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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  217

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 彼は窓際に身を乗り出して、昨日まで死んでいた森が、日の光と風との中に、大洋のように盛り上がって湧きたってるのを見た。
 樹木の背骨の上を、歓喜のおののきのように、風の波が通っていった。

 撓《しな》ってる枝々はその喜びの腕を、光り輝く空のほうへ差し伸ばしていた。
 急湍《きゅうたん》は笑ってる鐘のように響いていた。
 昨日は墳墓の中にあったその同じ景色が、今はよみがえっていた。

 クリストフの心に愛がもどって来るとともに、景色にも生命がもどってきていた。
 聖寵《せいちょう》に触れた魂の奇跡よ!

 その魂は生に眼覚める。
 その周囲でもすべてが生き返る。
 心臓はふたたび鼓動し始める。
 涸《か》れた泉はふたたび流れだす。

 クリストフはまた崇高な戦いのうちに加わった。
 彼自身の戦いのごときは、人間同士の戦いのごときは、この巨大な白熱戦の中に消え失せてしまった。
 そこでは日の光が嵐《あらし》に吹かるる雪片のように雨降っていた。

 クリストフは自分の魂を脱ぎ捨ててしまった。
 夢の中で宙にぶら下がってるのと同じように、彼は自分自身の上方を飛んでいて、事物の全体中に高くから自分をながめた。

 自分の苦しみの意義が、一目でわかってきた。
 彼の闘争は世界の大戦闘の一部をなしていた。
 彼の敗北は些事《さじ》であって、すぐに回復されるものだった。

 彼は万人のために戦っていたし、万人も彼のために戦っていた。
 万人が彼の苦難に与っていたし、彼も万人の光栄に与《あずか》っていた。

 味方の者らよ、敵の者らよ、進み行き、俺《おれ》を踏みつぶせよ。
 勝利を得る砲車の通過を、俺の身体の上に感じさせよ。
 俺は俺の肉体を粉砕する鉄火のことを考えず、俺の頭を踏みつぶす足のことを考えない。

 俺の復讐者のこと、上帝のこと、無敵の軍勢の首長のこと、それを俺は考えている。
 俺の血は彼の未来の勝利のセメントとなるのだ。

 神は彼にとっては、無感無情な創造主ではなかった。
 みずから火を放った都市の火災を青銅の塔の上からながめてるネロ皇帝ではなかった。

 神は苦しんでいた。
 神は戦っていた。
 すべての戦う人々とともに戦い、すべての苦しむ人々のために苦しんでいた。

 なぜなれば、神は生であり、闇の中に落ちてる一点の光明であった。
 その光明は広がって、闇夜をものみつくそうとする。

 しかし闇夜は無際限である。
 そして神の戦いはけっしてやむことがない。
 結果がどうなるかはだれにもわからない。

 それは勇壮なる交響曲であって、たがいに衝突し入り乱れる不協和音までが、一つの清朗な協奏をなしている。
 静寂のうちに奮闘してるぶなの森のように、生は永遠の平和のうちに戦っている。

 その戦いと平和とが、クリストフのうちに鳴り響いた。
 彼は大洋の音を響かす貝殻《かいがら》に似ていた。
 主権的な律動《リズム》に導かれてる、らっぱの呼び声、音響の颶風《ぐふう》、英雄詩的喚声が、通りすぎていった。

 なぜなら、彼の朗々たる魂の中ではすべてが音響に変化した。
 その魂は光明を歌っていた。
 闇黒を歌っていた。
 生を歌い死を歌っていた。

 戦いに勝った人々のために歌っていた。
 打ち負けた彼自身のためにも歌っていた。
 それは歌いに歌っていた。
 すべてが歌っていた。
 もはやそれ自身が歌にほかならなかった。

 あたかも春の雨のように、音楽の奔流は冬に亀裂《きれつ》したこの地面中に吸い込まれていた。
 恥辱も悲痛も憂苦も、今ではその神秘な使命を現わしていた。

 それらのものは土地を分解し、土地を肥やしていた。
 苦悩の鋤《すき》の刃は心を引き裂きながら、生の新たな泉を開いていた。

 荒れ地はふたたび花を咲かしていた。
 しかしそれはもはや昨春の花ではなかった。
 一つの別な魂が生まれていた。

 その魂は刻々に生まれつつあった。
 なぜならば、生長の限界に達した魂のように、将《まさ》に死なんとする魂のように、まだ骨化してはいなかった。

 まだ立像ではなかった。
 溶解してる金属であった。この魂は刻々に新しい世界となされていた。

 クリストフは自己の範囲を定めようとは思わなかった。
 過去の重荷を後ろに投げ捨て、若々しい血と自由な心とで、長い旅に出発して、海洋の空気を呼吸し、終わることなき旅であると考えてる人、そういう人と同じ喜びに彼は身を任した。

 世界に流れる創造力にふたたびとらえられた。
 世界の富が恍惚《こうこつ》の情で彼を満たした。

 彼は愛していた。
 彼は彼自身であるとともに、また隣人でもあるのだった。
 そしてすべてが、足に踏みしだく草から握りしめる人の手に至るまで、みな彼には「隣人」だった。

 一本の樹木、山の上の一片の雲の影、牧場の息吹《いぶ》き、星辰《せいしん》の群がってる騒々しい夜の空。
 それらを見ても血が湧きたった。

 彼は語りたくもなく、考えたくもなく、ただ笑いたく泣きたく、その生ける玄妙のうちに融《と》け込みたいばかりだった。

 書くこと、しかしなんのために書くのか?
 名状しがたいものを書くことができようか?
 しかしそれができようとできまいと、彼は書かねばならなかった。
 それが彼の掟《おきて》だった。

