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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  212

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 家の中はがらんとしていた。
 ベービは外に出かけて、その日の出来事を近所の者たちに話していた。
 時は過ぎていった。
 五時が打った。

 やがてもどってくるアンナのことを考え、来かかってる夜のことを考えると、クリストフはある恐怖にとらえられた。
 今夜はもう同じ屋根の下にじっとしてる力がなさそうな気がした。
 自分の理性が情熱の重みの下にぐらつきだすのを感じた。

 何をしでかすか自分でもわからなかった。いかなる代価を払ってもアンナを得たいということ以外には、何を欲してるのか自分でもわからなかった。
 先刻窓の下を通っていったあの惨《みじ》めな顔のことを思った。
 そしてみずから言った。
 「この俺《おれ》自身から彼女を救い出すべきだ!……」

 意志の力がさっと吹き起こった。
 彼は机の上に散らかってる幾綴《つづり》かの紙を引っつかみ、それを紐《ひも》で結《ゆわ》え、帽子と外套とを取り、外に出かけた。

 廊下で、アンナの室の扉《とびら》に近づくと、恐れに駆られて足を早めた。
 階下に行って、寂しい庭に最後の一瞥《べつ》を投げた。
 そして盗人のように逃げ出した。
 凍った霧が針のように肌《はだ》を刺した。

 彼は見知りの顔に出会いはすまいかと恐れて、人家の壁に沿って行った。
 停車場へついた。ルツェルン行きの汽車に乗った。

 第一の駅で、ブラウンへ手紙を書いた。
 急な用事で数日間町から出かけることになって、かかるおりに彼を打ち捨てて行くのが心悲しいと言い、一つの宿所を指定して、どうか様子を知らしてくれと願った。

 ルツェルンでゴタールド線の列車に乗った。
 夜中に、アルトルフとゲシェーネンとの間の小駅に降りた。

 その駅の名前を彼は知らなかった、永久に知らなかった。
 彼は駅の近くの見当たり次第の宿屋へはいった。

 水溜《た》まりが道をさえぎっていた。
 雨がざあざあ降りしきっていた。
 夜通し降った。
 翌日も終日降った。

 滝のような音をたてて、雨水がこわれた樋《とい》から落ちていた。
 空も地も水に浸って、彼の考えと同じく融《と》け去るかのようだった。

 彼は汽車の煙の匂《にお》いのする湿った夜具にくるまって寝た。
 でもじっと寝ていることができなかった。
 アンナが陥ってるいろんな危険のほうへばかり考えが向いて、まだ自分の苦しみを感ずるだけの隙《ひま》がなかった。

 世間の悪意を転じさせてアンナより他のほうへ向けねばならなかった。
 熱に浮かされて彼は奇怪な考えを起こした。
 町で多少交際を結んでいたわずかな音楽家たちの一人、菓子屋を営んでるオルガニストのクレブスへ、手紙を書こうと思いついた。

 そして、心《ハート》の問題でイタリーへやって行くこと、ブラウンの家へ足を留めたときはすでにその情熱にかかっていたこと、それからのがれようと試みたこと、しかし自分の力は及ばなかったこと、などをクレブスへもらした。

 全体の文面は、クレブスが了解し得るほど十分明白であり、またクレブスが自分の考えでいろいろつけ加え得るほど十分ぼんやりしていた。
 クリストフは秘密を守ってくれと願った。

 そして彼はこの善良な男が病的な饒舌《じょうぜつ》家であることを知っていたし、手紙を受け取るや否や町じゅうに触れ歩くだろうとの期待を――しごくもっともな期待を――いだいていた。
 そしてなお世間の考えをそらさせるために、クリストフはその手紙を、ブラウンとアンナの病気とにたいするごく冷淡な数言で結んだ。

 彼はその残りの夜とつぎの一日とを、凝《こ》り固まった一念のうちに過ごした。
 アンナ……アンナ……。
 彼女と過ごしたこの数か月間の日々を、まのあたりに思い浮かべた。

 彼は彼女を情熱に燃えた幻で包んでいた。
 常に自分の願いどおりの面影に彼女を造り上げて、彼女をいっそう深く愛するのに必要な、精神上の偉大さや悲壮な真心などをもたせていた。

 そういう情熱の虚構は、それを批判する実際のアンナが眼前にいない今では、いっそうの確実性を帯びてきた。
 彼が眼に見てる彼女は、健全な自由な性格であって、周囲から圧迫され、鎖を脱しようともがき苦しみ、うち開けた広々した生活を翹望《ぎょうぼう》し、魂の満々たる大気を翹望し、しかもなおそれを恐れ、自分の本能が自分の運命と一致し得ずに、運命をなおいっそう悲しいものにするので、その本能と闘ってるのだった。

