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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  20

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 わたしたちは、まもなく散会した。
 ジナイーダは急に物思いに沈んでしまうし、公爵夫人は頭痛がすると言いによこすし、ニルマーツキイはリューマチが痛むと言い出す、といった始末だったからである。

 わたしは、長いこと寝つかれなかった。
 ジナイーダのした話で、激しく心を打たれたのだ。

 『ほんとにあの話には、何か暗示があるのだろうか?』と、わたしは自分に尋ねた。
 『そしていったい誰を、そして何事を、彼女は仄めかそうとしたのだろうか?
  それにしても、暗示すべき事がちゃんとあるとすれば。
  思い切って言い出すことが、できるものかしら?
  いやいや、そんなはずはない』

 わたしは、火照った頬を代る代る枕へ当て変えながら、そうささやいた。
 とはいえわたしは、さっきあの話をした時のジナイーダの顔の表情を思い出し、それから、ネスクーチヌィ公園でルーシンが思わず発したあの叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変ったことまでも思い出して、すっかり訳がわからなくなるのだった。

 「その男は誰か?」これだけの言葉が、闇のなかにくっきりと印されて、わたしの眼の前に立っていた。
 まるでそれは、低い不吉な雲が頭上に垂れこめたみたいな気持で、わたしはその重圧をひしひしと感じながら、それが爆発する時を、今か今かと待ち構えていた。

 近頃になってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。
 彼らのふしだらさや、あぶら蝋燭の燃えさし、欠けたナイフやフォーク、陰気くさいヴォニファーチイ、尾羽うち枯らした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い、そんな奇怪千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。

 だが、今ジナイーダの身に漠然と感じられる或ること、それには何としても馴染むことができなかった。

 「男たらし」と、わたしの母はいつぞや彼女のことを罵った。
 その「男たらし」である彼女が、わたしの偶像であり、わたしの神とあがめる存在なのだ!

 その悪罵が、わたしの胸を焼き焦がした。
 わたしはそれから逃れようと、枕に顔を埋めた。
 わたしは無性に腹が立ったが、同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、どんなことでも承知してみせるどんな犠牲でも払ってみせる、と思った。

 体じゅうの血が燃えたぎった。
 『庭……噴水……』と、わたしは思った。
 『よし、ひとつ庭へ出てみよう』わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した。

 闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、野菜ばたけからは、茴香(ういきょう)の香りが漂ってきた。
 わたしは、何本かの並木道をすっかり歩いてしまった。

 自分の軽い足音が、わたしを当惑させもすれば、励ましてもくれた。
 わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、自分の心臓が早鐘のように高鳴るのに耳をすました。

 やがての果てに、わたしは垣根のそばへ行って細い棒ぐいに倚りかかった。
 と不意に――あるいは、そら耳だったろうか――わたしからつい五、六歩のところを、さっと女の姿がひらめいて過ぎた。

 わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。
 これは何だろう?
 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか?

 「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは言ったが、舌がもつれて、ほとんど聞き取れない声だった。
 また何か物音がした。

 あれは何だろう?
 押し殺した笑い声か?
 それとも、そよぐ木の葉か?
 それとも、耳のすぐそばで漏らされた溜息か?

 わたしは、こわくなった。
 「誰だ、そこにいるのは?」と、わたしは声を低めて、また言った。
 空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。
 空には、一筋、火のような筋がきらめいた。
 星が流れたのだ。

 『ジナイーダ?』と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしの唇で空しく消えた。
 そして突然、あたりのものみな、深い沈黙に沈んでしまった。

 真夜中にはよくあることである。
 木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて、ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。

 わたしは、帰ろうとしては佇み、帰ろうとしては佇みしていたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝床へ帰った。
 わたしは、異常な興奮を感じていた。
 さながら逢引に出かけて行って、結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。

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