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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  210

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 彼もその話を聞きながら狼狽《ろうばい》して、真実の危険と想像上の危険とを識別することが、彼女よりさらにできなかった。
 人々からあとをつけられてるとは少しも気づいていなかった。

 彼は理解しようとつとめた。
 そして何にも言えなかった。
 そういう敵にたいしては武器がなかった。
 彼はただ盲目的な憤怒《ふんぬ》を感じ、打ちのめしたい欲望を感じた。

 彼は言った。
 「なぜベービを追い出さなかったんですか。」
 彼女は蔑《さげす》んで答えなかった。

 ベービは追い出されたら、大目に見られてるときよりもさらに有害となるはずだった。
 クリストフも自分の問いの無意味なのを悟った。
 彼の考えはたがいにぶつかり合っていた。

 彼は取るべき一つの決心を捜し求め、一つの直接行動を捜し求めた。
 彼は両の拳《こぶし》を握りしめて言った。
 「彼奴《あいつ》らを殺してやる。」
 「だれを?」と彼女はその無駄な言葉を軽蔑《けいべつ》して言った。

 彼は力もぬけてしまった。
 朦朧《もうろう》たる陰謀の網にとらえられるのを感じた。
 そこでは何一つはっきりとらえることができないし、しかもすべての人が陰謀の仲間だった。

 「卑怯《ひきょう》な奴らが!」と彼はがっかりして叫んだ。
 彼は寝台の前にひざまずき、アンナの身体に顔を押し当てて、がっくりとなった。

 二人は口をつぐんだ。
 彼女を守ってくれることも自分自身を守ることもできないこの男にたいして、彼女は軽蔑と憐憫《れんびん》との交じり合った気持を覚えた。

 彼は自分の頬《ほお》に、アンナの膝《ひざ》が寒さに震えるのを感じた。
 窓は開かれたままになっていて、外は冷え凍えていた。鏡のように澄みきった空に、冷たい星のおののくのが見えていた。

 彼女は自分と同様にくず折れた彼を見て悲痛な喜びを味わったのち、疲れたきびしい調子で言った。
 「蝋燭《ろうそく》をつけてください。」

 彼は火をともした。
 アンナは両腕を胸にくっつけ頤《あご》の下に膝を折り曲げて、じっとうずくまりながら、歯をがたがたさして震えていた。
 彼は窓を閉めた。
 寝室の上に腰をおろした。

 氷のように冷たくなってるアンナの足先を両手に取って、それを口や手で温めてやった。
 彼女は心を動かされた。
 「クリストフ!」と彼女は言った。
 彼女は悲しげな眼をしていた。
 「アンナ!」と彼は言った。
 「どうしましょう?」
 彼は彼女をながめて言った。
 「死にましょう。」
 彼女は喜びの声をたてた。

 「ああ、あなたはほんとにそうしたいんですか、あなたもそうしたいんですか?
  私一人じゃありませんのね!」
 彼女は彼を抱擁した。
 「では私があなたを打ち捨てるとでも思っていたんですか。」
 彼女は低い声で答えた。
 「ええ。」

 彼は彼女がどんなに苦しんだろうかを感じた。
 しばらくして、彼は眼つきで彼女に尋ねかけた。彼女はその意を悟った。
 「机の中です。」と彼女は言った。
 「右のほう、下の引き出し……。」

 彼はそこへ行って捜した。
 引き出しの奥に一挺《ちょう》のピストルが見えた。
 それはブラウンが学生時代に買ったもので、かつて使われたことがなかった。

 クリストフはこわれた箱の中に、数個の弾《たま》を見出した。
 彼はそれを寝台のところへもって来た。
 アンナはそれを見て、すぐに壁の裾《すそ》のほうへ眼をそらした。

 クリストフは待った。
 それから尋ねた。
 「もう嫌《いや》ですか。」
 アンナは急に振り向いた。
 「いいえ……早く!」

 彼女はこう考えていた。
 「もうこうなっては、私を永遠の淵《ふち》から救い出してくれるものは何もない。
  どちらにしても同じことだ。」
 クリストフは無器用な手付きでピストルに弾をこめた。

 「アンナ、」と彼は震える声で言った、「どちらかが一人の死ぬのを見ることになります。」
 彼女は彼の手から武器を引ったくって、利己的に言った。
 「私が先に。」
 二人はなお見合った。