 彼はどこにいても、諸種の観念が電光のように落ちかかってきた。
 猶予してはいられなかった。
 そんなとき彼は、手当たり次第のもので手当たり次第のものの上に書きしるした。

 自分自身から迸《ほとばし》り出るそれらの楽句の意味を、自分でも説き得ないことが多いほどだった。
 そして書いてる間にも、他の観念がつぎつぎに浮かんできた。

 彼は書きに書いた。
 シャツの袖《そで》にも帽子の裏にも書いた。
 いかに早く書いても思想の早さに及ばなかったので、一種の速記法を用いなければならなかった。

 それは奇形な記述ばかりだった。
 それらの観念を普通の音楽形式の中に流し込もうとすると、困難が生じてきた。
 昔の鋳型が一つも適応しないことを彼は見出した。

 自分の幻想を忠実に書き止めようとすれば、これまで聞いた音楽をすべて忘れ、これまで自分が書いたものをすべて忘れることが、まず必要だった。
 学び知った固定形式をことごとく一掃し、伝統的な技巧を一掃し、無能な精神の松葉杖《まつばづえ》を捨て去り、自分で考える労を避けて他人の思想中に臥《ふ》すような人々の怠惰のためにできてる、その臥床《ふしど》を捨て去らねばならなかった。

 先ごろ、彼は自分の生活と芸術との成熟期に達したと思っていたとき――(実は生活の一段階を終えたにすぎなかったのであるが)――そのころ彼は、自分の思想が生まれる以前から存在してる言語でおのれを表現していたのだった。

 彼の感情は以前からでき上がってる発想の論理におとなしく服従していて、その論理が前もって彼に楽句の一部を口移しにしてくれ、公衆が待ち受けてる適宜な用語へ、開けた道を通って彼を従順に引き連れていってくれたのだった。

 ところが今では、もはや道は一つもなく、感情がみずから道を開かねばならなかった。
 精神はただそれについて行くだけのことだった。
 精神の役目はもはや、熱情を叙述することでさえなかった。
 精神は熱情と一体をなさねばならず、熱情の内部の法則を奉じようとしなければならなかった。

 同時に種々の矛盾が落ちかかってきた。
 クリストフはそうだと自認しはしなかったが、もう長い前からそれらの矛盾に悩んでいた。

 彼は純粋な芸術家ではあったが、芸術に関係のない考慮を自分の芸術に交えがちだった。
 彼は自分の芸術に一つの社会的使命をになわしていた。
 そして自分のうちに二人の者がいることに気づかなかった。

 その一つは、道徳上のなんらの目的をも懸念せずにただ創作する芸術家であり、一つは、自分の芸術が道徳的で社会的であることを欲する理屈好きの実行家だった。
 両者は時とするとたがいに相手を妙な困難のうちに陥れ合った。

 ところが今や創作の全観念が、有機的法則をそなえてるすぐれた一つの現実のように、彼へのしかかってきたので、彼は実際的理性の軛《くびき》からのがれたのだった。
 もとより彼は当時の無気力な不道徳にたいしては、軽蔑《けいべつ》の念を少しも失いはしなかった。

 彼がやはり考えていたところによれば、不潔な芸術は芸術の最下等なものであった。
 なぜなら、それは芸術の一つの病気であって、腐敗した木に生ずる茸《きのこ》であった。

 しかしながら、快楽のための芸術は芸術の淫売《いんばい》であるとしても、彼はそれにたいして、道徳のための芸術という浅見な功利主義、鋤《すき》を引いてる翼なき神馬ペガソスを、押し立てはしなかった。

 最高の芸術、芸術たる名に恥ずかしからぬ唯一の芸術は、一時の法則を超越してるものである。
 それは無限界に投ぜられたる彗星《すいせい》である。

 実際的事物の範囲内において、その力が有益なることもあり得るだろうし、無益もしくは危険であると見えることもあり得るだろう。
 しかしそれは力であり、火であり、天より迸《ほとばし》った電光である。

 したがってそれは神聖なるものであり、善をなすものである。
 その善行は幸いにも実際的種類のものでさえあり得る。

 しかしその神聖なる真の善行は、信仰と同じく、超自然的種類のものである。
 この力はそれが発してきた太陽に似ている。
 太陽は道徳的でも不道徳的でもない。
 それは存在する者である。
 それは闇黒を征服する。
 芸術もまた然りである。

 芸術の手に委《ゆだ》ねられたクリストフは、思いもつかない未知の力が自分のうちから迸り出るのを見て、呆然《ぼうぜん》たらざるを得なかった。

 それは、彼の情熱や悲哀や意識的な魂などとはまったく別なもので――彼がこれまで愛し持ち堪えたものとは、彼の全生活とは、無関係な別種の魂であり、快活な奇怪な粗野な不可解な魂であった。

 その魂が彼の上にまたがって、彼の脇《わき》腹を拍車で蹴《け》りつけた。
 そしてときおり、彼は息をつくこともできないで、自分の書き上げたものを読み返しながら、みずから怪しんだ。

 「これはどうしたのか、こんなものが俺《おれ》の身体から出たというのか?」
 彼はあらゆる天才が経験する精神の逆上にとらえられ、意志を脱してる一つの意志、「世界と生との名状しがたき謎」、ゲーテのいわゆる「悪魔的なるもの」にとらえられた。

 彼はそれにたいしてなお武装してはいたが、しかしそれに服従させられた。
 そしてクリストフは書きに書いた。
 幾日も幾週間も書きつづけた。

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