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名作を読みませんかコミュのこころ  夏目漱石  76

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  二十三


 「私の座敷には控えの間《ま》というような四畳が付属していました。
  玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、
  ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、
  実用の点から見ると、至極《しごく》不便な室《へや》でした。

  私はここへKを入れたのです。
  もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、
  Kは狭苦しくっても一人でいる方が好《い》いといって、
  自分でそっちのほうを択《えら》んだのです。

  前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。
  下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、
  商売でないのだから、なるべくなら止《よ》した方が好《い》いというのです。

  私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、
  世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭《いや》だと答えるのです。
  それでは今厄介《やっかい》になっている私だって同じ事ではないかと詰《なじ》ると、
  私の気心は初めからよく分っていると弁解して已《や》まないのです。

  私は苦笑しました。
  すると奥さんはまた理屈の方向を更《か》えます。
  そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止《よ》せといい直します。
  なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。

  実をいうと私だって強《し》いてKといっしょにいる必要はなかったのです。
  けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、
  彼はきっとそれを受け取る時に躊躇《ちゅうちょ》するだろうと思ったのです。

  彼はそれほど独立心の強い男でした。
  だから私は彼を私の宅《うち》へ置いて、
  二人前《ふたりまえ》の食料を彼の知らない間《ま》に、
  そっと奥さんの手に渡そうとしたのです。

  しかし私はKの経済問題について、
  一言《いちごん》も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。

  私はただKの健康について云々《うんぬん》しました。
  一人で置くとますます人間が偏屈《へんくつ》になるばかりだからといいました。
  それに付け足して、Kが養家《ようか》と折合《おりあい》の悪かった事や、
  実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。

  私は溺《おぼ》れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、
  Kを引き取るのだと告げました。
  そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。

  私はここまで来て漸々《ようよう》奥さんを説き伏せたのです。
  しかし私から何にも聞かないKは、この顛末《てんまつ》をまるで知らずにいました。
  私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。

  奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何《なに》かをしてくれました。
  すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。
  Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。

  私がKに向って新しい住居《すまい》の心持はどうだと聞いた時に、
  彼はただ一言《いちげん》悪くないといっただけでした。
  私からいわせれば悪くないどころではないのです。

  彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭《にお》いのする汚い室《へや》でした。
  食物《くいもの》も室相応《そうおう》に粗末でした。
  私の家へ引き移った彼は、
  幽谷《ゆうこく》から喬木《きょうぼく》に移った趣があったくらいです。

  それをさほどに思う気色《けしき》を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、
  一つは彼の主張からも出ているのです。
  仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢《ぜいたく》をいうのを、
  あたかも不道徳のように考えていました。

  なまじい昔の高僧だとか聖徒《セーント》だとかの伝《でん》を読んだ彼には、
  ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。
  肉を鞭撻《べんたつ》すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。

  私はなるべく彼に逆《さか》らわない方針を取りました。
  私は氷を日向《ひなた》へ出して溶《と》かす工夫をしたのです。
  今に融《と》けて温かい水になれば、
  自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。

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