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名作を読みませんかコミュの源氏物語  与謝野晶子・訳  72

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 源氏は頭の弁の言葉を思うと人知れぬ昔の秘密も恐ろしくて、尚侍にも久しく手紙を書かないでいた。
 時雨(しぐれ)が降りはじめたころ、どう思ったか尚侍のほうから、


木枯(こがら)しの吹くにつけつつ待ちし間(ま)におぼつかなさの頃(ころ)も経にけり


 こんな歌を送ってきた。

 ちょうど物の身にしむおりからであったし、どんなに人目を避けてこの手紙が書かれたかを想像しても恋人の情がうれしく思われたし、
 返事をするために使いを待たせて、唐紙(からかみ)のはいった置き棚(だな)の戸をあけて紙を選び出したり、筆を気にしたりして源氏が書いている返事はただ事であるとは女房たちの目にも見えなかった。
 相手はだれくらいだろうと肱(ひじ)や目で語っていた。

 どんなに苦しい心を申し上げてもお返事がないので、そのかいのないのに私の心はすっかりめいり込んでいたのです。


あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る


 心が通うものでしたなら、通っても来るものでしたなら、空も寂しい色とばかりは見えないでしょう。

 などと情熱のある文字が列(つら)ねられた。

 こんなふうに女のほうから源氏を誘い出そうとする手紙はほかからも来るが、情のある返事を書くにとどまって、深くは源氏の心にしまないものらしかった。

 中宮は院の御一周忌をお営みになったのに続いてまたあとに法華経(ほけきょう)の八講を催されるはずでいろいろと準備をしておいでになった。
 十一月の初めの御命日に雪がひどく降った。

 源氏から中宮へ歌が送られた。


別れにし今日(けふ)は来れども見し人に行き逢(あ)ふほどをいつと頼まん


 中宮のためにもお悲しい日で、すぐにお返事があった。


ながらふるほどは憂(う)けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地(ここち)して


 巧みに書こうともしてない字が雅趣に富んだ気高(けだか)いものに見えるのも源氏の思いなしであろう。
 特色のある派手(はで)な字というのではないが決して平凡ではないのである。
 今日だけは恋も忘れて終日御父の院のために雪の中で仏勤めをして源氏は暮らしたのである。

 十二月の十幾日に中宮の御八講があった。
 非常に崇厳(すうごん)な仏事であった。
 五日の間どの日にも仏前へ新たにささげられる経は、宝玉の軸に羅(うすもの)の絹の表紙の物ばかりで、外包みの装飾などもきわめて精巧なものであった。

 日常の品にも美しい好みをお忘れにならない方であるから、まして御仏(みほとけ)のためにあそばされたことが人目を驚かすほどの物であったことはもっともなことである。
 仏像の装飾、花机(はなづくえ)の被(おお)いなどの華美さに極楽世界もたやすく想像することができた。

 初めの日は中宮の父帝の御菩提(ぼだい)のため、次の日は母后のため、三日目は院の御菩提のためであって、
 これは法華経の第五巻の講義のある日であったから、高官たちも現在の宮廷派の人々に斟酌(しんしゃく)をしていず数多く列席した。

 今日の講師にはことに尊い僧が選ばれていて「法華経はいかにして得し薪(たきぎ)こり菜摘み水汲(く)み仕へてぞ得し」という歌の唱えられるころからは特に感動させられることが多かった。

 仏前に親王方もさまざまの捧(ささ)げ物を持っておいでになったが、源氏の姿が最も優美に見えた。
 筆者はいつも同じ言葉を繰り返しているようであるが、見るたびに美しさが新しく感ぜられる人なのであるからしかたがないのである。

 最終の日は中宮御自身が御仏に結合を誓わせられるための供養になっていて、御自身の御出家のことがこの儀式の場で仏前へ報告されて、だれもだれも意外の感に打たれた。
 兵部卿(ひょうぶきょう)の宮のお心も、源氏の大将の心もあわてた。

 驚きの度をどの言葉が言い現わしえようとも思えない。
 宮は式の半ばで席をお立ちになって簾中(れんちゅう)へおはいりになった。

 中宮は堅い御決心を兄宮へお告げになって、叡山(えいざん)の座主(ざす)をお招きになって、授戒のことを仰せられた。
 伯父(おじ)君にあたる横川(よかわ)の僧都(そうず)が帳中に参ってお髪(ぐし)をお切りする時に人々の啼泣(ていきゅう)の声が宮をうずめた。