 そして彼に向かって、「助けてください!」と叫んでるのだった。
 その彼女の美しい身体を彼は抱きしめた。

 彼は思い出のために苦しめられた。
 思い出の傷をさらに深めては、痛々しい快楽を覚えた。
 その一日がしだいにたってゆくにつれて、失ったすべてのものにたいする感情がますます痛烈になってきて、彼はもう息をつくこともできなくなった。

 彼は自分でも何をしているのかわからずに、いきなり立ち上がり、室から出て行き、宿屋の勘定を払い、アンナの町へ行く第一の汽車に乗った。

 真夜中に到着した。
 まっすぐに彼女の家へ行った。

 ブラウンの庭に隣接してる庭と通りとの間に、一つの塀《へい》があった。
 クリストフはその塀を乗り越え、他家の庭に飛び降り、そこからブラウンの庭にはいった。
 彼は家と面して立った。

 家はすっかり闇に包まれていたが、ただ一条の夜燈の光が薄黄色い反映で、一つの窓を染めていた。
 アンナの窓を。

 そこにアンナがいた。
 そこで苦しんでいた。

 彼はもう一歩で中にはいれるのだった。
 彼は扉《とびら》の把手《とって》のほうへ手を差し伸べた。
 それから、自分の手を、扉を、庭を、うちながめた。
 にわかに自分の行動を意識した。

 そして、七、八時間以来自分をとらえていた幻覚から覚《さ》めて、ぞっと震え上がり、足を地面に釘《くぎ》付けにしてる麻痺《まひ》の力から、身を引きもぎって飛びのき、塀のところへ駆けてゆき、それをまた越えて、逃げ出した。

 その夜、彼はふたたび町から去った。
 そして翌日は、山間の村落へ、吹雪の下に、自分を葬りに行った。
 自分の心を埋め、自分の考えを眠らし、忘れるのだ、忘れるのだ!……


「霊をもて深き苦悩を抑《おさ》えつつ、
汝《なんじ》起《た》てよかし。霊こそは、肉の重みに
撓《たゆ》まずば、常に戦《いくさ》の勝利者なるぞ。」

予は俄《にわか》に起ち上がりぬ。言葉の気息は
恥のためにいよよまさりて、言いぬ。
「いざ、予は強し、己が役目を果たしみむ。」

    ――神曲、地獄の巻、第二十四章――


 わが神よ、われは汝《なんじ》に何をなしたか?
 なにゆえに汝はわれを圧倒するか!
 幼きころから汝はわれに、悲惨と闘争とを賦与した。

 われは不平を言わず闘った。
 わが悲惨を好んだ。
 汝から与えられたこの魂を、純潔に保たんとつとめ、汝からわがうちに置かれたこの火を、防護せんとつとめた。

 主《しゅ》よ、汝が創《つく》ったものをこわさんといきり立つのは、それは汝である、汝自身である。
 汝はこの火を消し、この魂を汚し、われを生かすものすべてを剥《は》ぎ取った。

 われは世にただ二つの宝をもっていた、わが友とわが魂と。
 もはやわれは何物ももたない。
 汝はすべてを取り去った。

 世の沙漠《さばく》の中において、ただ一人の者がわれのものであった。
 汝はそれを奪い去った。
 われわれの心はただ一つであった。
 それを汝は引き裂いた。
 共に居るの楽しさを汝がわれわれに知らせたのは、たがいに失う悲しみをよりよく知らせんがためのみであった。

 汝はわれのまわりに、われのうちに、空虚を穿《うが》った。
 われはくじけ、病み、意志を失い、武器を失い、闇の中に泣く小児のごとくなっていた。

 その時を選んで、汝はわれを打った。
 あたかも叛逆《はんぎゃく》者のごとくに、足音をぬすんで後ろより来て、われを突き刺した。

 汝はわれに向かって、汝の猛犬を、情熱を、解き放した。
 汝の知るとおりわれに力なく、闘うことを得なかった。
 情熱はわれを打倒し、われのうちのすべてを荒らし、すべてを汚し、すべてを破壊した。

 われはわれ自身が厭《いと》わしい。
 せめてわが悲しみと恥とを、大声に嘆き得たならば!
 もしくはそれを、創作力の奔流のうちに忘れ得たならば!

 しかしわが力はくじかれており、わが創作は干乾《ひから》びておる。
 われは一本の枯れ木にすぎない。

 もし死ぬことができていたならば!
 おう神よ、われを解放し、この身体と魂とをこわし、われを地上からもぎ取り、われを生から根こぎにして、われを穴の中で限りなく藻掻かしめたもうな!

 われは懇願する……。
 われを終わらしめたまえ!

 かように、クリストフの苦悩は、理性が信じていない一つの神を呼ばっていた。

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