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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  15

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 十二


 日がたつにつれて、ジナイーダは、いよいよますます奇妙な、えたいの知れない娘になっていった。

 ある日、わたしが彼女の部屋へ入って行くと、彼女は籐椅子にかけて、頭をぎゅっと、テーブルのとがった縁に押しつけていた。
 はっと彼女は身を起したが、見れば顔じゅうべったり、涙にぬれていた。

 「まあ、あなただったの?」と、彼女は薄情な薄笑いを浮べて言った。
 「こっちへいらっしゃい」
 わたしがそばへ行くと、彼女は片手をわたしの頭にのせて、いきなり髪の毛をつかむと、ぎりぎり捻じ回し始めた。

 「痛い……」と、やがてわたしは音をあげた。
 「おや!
  痛いって!
  じゃ、わたしは痛くないの?
  痛くないって言うの?」と、彼女は鸚鵡返しに言った。

 「あら!」彼女は、わたしの頭から、ほんの一ふさ、髪の毛をむしり取ったのに気がつくと、いきなり大声をあげた。
 「大変なことをしてしまったわ! 許してね、ヴォルデマールさん!」

 彼女は、むしり取った髪の毛を丁寧にそろえると、自分の指に巻きつけて、小っちゃな輪に編んだ。
 「わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけているわね」
 そう言った彼女の眼には、相変らず涙が光っていた。

 「それで少しは、あなたの気も慰むかもしれないわ。
  じゃ、今日はこれでね」

 わたしが家に帰ってみると、不愉快なことが待ち構えていた。
 母が父を相手に言い合いをしていたのである。
 母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇懃な沈黙をまもっていたが、まもなく外へ出て行った。

 わたしには、母が何をまくし立てていたのか、聞えなかったし、それに、そんな心のゆとりもありはしなかった。
 ただ一つ覚えているのは、言い合いが済んだあとで母がわたしを居間へ呼びつけて、わたしがしげしげと公爵夫人のところに出入りすることについて、大いに不満の意を表し、あれはどんな卑しいこともしかねない女《ユヌ・ファム・カパーブル・ド・トゥー》だと、罵ったことである。

 わたしは母のそばへ寄って、身をかがめてその手にキスすると(これは会話を打切ろうと思う時の、わたしの常套手段だった)、そのまま自分の部屋へ戻った。

 ジナイーダの涙で、わたしはすっかり動転してしまった。
 わたしは、いったいどう考えたらいいものか途方に暮れて、こっちが泣き出さんばかりだった。
 年こそ十六になっていたけれど、わたしはまだほんの赤ん坊だったのである。

 もうマレーフスキイのことなどは、念頭になかった。
 ただしベロヴゾーロフは、日増しにだんだん殺気だっていって、この油断のならない伯爵を、まるで狼が羊をねらうような目つきで睨んでいたが、わたしときたらもう、何事も、誰の事も、てんで考えなかった。

 わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のない寂しい場所ばかり求めていた。
 とりわけ気に入ったのは、あの崩れ落ちた温室だった。

 わたしはよく、そこの高い塀へよじ登って、腰を下ろし、いつまでもじっと坐っていた。
 その自分の姿が、いかにも不幸で孤独で侘しげな一個の若者といった格好なので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。
 そして、そうした悲哀に満ちた感覚が、なんとも言えず嬉しかったのだ。
 わたしはそれに夢中になっていたのだ! ……

 さて、ある日、わたしは塀の上に坐って、遥かかなたに眺め入りながら、鐘の響きに耳をすましていたが、その時不意に、何ものか、わたしの身をかすめて過ぎたものがあった。
 そよ風かと思えば、そよ風でもない。
 さりとて、身震いでもなく、いわばそれは何かの息吹きか、それとも誰かが近づいてくる気配とでも言うか、そんな感じであった。

 わたしは視線を落した。すぐ下の道を、軽やかな灰色がかった服を着て、バラ色のパラソルを肩にして、急ぎ足でジナイーダが歩いていた。
 彼女はわたしに気がつくと、立ち止って、麦藁帽子の縁を押し上げ、ビロウドのような眼でわたしを見上げた。

 「そんな高いところで、何をしてるの?」彼女はなんだか異様な微笑を浮べて訊いた。
 「そうそう」と、すぐまた言葉を続けて、
 「あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。
  そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。
  もし、本当にわたしを愛しているのなら」

 ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小突かれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。
 塀の高さは三、四メートルほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍子に、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。

 わたしはどさりと倒れて、一瞬間、気が遠くなった。
 やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダのいることがわかった。
 「可愛いわたしの坊や」と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。
 その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。

 「どうしてあんたは、こんなことができたの。
  どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。
  わたしだって、こんなに愛してるのに。
  さ、お起き」

 彼女の胸は、わたしの胸のすぐそばで息づき、その両手は、わたしの頭を撫でていた。
 すると、突然、その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう!
 彼女の柔らかなすがすがしい唇が、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。

 やがては、わたしの唇にも触れたのだ。
 だが、そこでジナイーダは、わたしの顔の表情からして、相変らず眼を上げずにはいるものの、もうわたしが意識を取戻したことを察したものと見えて、素早く身を起すと、こう言い放った。

 「さ、起きるのよ、向う見ずなお茶目さん。
  こんな埃の中に、いつまで寝ているつもり?」
  わたしは起き上がった。

 「パラソルを取ってちょうだい」と、ジナイーダは言って、
 「まあわたし、あんな所へ放り出してしまったわ。
  だめ、そんなにわたしの顔を見ちゃ。
  なんてお馬鹿さんなの、あなたは?

  どこか怪我しなかったこと?
  イラクサに刺されて、ちくちくしやしなくって?
  そう言っているのよ、わたしの顔を見ちゃいけないって。
  まあ、この人ったら、なんにもわからないんだわ、返事ひとつしやしない」と彼女は、ひとり言のように言い添えた。

 「早くうちへお帰りなさい。ヴォルデマールさん。
  そして、奇麗にしなさい。
  わたしのあとから、のこのこついて来たりしたら、承知しないわよ。
  そんなことをしたら、もう二度と再び……」

 彼女は、終りまで言いきらずに、さっさと向うへ行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ。
 足がいうことをきかないのだ。
 イラクサに刺された手がひりついて、背中はずきずきするし、頭はくらくらしていた。

 でも、その時わたしが味わったような至福の感じは、わたしの生涯にもはや二度と再び繰返されなかった。
 それは甘美な苦痛をなして、わたしの五体に宿っていたが、やがて法悦はついに堰を切って、わたしは踊り上がったり、わめき立てたりした。

 全く、わたしはまだほんの赤ん坊だったのだ。

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