 平凡な老人でさえいよいよ出家するのを見ては悲しいものである。
 まして何の予告もあそばさずにたちまちに脱履の実行をなされたのであるから、兵部卿の宮も非常にお悲しみになった。

 参列していた人々も同情の禁ぜられない中宮のお立場と、この寂しい結末の場を拝して泣く者が多かった。
 院の皇子方は、父帝がどれほど御愛寵(あいちょう)なされたお后(きさき)であったかを、現状のお気の毒さに比べて考えては皆暗然としておいでになった。

 方々(かたがた)は慰問の御挨拶(あいさつ)をなされたのであるが、源氏は最後に残って、驚きと悲しみに言葉も心も失った気もしたが、人目が考えられ、やっと気を引き立てるようにしてお居間へ行った。

 落ち着かれずに人々がうろうろしたことや、すすり泣きの声もひとまずやんで、女房は涙をふきながらあなたこなたにかたまっていた。

 明るい月が空にあって、雪の光と照り合っている庭をながめても、院の御在世中のことが目に浮かんできて堪えがたい気のするのを源氏はおさえて、

 「何が御動機になりまして、こんなに突然な御出家をあそばしたのですか」
 と挨拶を取り次いでもらった。
 「これはただ今考えついたことではなかったのですが、
  昨年の悲しみがありました時、すぐにそういたしましては人騒がせにもなりますし、
  それでまた私自身も取り乱しなどしてはと思いまして」
 例の命婦(みょうぶ)がお言葉を伝えたのである。

 源氏は御簾(みす)の中のあらゆる様子を想像して悲しんだ。
 おおぜいの女の衣摺(きぬず)れなどから、身もだえしながら悲しみをおさえているのがわかるのであった。

 風がはげしく吹いて、御簾の中の薫香(くんこう)の落ち着いた黒方香(くろぼうこう)の煙も仏前の名香のにおいもほのかに洩(も)れてくるのである。
 源氏の衣服の香もそれに混じって極楽が思われる夜であった。

 東宮のお使いも来た。
 お別れの前に東宮のお言いになった言葉などが宮のお心にまた新しくよみがえってくることによって、冷静であろうとあそばすお気持ちも乱れて、お返事の御挨拶を完全にお与えにならないので、源氏がお言葉を補った。

 だれもだれも常識を失っているといってもよいほど悲しみに心を乱しているおりからであるから、不用意に秘密のうかがわれる恐れのある言葉などは発せられないと源氏は思った。


「月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇(やみ)になほや惑はん


 私にはそう思えますが、御出家のおできになったお心持ちには敬服いたされます」

 とだけ言って、お居間に女房たちも多い様子であったから源氏は捨てられた男の悲痛な心持ちを簡単な言葉にして告げることもできなかった。


「大方(おほかた)の憂(う)きにつけては厭(いと)へどもいつかこの世を背(そむ)きはつべき


 りっぱな信仰を持つようにはいつなれますやら」

 宮の御挨拶は東宮へのお返事を兼ねたお心らしかった。

 悲しみに堪えないで源氏は退出した。
 二条の院へ帰っても西の対へは行かずに、自身の居間のほうに一人臥(ぶ)しをしたが眠りうるわけもない。

 ますます人生が悲しく思われて自身も僧になろうという心の起こってくるのを、そうしては東宮がおかわいそうであると思い返しもした。

 せめて母宮だけを最高の地位に置いておけばと院は思召したのであったが、その地位も好意を持たぬ者の苦しい圧迫のためにお捨てになることになった。
 尼におなりになっては后(きさき)としての御待遇をお受けになることもおできにならないであろうし、その上自分までが東宮のお力になれぬことになってはならないと源氏は思うのである。

 夜通しこのことを考え抜いて最後に源氏は中宮のために尼僧用のお調度、お衣服を作ってさしあげる善行をしなければならぬと思って、年内にすべての物を調えたいと急いだ。

 王命婦(おうみょうぶ)もお供をして尼になったのである。
 この人へも源氏は尼用の品々を贈った。こんな場合にりっぱな詩歌(しいか)ができてよいわけであるから、宮の女房の歌などが当時の詳しい記事とともに見いだせないのを筆者は残念に思う。

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