 ああ、おたがいのために死のうとするこの間ぎわになっても、二人はたがいに遠く離れてる気がした!
 どちらも慴《おび》えた考えをしていた。
 「いったい私は何をしてるのか、何をしてるのか。」
 そしてどちらも相手の眼の中にそれを読みとった。

 その行為のばかばかしさは、ことにクリストフの心を打った。
 全生活は無益に終わった。
 奮闘も無益、苦しみも無益、希望も無益だった。
 すべてが空費されて風に投げ捨てられた。
 つまらないちょっとした動作で、いっさいが消し去られようとしていた。

 尋常の状態にあったら、彼はアンナの手からピストルをもぎ取り、それを窓の外に放り出し、こう叫んだであろう。
 「いえいえ、私は嫌《いや》です。」
 しかし、八か月間の苦しい悩みと疑惑と哀悼と、なおその上に、狂乱した情熱の突風とは、彼の力を滅ぼし彼の意志をくじいていた。

 彼はもうどうにも仕方ない気がし、もう自分で自分が自由にならない気がしていた……。 ああ、結局、どうだって構うものか!

 アンナは永遠の死を確信していて、自分の一身を生命の最後の瞬間の手に委《ゆだ》ねていた。
 揺《ゆ》らめていてる蝋燭《ろうそく》の火に輝らされたクリストフの痛ましい顔、壁の上に落ちてる影、街路に響くある足音、手に握ってる鉄の感触。

 難破者が遺流物に取りすがってそれといっしょに沈んでゆくように、彼女はそれらの感覚にすがりついていた。
 そのあとでは、すべてが恐ろしくなった。
 もっと待ってはなぜいけないか?

 しかし彼女はみずから繰り返した。
 「ぜひとも……。」
 汽車に乗り遅れはすまいかと気づかって急いでる旅人のようにあわただしく、やさしみのない別れを彼女はクリストフに告げた。

 そしてシャツを押し開き、心臓を探りあて、そこにピストルの銃先《つつさき》をあてた。
 クリストフはひざまずいて、夜具の中に顔を隠していた。
 引き金を引くときに、彼女は左手をクリストフの手にのせた。
 闇夜の中を歩くのを恐《こわ》がってる子供のような動作だった。

 そして、恐るべき数秒が過ぎた……。
 アンナは発射しなかった。
 クリストフは顔をあげたかった。
 彼女の腕をとらえたかった。
 がその動作はかえって彼女に発射の決心を決めさせはすまいかと恐れた。

 彼の耳にはもう何にも聞こえなかった。
 彼は意識を失っていた。
 唸《うな》り声。

 彼は身を起こした。
 見るとアンナは、恐怖に顔の相好《そうごう》をくずしていた。
 ピストルは寝床の上に彼女の前に落ちていた。

 彼女は訴えるように繰り返していた。
 「クリストフ!
  弾《たま》が出ません!……」
 彼は武器を取り上げた。
 長く忘れられてたために錆《さ》びていた。
 しかし作用が狂ってはいなかった。
 おそらく弾薬が空気のためにいけなくなってたのだろう。

 アンナはピストルのほうへ手を差し出した。
 「もうたくさんです!」と彼は嘆願した。
 彼女は命令した。
 「弾《たま》を!」

 彼は弾を渡した。
 彼女はそれを調べて、中の一つを取り、なお震えつづけながら装填《そうてん》し、ふたたび武器を胸にあてがい、そして引き金を引いた。
 ――やはり発射しなかった。

 アンナは室の中にピストルを投げ出した。
 「ああ、あんまりだ、あんまりだ!」と彼女は叫んだ。
 「死ぬことも許されない!」

 彼女は夜具にくるまってもがいた。
 気が狂ったかのようだった。
 彼は彼女を抱き寄せようとした。
 彼女は声をたてて押しのけた。
 しまいに神経の発作に襲われた。

 彼はそのそばに朝までついていた。
 彼女もついに気が静まった。
 しかし息もつかず、眼は閉じ、額やこめかみの骨には、蒼白《そうはく》な皮膚が張りつめていた。
 あたかも死人のようだった。

 クリストフは、乱れた寝床を直し、ピストルを拾い上げ、もぎ取った錠前を取り付け、室の中をすっかり片付けて、そこを去った。
 なぜなら、もう七時になっていて、ベービがやって来るころだった。

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