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名作を読みませんかコミュのレ・ミゼラブル  ビクトル・ユーゴー 作   豊島与志雄 訳  26

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     十 目をさました男


 大会堂の大時計が午前二時を打った時に、ジャン・ヴァルジャンは目をさました。
 彼が目をさましたのは、寝床があまり良すぎたからだった。

 やがて二十年にもなろうという間、彼は寝床に寝たことがなかったのである。
 そして彼は着物を脱いではいなかったけれども、その感じはきわめて新奇なもので眠りを乱したのだった。

 彼はそれまで四時間余り眠ったのだった。
 疲れは消えていた。彼は休息に多くの時間を与えることにはなれていなかった。

 彼は目を開いた。
 そしてしばし身のまわりの闇《やみ》の中をすかし見たが、次にまた目を閉じて再び眠ろうとした。

 多くの種々な感情が一日のうちに起こった時に、雑多な事が頭を満たしている時に、人は眠りはするが二度と寝つくものではない。
 眠りは再び来る時よりも初めに来る時の方が安らかなものである。

 ジャン・ヴァルジャンに起こった所のものはまさにそれだった。
 彼は再び眠ることができなかった。
 そして考えはじめた。

 彼はちょうど自分の頭の中にいだいてる思想が混沌《こんとん》としているような場合にあった。
 彼の脳裏には一種のほの暗い雑踏がこめていた。

 昔の思い出や近い現在の記憶などが雑然と浮かんで、入り乱れて混乱し、形を失い、ばかげて大きくひろがり、それから忽然《こつぜん》と姿を消して、あたかも泥立ち乱るる水の中にでもはいってしまったかのようだった。

 多くの考えが彼のうちにわいてきたが、絶えず姿を現わして他の考えを追い却《しりぞ》ける一つのものがあった。
 その考え、それをここにすぐ述べておこう。
 彼は、マグロアールが食卓の上に置いた六組みの銀の食器と大きな一つの匙《さじ》とに目をつけたのであった。

 それらの六組みの銀の食器が彼の頭について離れなかった。
 それは向こうにあるのだった。
 数歩の所に。

 彼が今いる室に来るために隣室を通ってきた時にちょうど、年寄った召し使いがそれを寝台の枕頭の小さな戸棚にしまっていた。
 彼はその戸棚をよく見ておいた。

 食堂からはいって来ると右手の方に。
 厚みのある品だ。
 そして古銀の品だ。

 大きい匙《さじ》といっしょにすれば、少なくも二百フランにはなりそうだ。
 それは彼が十九年間に得たところの二倍にも当たる。
 もっとも政府が盗みさえしなかったら彼はもっと儲《もう》けていたではあろうけれど。

 彼の心は、多少逆らいながらもあれかこれかと一時間もの間迷っていた。
 三時が鳴った。
 彼は目を開き、突然半身を起こし、手を伸ばして、寝所の片すみに投げすてて置いた背嚢《はいのう》に触《さわ》ってみ、それから両脚《あし》を寝台からぶら下げて足先を床《ゆか》につけ、ほとんどみずから知らないまにそこに腰掛けてしまった。

 彼はしばらくの間その態度のままぼんやり考え込んでいた。
 寝静まった家の中にただ一人目ざめて闇《やみ》の中にそうしている彼の姿は、もし見る人があったら確かに不気味な思いをしたであろう。

 突然彼は身をかがめて靴をぬぎ、それを寝台のそばの敷き物の上にそっと置いた。
 それからまた考えに沈んだ姿勢に返って、もうじっとして動かなかった。

 その凶悪な瞑想《めいそう》のうちに、われわれが先に述べたところの考えは絶えず彼の頭に出入してかき乱し、一種の圧迫を加えていた。

 それから彼はまた、みずから何ゆえともわからなかったが機械的に執拗《しつよう》な夢想を続けて、徒刑場で知ったブルヴェーという囚徒のことを考えていた。
 その男のズボンはただ一本の木綿の編みひものズボンつりで留められてるきりだった。
 そのズボンつりの碁盤目の縞《しま》が絶えず彼の頭に上ってきた。

 彼はそういう状態のうちにじっとしていた。
 そしてもし大時計が一つ、十五分もしくは三十分を、打たなかったならば、いつまでもおそらく夜明けまでもそのままでいたであろう。
 が彼にはその時計の一つの音が、
 いざ! と言うように聞こえたらしかった。

 彼は立ち上がり、なお一瞬間躊躇《ちゅうちょ》して、耳を澄ました。
 家の中はすべてひっそりとしていた。
 で彼はほのかに見えている窓の方へ真っすぐに小刻みに歩いていった。

 夜は真っ暗ではなかった。
 ちょうど満月で、ただ風に追わるる大きな雲のかたまりがその面《おもて》を流れていた。
 そのために外は影と光とが入れ交じり、あるいは暗くあるいは明るくなり、そして家の中には薄ら明るみが湛《たた》えていた。

 雲のために明滅するその薄明りは、足下を輝《て》らすには十分であって、ゆききする人影に妨げられるあなぐらの風窓から落つる一種の青白い光にも似ていた。

 窓の所へきて、ジャン・ヴァルジャンはそれを調べてみた。
 窓には格子《こうし》もなく、庭に向いていて、その地方の風習に従って小さな一つの楔《くさび》でしめてあるきりだった。

 彼はその窓を開いた。
 しかし激しい寒風が急に室の中に吹き込んだので、またすぐにそれをしめた。
 彼はただながめるというよりもむしろ研究するといったふうな注意深い目付きで庭をながめた。
 庭はわけなく乗り越されるくらいのかなり低い白壁で囲まれていた。

 庭の奥の向こうに、彼は一様の間隔を置いた樹木の梢《こずえ》を認めた。
 それによってみれば、壁はある大通りかもしくは樹の植わった裏通りと庭との界《さかい》になってるらしかった。

 その一瞥《いちべつ》を与えてから、彼はもう決心したもののような行動をした。
 彼は寝所の所に歩いてゆき、背嚢《はいのう》を取り、それを開いて中を探り、何かを取り出して寝床の上に置き、靴をポケットにねじ込み、方々を締め直し、背嚢を肩に負い、帽子をかぶり、その目庇《まびさし》を目の上に深く引きおろし、手探りに杖をさがして、それを窓のすみに行って置き、それから寝床の所に戻ってきて、そこに置いてるものを決然と手につかんだ。

 それは短い鉄の棒に似たもので、一端は猟用の槍《やり》のようにとがっていた。
 その鉄の一片が何用のために作られたものであるかは、暗闇《くらやみ》の中では見きわめ難かった。
 たぶんそれは梃《てこ》ででもあったろうか、またはおそらく棍棒《こんぼう》ででもあったろうか。
 が昼間であったならば、それが坑夫用の燭台にほかならないことがよく認められたであろう。

 当時ときどき囚徒らは、ツーロンを囲む高い丘から岩を切り出すことに使われていた。
 そして彼らが坑夫用の道具を自由に使っていたのは珍しいことではなかった。
 坑夫の使う燭台は分厚い鉄でできていて、下端がとがって岩の中につき立てられるようになっている。

 彼はその燭台を右手に取って、そして息をころし足音をひそめながら、隣室の扉《とびら》の方へやって行った。
 それは既にわかっているとおり司教の室である。
 その扉の所へ行ってみると、彼はそれが少し開いていることを見い出した。
 司教はそれをしめておかなかったのである。

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