとすればだが)
 何事にせよ、はっきり突き止めるのが怖かった。

 わたしはただ、手っとり早く一日を晩まで暮そうと、あせっていた。
 その代り、夜はぐっすり眠った。
 子供っぽい無分別も、この際だいぶ役に立った。

 わたしは、自分が人から愛されているかどうか、知ろうともしなかったし、人から愛されていないと、はっきり自認するのも厭だった。
 わたしは父を避けていたが、ジナイーダを避けることは、わたしにはできなかった。

 彼女の前へ出ると、まるで火に焼かれるような思いがするのだったが、わたしを燃やし熔かしてゆくその火が、いったいどういう火かということを、別に突き止めたいとも思わなかったのは、ただそうして熔けて燃えてゆくのが、わたしにはなんとも言えずいい気持だったからである。

 わたしは刻々の印象に、身を任せっぱなしにした。
 そして自分に対して狡く立ち回って、思い出から顔をそむけたり、前途に予感されることに目をつぶったりした。

 こうした責苦は、ほうっておいてもおそらく長くは続かなかったろうが、そこへ降ってわいた出来事が、まるで落雷のように一挙にすべてに落着をつけ、わたしの道を切り換えてくれたのである。

 ある日のこと、かなり長い散歩から、昼飯に帰ってみると、驚いたことには、わたしは一人きりで食事をしなければならぬことがわかった。
 父は外出しているし、母は気分が悪いから何も食べたくないと言って、寝室にとじこもっていたのだ。

 従僕たちの顔色から、わたしは何かしら変ったことが起きたなと察した。
 従僕たちに問いただしてみる勇気は出なかったが、幸いわたしには、食堂係の若者でフィリップという仲好しがいた。

 これは熱烈な詩の愛好者で、またギターの名人だ。
 わたしは、この男に訊いてみることにした。
 さて彼の話によると、父と母の間には、すざまじい一場が演ぜられたのだった。
(それは一言残さず女中部屋へ筒抜けに聞えた。
 フランス語をだいぶ使っていたが、小間使のマーシャというのが、パリから来た裁縫師のところに五年もいたので、全部わかったのである)

 母は父の不実を責め、隣の令嬢との交際をなじった。
 父は最初、なにかと弁解していたが、やがてカッとなって、しっぺ返しに、『どうやら奥様のお年のことで』むごい言葉を投げつけたので、母は泣き出してしまった。

 母はまた、公爵夫人にやったとかいう手形のことを持ち出して、さんざん老夫人をこきおろし、ついでに令嬢の悪口まで並べたてたので、父はそこで何やら脅かし文句を叩きつけたそうだ。

 「こんな騒動になりましたのも」と、フィリップは言葉を続けた。
 「もとはと言えば、無名の手紙からでございます。
  誰が書いたものやら、それはわかりませんが、それさえなければ、
  こんな事柄が表沙汰になるわけは、少しもありませんですよ」

 「じゃ、やっぱり、何か事柄があったんだね」とわたしは、やっとのことで言ったが、その間にわたしの手足は冷たくなり、胸のずっと奥の方で何かわななき出したものがあった。

 フィリップは意味ありげに目配せして、
 「ありましたです。
  こういう事は、隠しおおせるものじゃございません。
  旦那様も今度という今度は、ずいぶん用心ぶかくやんなさいましたけれど、
  やはりまあ早い話が、馬車を雇うとか何とか。
  とにかく人手なしでは済まないわけでしてね」

 わたしは、フィリップを下がらせると、ベッドの上にころがった。
 わたしは、咽び泣きに泣きもしなかったし、絶望の俘にもならなかった。

 また、そんな事がいったいいつ、どんな風に起ったのかと自問してみるでもなかった。
 どうして自分があらかじめ、もっとずっと前に察しがつかなかったものかと、それを不審に思うでもなかった。

 父を怨めしいとさえ思わなかった。
 わたしの知った事実は、とうていわたしの力の及ばないことであった。
 この思いがけない発見は、わたしを押しつぶしてしまったのである。

 一切は終りを告げた。
 わたしの心の花々は、一時に残らずもぎ取られて、わたしのまわりに散り敷いていた。
 投げ散らされ、踏みにじられて。

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